貧乏くじの行方

私は音楽の授業が嫌いだ。特に楽器を弾く授業の時はサボってしまいたくなるぐらいには私は楽器を弾くことができなかった。

普通の学校ならその程度のことは笑い飛ばせる問題だがここはかの有名な氷帝学園だ。言わずもがな私立の中でも特にお金持ちな印象を持たれるこの学校はその印象通りで裕福な家庭の人間で溢れている。私もこの学校に通っているのだからそんな人間の一人ではあるのだけれど。

ただ唯一違うことと言えば、他の家ならば一般教養レベルとして扱われる音楽の習い事を私は全く習ったことがなかった。私の興味のないことを親はさせようとしなかったのだ。そして音楽に一切の興味を持たなかった私は今こうしてそれを後悔していた。

そして今、音楽の授業。そして実技はピアノの演奏。何より今回のこの授業で一番嫌なのが、連弾なことだった。ただでさえ出来ない楽器を人とやるのだ。他の人ならある程度いい演奏ができるだろうに私なんかと組むことになっては演奏どころの話ではない。ましてや成績が掛かっているのに迷惑をかけてしまうことを考えたら今すぐ逃げ出したくなる。

「早くしろ。」

教師に急かされ私は箱に手を入れる。誰になっても迷惑をかけてしまうが出来るなら優しくて温厚な人がいい。けれど上手すぎる人は申し訳なくて死んでしまいそうだからある程度の人がいい。そんな我が儘を思いながら思いっきり小さな紙を掴み箱から取り出しゆっくりと開く。

「6番…、6番誰かいる?」

このクラスの人数が奇数だったり休みがいたら1人で出来たかもしれないのにななんて馬鹿なことを考えていると少し遠いところから声が聞こえた。

「あ、俺6番だよ。」
「鳳くん。」
「よろしくね、苗字さん。」
「う、うん。」

よりにもよって何故この人なのですか神様。優しくて温厚という点なら最高な人材ではあるけれど。彼は物凄く楽器を弾くのが上手い。この学校の中で恐らく上位に入るレベルに。そしてなにより彼はテニス部のレギュラーだった。カリスマ性をもつ跡部様率いるテニス部のレギュラーで中学2年とは思えないほど背が高く温厚な性格の彼は同学年に限らず好意を寄せられるのだ。そんな彼と連弾なんて周りの視線が痛くて仕方がない。

「あの、鳳くん。ごめんね、私全然ピアノ弾けないの。」
「そうなの?」
「なんとか楽譜は読めるんだけどね、弾くとなると全然ダメなの。この学校みんな楽器出来るのに、ごめん。」
「え、あ、そんな気にしなくても、俺全然楽器弾けない人達知ってるし、テストまでまだ時間あるから頑張ろう!出来る限り俺もサポートするしって、迷惑じゃなければだけど。」

少し目尻を下げ笑いながら話してくれる彼は本当に噂通りの優しい人なのだと思う。それにしてもこの学校で私以外にも楽器弾けない人なんて居たのか。

「ふふっ、ありがとう鳳くん。」
「頑張ろうね苗字さん。」



「そう、そこは薬指でこう……。」
「えぇっと……。」
「合ってるよ、そのままの調子で。」

あの後私達は毎日昼休みに音楽室に籠るようになった。もうすぐ一週間ほどだろうか。最初の頃に比べれば少しはマシになったとは信じているけれど。

「苗字さん飲み込み早いね。」
「そう?」
「うん、この調子なら明後日の本番も大丈夫だと思うよ。」

そう言いながら優しく微笑まれると本当に大丈夫な気がしてしまうから不思議だ。

「ありがとう鳳くん。毎日昼付き合ってもらって。」
「ううん、楽しいから気にしないで」
「ふふっ、本当にピアノが好きなんだね。」

そう私が言うと一瞬虚を衝かれたような顔をしたと思えば今度は何を言うのか迷っているかのように口を開けては閉め、ついには俯いて口を閉ざしてしまった。私が知る限り鳳くんはおおらかで和かでこんな顔をするとは思っていなかったのだ。何か気に触ることを言ってしまっただろうか。

「鳳くん、どうかした?私気に触ることでも……。」
「ピアノも、好きだけど、苗字さんだから、苗字さんが居るから楽しいんだよ。」

今度は私が虚を衝かれる番だった。私は彼に迷惑しかかけていないと思っていたのに、この時間を少なからず楽しんでいてくれたのか。勿論私も鳳くんとこうやってピアノを弾くのが楽しかったのは嘘ではなかった。少しずつ上手になれて、少しずつ優しく教えてくれて、少しずつ鳳くんのことを知って。この大きくない教室に2人っきりでいるとまるで別世界に居るような感覚にもなった。私にとって鳳くんは高嶺の花ともいえる存在だったのに、こんな近くでこんな風に話すなんて思っていなかったのだ。

「私も、楽しいよ。」

素直に気持ちを伝えることってこんなに勇気が必要だっただろうか。普段ならすんなり出る言葉は思っていたよりも小さく朧げで消えてしまいそうだった。

「本当?」
「うん。」

なんとか私の言葉は鳳くんに届いていたようだ。彼は無意識なのかなんなのかあまりにも嬉しそうに笑うものだから何かの錯覚に陥りそうになってしまう。そんなことは絶対にないのだと、私もただの勘違いだと言い聞かせるしかなかった。そう意識しないようにとすればするほど意識してしまうのは仕方なくて。徐々に上がる体温に自覚するともうこの場所で息をすることができなくなってしまいそうだった。

「もっ、もうチャイム鳴るね!急いで戻らないと、あの、私先に戻ってるね!ありがとうまた明日!」
「えっ、あっ苗字さん!」

私は鳳くんの呼び掛けを聞き終わる前に音楽室の扉を勢いよく閉めた。同じクラスなのだから嫌でも同じ教室に戻るのに、それでもあのまま居れば本当に勘違いをしてしまいそうだった。彼は誰にだって優しいし微笑むのだから、私にだけなんてことは絶対にないのだから。



あの日からはそれはもう出来る限り平然を装うのに必死だった。ただ、鳳くんの顔を見ないように手元をジッと見ていたからそれを真面目に練習してるのかと捉えられたのか、昨日の練習はあまり会話が無かった。それでも居心地が良いと思ってしまうあたり私が重症なのだろうか。それとも鳳くんの雰囲気のお陰だろうか。

「じゃあ次、鳳と苗字。」

そんなことを考えていたらいつの間にか順番が回ってきてしまった。ああ、もう本番なのか。実感すると同時に手が震えだす。喉が乾く。ただの音楽の授業のテストなのに何でこんなに緊張しないといけないのだ。椅子に座るも手が鍵盤まで上がらない。すると鳳くんがこちらを向く気配がした。

「苗字さん。」

優しい声で呼ばれゆっくり鳳くんの方を向くといつもの笑顔をくれた。

「大丈夫。出来るよ、あんなに頑張って練習したんだから。深呼吸して。」

やっぱり鳳くんがそう言って笑ってくれると落ち着いてしまう。大丈夫な気がしてしまう。言われた通り深呼吸をすると随分と体が軽くなったような気がする。ゆっくり腕を上げ鍵盤の上に指を置く。鳳くんの方を見るとそれはもう楽しそうに笑うから私も嬉しくて楽しくてつい笑みが溢れてしまった。



結果としてはまずまずといったところだった。勿論今までの実技テストの中では私の最高点なのだけれど。やはり短い期間だったため完璧に演奏することはできなかった。それでもこんなにピアノが楽しいなんて初めての経験で終わった今も思い出すとついさっきのことなのにまるで夢を見ていたかのような感覚になる。とは言えこれで鳳くんとの連弾は終了した。もう昼休みにあの教室に行くこともあんな風に話すことも無くなるわけだ。何となく寂しいのが正直な気持ちで私はこうやって鳳くんが来ない音楽室に一人やって来ていた。お昼時のこの時間外は騒がしいのにやっぱりこの教室は静かで切り離された感覚になる。ピアノの前に座ると余計胸に寂しさが込み上げてきた。ついさっきまで此処には彼が居たのに、横にいたはずの彼はもう居ない。教室に戻れば会えるけれど話しかける用もない。彼との繋がりは、もう無い。

「えっ、苗字さん?」

余程周りが見えていなかったのか人が入ってくることに気がつかなかった。けれど声を聞けばすぐ誰か分かってしまう。来る理由のないはずの彼が居ることには僅かに驚きは隠せないのだけれど。

「鳳くん。」
「何で泣いてるの?大丈夫?どうしたの?何かあった?」

私の元まで来て本当に焦ったように聞く鳳くんの言葉の意味が理解できなかった。泣いてる?誰が?自分の手を頬に当てると湿っていた。知らないうちに泣いていたようだ。情けない、こんなことで泣くなんて。鳳くんに心配まで掛けて。急いで拭うと鳳くんに腕を握られた。心配そうに見つめる瞳が今の私には辛くて仕方がない。

「擦っちゃダメだよ赤くなっちゃう。」
「大丈夫だよ。気にしないで。何でもないの。ところでどうしたの?忘れ物でもした?」

上手く笑っているつもりだったのだけれど泣いていたのがバレているからか、擦って赤くなっているところが痛々しいからか鳳くんは笑ってくれなかった。そんな顔が見たいわけじゃないのに。

「俺は…うん、忘れ物かな…。」

そう言った割に私の腕を握ったまま動かない鳳くんにどう返せばいいか困りつつ、握られた箇所がジワジワ熱くなっていた。このままだと全てばれてしまいそうだ。

「鳳くん?」

腕を解放して欲しいという気持ちと鳳くんの真意が読めない不安な気持ちが入り乱れた呼び掛けはきちんと届いたようで、鳳くんはゆっくりと顔を上げた。

「俺本当に楽しかったんだ、ここに来るの。ここに来て苗字さんと練習するのが。だから終わったのが寂しくて。」

私とは違う気持ちだけど同じことを真剣な顔で言われてしまい思わず腕を引いてしまう、が優しく握られているにも関わらずビクともしなかった。

「なんとなく此処に来てみたら苗字さんが居て。…ねえ、苗字さんは何で来たの?」
「……。」

そんな事言えるわけがない。私も寂しかったなんて。だって意味が違う。私は鳳くんのことが好きだから。好きだから寂しいのだ。彼は情に厚いから一週間とはいえ一緒に練習した事を思い出にしようとしてくれているのだ。だから私とは違うはずなのに都合のいいように考えてしまいそうになる。

「苗字さんも俺と一緒だったらいいなあ、なんて、思ってます。」
「あの、私……。」

何て答えれば良いのだろうか。正直にいって良いのだろうか。でももし私の気持ちが知られてしまったら今までみたいに普通に話す事も出来なくなってしまいそうで。私は開いた口を再び閉じる事しかできなかった。

「俺、苗字さんが好き。これからも隣に居て欲しい。」

鳳くんは今なんて言っただろうか。好きと言ったように聞こえた。でも鳳くんの前に居るのは私で彼が読んだ名前は私の事で。信じられない気持ちで恐る恐る鳳くんの顔を見ると、照れたように笑っていた鳳くんは嘘をついてるようには到底思えなかった。だからこれは夢なんじゃないかって思いそうになるけれど、胸が痛いほど鳴っていて現実なのだと知らされる。なら私はこの思いを伝えてもいいのだろうか。

「っ、私も鳳くんのことが好きです。」

詰まっていた言葉はいとも簡単に私の口から吐き出され、こんな少ない言葉で鳳くんは見た事がないぐらい嬉しそうに笑ってくれた。私も嬉しくて仕方がない。本当に同じ気持ちだとは思わなかった。これからも一緒にいれるなんて。感極まってさっきとは全然違う涙が頬を伝い、鳳くんはそれを大きな手で優しく掬ってくれた。止まることを知らないぐらい流れるのを飽きもせずに優しく微笑んで。

「これからも隣に居てね。」