バカな子ほど

「イインチョー!」

バタバタと騒がしく応接室の扉を開く人物に心当たりは一人しかいない。書類をしていた草壁も同じことを考えていたようで、またかと呆れた顔をしていた。

「苗字…!」
「廊下は走るな、扉は静かに開けろ、これを君に言うのは何度目だい?」

怒りを募らせて居るであろう低い声の草壁といつも通りの僕の常套句。そして入ってきた苗字名前もまたいつも通りお決まりの台詞を吐くのだ。

「イインチョーに早く会いたくて!」

苗字は何故かやたらと僕に懐いていた。それは草壁とも草食動物達ともまた違う何かであった。無遅刻無欠席見た目は真面目の彼は成績は良いとは言い難く素行は風紀委員の目に付く悪さだ。咎める為に出て行った風紀委員は全員病院送り。風紀委員の面汚しになる前にと腕を買って草壁らが彼を風紀委員に入れたのはそんなに昔の話ではない。

その後彼を入会させることを僕に一応知らせようと草壁は応接室に連れてきた。しかしバカなこの男はどうやら草壁が委員長だと思っていたらしく僕を見た途端殴りかかってきたのには驚かされた。無謀にも殴ってきた彼は他の風紀委員達と比べると確かに強いようだが僕の足元にも及ばない彼は数秒で抑えられた。僕の下で目と口を開きポカンとしていた彼は今思い出しても滑稽だ。彼が懐いたのはその後すぐだった。

しかしこの男、懐いている割に言う事だけは聞きやしない。他の奴らは従順に仕事をこなすと言うのに仕事をしなけりゃ素行の改善も見られない。やることと言えばこうしてバカみたいにはしゃぎながら僕に会いに来るだけだ。少なくともここにいる間は監視が出来ていると思えば本来の目的を達成できているのかもしれないが成績の悪さに変わりはない。

「休み時間の度に来るな、鬱陶しい。」
「イインチョーが出ろって言うから俺ちゃんと授業受けてるんだよ?放課後は下校時間とか言われて追い出されるし、なら俺はいつイインチョーに会えばいいのさ!」
「授業を受けるのは義務だし、仕事してたら追い出さないよ。仕事をしないで邪魔だから追い出してるんだろ。」
「その仕事がイインチョーとならやるけど違うじゃんか!」
「当たり前だろ。何で君なんかが僕と同じ仕事できると思ってるの。」

この男が痛い目を見て学習するような簡単な人間ならどれだけ楽だったであろうか。この男を放置して他の委員に任せていたせいでこのバカが風紀委員になったのなら、僕が直々に最初から徹底的に潰しておけばこんなことにはならなかっただろうか。追い出してもめげずにまたこの扉を開ける事が分かっているせいで無駄な体力を使うことよりもあしらっている方が楽だからと、つい部屋に置いてしまう。

少しでも静かになる様にと僕に淹れるお茶のついでに草壁が苗字の分のお茶を淹れるのも最早いつもの事と化していた。来賓用のお菓子が入っている場所に苗字用のお菓子をこっそりと草壁が置いているのも知っている。それはうるさくして僕の邪魔にならない様に餌付けするためだ。しかし僕にはそれがきちんと役割を果たしているのを見た記憶が無い。食べている間は静かでも無くなればまた騒ぎ出す。本当に、バカな子供の様だ。

「…そろそろ授業始まるけど、戻ったら?」
「ちぇっ…また昼来るから!お昼食べに来るから!」
「来なくていい、教室で食べて。」

騒ぐだけ騒ぎ飲みかけのお茶を飲み切るとバタバタと慌ただしく苗字は応接室から出て行った。律儀にも草壁にお茶の礼をするのを忘れずに。

「ようやく静かになりましたね。」
「……。」

うるさいのが居なくなって仕事をするのに最適になった空間。それなのに何処か拭えない違和感。ペンの動きは止まらないがそれでもいくらか鈍い動きになって居た。思考は分散し、そう、集中できていなかった。

「どうかしましたか?」
「……いや、何でもない。」

それでも仕事は目の前に山の様にあるわけでしない訳にはいかない。草壁の心配を自分に言い聞かせるように否定しまた緩やかにペンを動かす。

そうしてしばらく経つと鳴り響くのはチャイムの音。時計を見ると昼休みに入るものだった。「また昼来るから」そう言った声の主はなかなか扉を開けない。いつもならどうやって来てるのかチャイムが鳴るとほぼ同時に来るのに。

「……何で来ないの。」
「えっ。」
「苗字、昼に来るって言ってたよね。」
「そ、そうですね。でも静かで仕事進みませんか?」

そう草壁が告げるがどうにも釈然としない。むしろ僕の機嫌を何故か悪くする。きっかけは草壁の言葉だとしても原因は不明だ。

「呼び出します…?」

僕の不機嫌さに気づいた草壁だが来ると言った人間をわざわざ呼ぶなんて僕が来て欲しいみたいじゃないか。あんなうるさいのどうでもいいのに。来なくていいんだ。あんな邪魔なもの。そう思えば思うほど煮え滾る何かがとうとうペンの動きを止めてしまう。

「…ムカつくな、咬み殺そうか。」

あんなものさっさと壊して仕舞えば良かったのだ。こんなにも僕を腹立たせるものなんて必要ない。わざわざ動くのは非常に面倒だが他の人にやらせたところで甘い奴らだ、手加減してはちゃんと躾にならない。

「委員長、どちらに…。」
「別に。」

応接室を出てまっすぐ苗字の教室に向かう。廊下は昼休み独特の賑やかさをしていたが僕が歩いていると気付けば静まり返った。しかし外の様子を知らない教室は例外にうるさくあの男のクラスも同様だった。

「邪魔するよ。」
「ひっ、ヒバリさん!?」
「何しに来やがったテメエ!」

このクラスに限っては僕が来てもうるさいのか。面倒極まりない。

「君達に用はないよ。苗字は何処にいる?」
「あぁ?」
「苗字ですか?」

僕の問いかけに意表を突かれたのか二人して目を丸くしたのちに顔を見合わせている。暇ではないのだから無駄な事してないで早くしてほしいのだけれど。そんな事を思っていたら沢田が言いにくそうに口を開いた。

「苗字は………。」





「バカは風邪引かないんじゃなかったの。」

保険医の居ないここには苦しげな呼吸の音しか聞こえない。いつもバカみたいにうるさいのは鳴りを潜め、苦しげに寄せられた眉と僅かに滲んだ汗が体調の悪さを物語って居た。こんな状態の人間を甚振っても何も面白くないし、何よりこの男の姿を見た時からそんな気持ちは無意識的に何処かに消え去って居た。

眠っているベッド側まで寄ると気配に気づいたのか目を覚ます。が、何処かぼんやりとし焦点が合うまで時間がかかっているところを見ると余程体調は悪そうだ。

「…?あ、あれ…イイン、チョ……?」
「何してるの。もう昼休み終わるんだけど。」

あのあと応接室から戻った苗字は嬉しそうに昼休みも行くのだと沢田達に話していたそうだが、授業が終わっても机に突っ伏したままピクリとも動かなかったらしい。いつもなら直ぐに飛び出して行くのにと様子を見たら息も絶え絶えで慌てて保健室に運んだそうだ。

「…えっ、イインチョー!?何でっ、ゴホッ…!」

ようやく意識がハッキリしたのか僕のことを認識すると慌てて起き上がる。けれど己の体調の悪さを忘れて居たのかそんな事をすれば噎せるに決まっている。体調が悪くてもバカはバカらしい。大人しくしとけばいいものを。

「君、昼休みに来るって言ったよね。」
「え、え、ごめんなさい?」

何に僕が怒っているか分からないせいか苗字の謝罪には疑問符がついていた。かくいう僕も自分が何に対してこんなに腹を立てているのか分からないけれど。

「自分が言ったことぐらい守れば。」
「うっ、はい。」
「というか体調管理ぐらいしっかりしろ。バカのくせに何風邪引いてるのバカじゃないの。」
「ごめんなさい…。」
「大体、いつも鬱陶しいぐらいうるさいし邪魔な奴の為に何で僕がわざわざこんな所に来なきゃ行けないんだ。」
「てかイインチョー今日はよく喋るね。」
「君は今日、静かだね。」
「…本当に、どうしたの?俺はもう今日イインチョーに会えないと思ってたから会えて嬉しいけど。何でわざわざ、来てくれたわけ?」

知らない。僕が聞きたいぐらいだそんなこと。いつも邪魔ばかりする癖に。バカみたいに騒ぐことしかしない癖に。それなのに、たかが休み時間に来るって言ったのに来ないだけで一向に仕事が捗らなくなる。理由はやっぱり分からないけれど。

「君が居ないと作業効率が悪い。」
「はぁっ!?ゲホッ…ぅえ、は、え、何。イインチョーまさか…。」
「少しうるさい方がBGMみたいで丁度いいみたいだ。だから君が来ないと仕事が終わらない。」
「へっ…?え、何それ。え?」

ただでさえ赤い顔がさらに赤くなったかと思えば僕の言葉に何処か気になるところがあったのか固まる苗字。かと思えば視線がうろうろと泳ぎだす。

「えぇ〜…そっちぃ?」
「何が。」
「別にいいけどさぁ、イインチョーに来て欲しいって思ってもらえるようになっただけ凄い進歩だけどさぁ。」
「だから、何。」

要領の得ない言葉に萎んだ腹立たしさが再び顔を出す。やっぱり2度とベッドから起き上がれないようにしてやろうか。

「まあ、いいや。イインチョー、俺のBGMが必要な理由ちゃんとその内考えてね。」
「やっぱり要らない。なんかムカつく。」
「えぇっ!?酷くない!?行くよ!?明日からはまたイインチョーに会いに応接室行くから!!」

体調は良くないはずなのにいつもの様にはしゃぐこの男は本当にどこまでいっても頭が悪いのだろう。

「とりあえずさっさと治せば。何にしろ君が来ないと仕事が進まない。」
「っ!大丈夫、これ絶対すぐ治るよ。なんてったってイインチョーがわざわざ会いに来てくれたんだからね!」

頭は有り得ない程悪いのに、それでもどうしてかあの部屋でこの男のうるさい声を聞いていたいと思ってしまうのは僕もバカになってしまったのだろうか。ああでも、そのバカみたいな笑顔は嫌いじゃないな。