時の止まった窓辺で

―――人間は忘れる生き物である。



そんなことを聞いたことがある。脳の中の容量には限界があるから、いらない記憶、古い記憶はどんどん消えていくと。

だけど。

心の奥底に深く根強く染み付いている記憶は、どのように忘れられるのだろう?


『―――、俺はお前が、』

『―――、』


あぁ、今日もまたこの夢だ。
ふわふわと浮いて漂うような気持ちよさと、どこか深い深い海のような冷たさを持った夢。


『……もう、これで、』


最後に見えた儚げな色は、果たして何色だったのだろう。







それからお花屋さんは、度々わたしの病室に足を向けるようになった。

「おはよう、名前」

高そうなコートを身に纏い、ゆるりと微笑むその姿は、まるでどこかの貴公子のようだと思った。


―――あの日。
初めてお花屋さんがわたしの病室に現れ、泣いたわたしをそっと抱き締めてくれた日。
気がついたらわたしは寝てしまっていたようで、起きたらもう彼の姿はどこにもなかった。
一瞬、あれは夢だったのではないか、と思った。
だけどそれは違うとすぐに分かった。
ベッド横の小さなローテーブル。
使われることのなかった花瓶。
そこには、キレイな花が挿してあった。
少し潰れてしまった花を見ながら、わたしは彼のキレイな青い瞳を思い出す。

人の目の前であんなに泣いたのは初めてだった。
固く閉ざされていた心。それをじわりじわりと溶かしてしまうような、不思議な力。
お花屋さんは、そんな力を持った人だった。


「……おはようございます」

未だに本当の名前は分からない。
わたしの名前はしつこく聞いてきたくせに、いざわたしがそう聞くと彼は頬を掻きながら困ったように笑ったのである。
「名乗るほどのものでもないよ」と。

「体調はどう?元気だった?」
「いつも通りですけど…って、昨日も来たばかりですよね」

「あぁそうだった」と笑うお花屋さんとは、初めて会ったあの日から随分と気兼ねなく話せるようになったと思う。
どこか大人らしさというか、心の余裕さというか、何というか。
彼のフランクな言動は、わたしの緊張もすぐになくしてしまうものだった。

「今日もキレイなお花ですね」

わたしの部屋の花瓶の水を変えて、新しくお花を挿す彼。
彼が毎回持ってきてくれるお花を見るのが、すごく好きだった。

「何ていう花なんですか?」

茎をそのキレイな真っ白い指で持ち、形を整えるように花を挿す彼の後ろ姿は、何だかとても神秘的なものだった。
わたしはそんな彼を見ながら、その背中に問いかける。


お花屋さんは、とても不思議な人だった。


「え?ええっと……何だったかな。忘れたよ」
「またですか」

花屋を営んでいるはずなのに、花の名前を毎回覚えていなかった。
彼曰く、店にある花を適当に選んで持ってきてくれているらしい。それにしては随分と凝ったような、綺麗な包装をされていた。

「次はちゃんと覚えてきてくださいよ」わたしが笑うと、お花屋さんもつられるように笑った。


「今日は朝愛犬の散歩に行っていたんだよ」
「へぇ。犬を飼っているんですか」
「そうそう。プードルなんだけどね。とても大きい犬だよ」

お花を差し替えてくれたお花屋さんは、椅子に座ってわたしに話しかける。
「こーんなくらい」と両手を広げて大きさを伝えてくれるお花屋さん。
その言動に、わたしは少し笑った。
彼は、雰囲気は大人びているのに、どこか少年らしい人なのだ。

「見てみたいなぁ、そのワンちゃん」
「今度連れてこようか?院内の中庭だったら、もしかしたらペット同伴可かもしれないよ」

わたしにそう提案するお花屋さん。わたしも「会いたい!」と笑顔で言う。
そんなわたしを見て、「わお」とお花屋さんは瞳をパチクリとさせた。ん?わたし、何か変なことでも言っただろうか。

「いや、少し驚いた。そんなに犬が好きなんだね」

ははは、と朗らかに笑うお花屋さんに、わたしは顔が赤くなるのを感じた。
「会いたい!」なんていきなり大きな声で言ったから、きっとわたしにビックリしてしまったのだ。

「犬、ていうかペットは……何だか、憧れていて。理由はくだらないんですけど…」
「ん、聞かせて?君の話なら何でも知りたい」

俯くわたしの手の甲を、するりとお花屋さんが撫でる。
ギュッと拳を握りしめる。

「……窓から外を見ていたとき、子どもたちが楽しそうに犬と遊んでいるのを見て、いいなぁって思っていたんです。でも、絶対叶わない夢だと思っていたんで…」

わたしはチラリと病室内の大きな窓を見る。
太陽の光が差し込むその場所は、わたしにとってまるでお伽話の入り口のような所だった。

あの窓の外は夢。
叶わない、絵本の中のような世界。

そう思いながらわたしは、何度あの窓から外の光景を覗いていたのだろう。

「……て、ごめんなさい。何だか、暗い話してしまって」
わたしははっと我に帰り、慌てて謝る。
拳を握る力が、自然と強くなってしまっているのに気がついた。


「……いいよ。俺が、その夢叶えてあげる」

低く静かに響くその声に、わたしは視線を戻した。
わたしの手をそっと握るお花屋さん。
優しく、その目はわたしを観ていた。

「君があの窓辺で諦めた夢――食べてみたいお菓子、見てみたい本、やってみたいこと、行ってみたいところ。何でも、俺が叶えてあげるよ」

そう言って彼は瞳を窓辺に向ける。
太陽の光は、彼の青い瞳をキラキラと輝かせていた。

「………いいんですか」

それだけしか言えなかった。
胸が、一杯になって、気を抜けば何かが溢れそうだった。

「もちろん」

時間を置かずに言ってくれるその言葉の心強さは、まるでわたしの弱さまでもを包んでくれるような響きだった。

わたしは俯いたまま、口を開く。

「でも、わたし、犬に好かれるか分かりません……」
「あはは、大丈夫だよ。俺の犬は人懐っこいよ。それに、」

言葉の途中で止まってしまった彼に、わたしは首を傾げる。


「それに?」
「………何でもないよ」


そう笑うお花屋さんは、気がついていないのだろうか。


彼の笑顔が、どこかとても寂しそうなことに。









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