快楽主義者の最期の日

薄暗く埃っぽい環境には慣れていた。この場を照らすのは月の光だけだが、周囲を確認するのには充分だ。目的があってこの場には居る。けれど、その目的が達成されなければ良いなんて思っている自分に思わず嘲笑してしまう。

廃ビルを恐れる事なく進む。目的の為に、そしてその目的が見当外れな事を願って。自分も随分と絆されてしまった。頭に浮かぶただ一人の男に、随分と。

今は何階だろうか。地上はもう遠い。同じ様な景色を何度も見た。けれどこの階に来た瞬間から此処だけが違う事は分かっていた。他の階と違う雰囲気が、人の気配がすることに。それは隠せる筈のもので隠さないということは、こちらの動きもバレていてワザと隠していないのだろう。案の定、区切りも分からなくなった部屋の窓に寄り添う様に男は立っていた。

「こんな所で何をしているんですか?」

極めていつも通り、僕は声を掛ける。

「骸こそ、どうしたよこんなところで。」
「解ってるでしょうに。」

外に向けていた視線はゆっくりとこちらを向く。僕に視線が合うと口元は緩りとニヒルな笑みを浮かべる。なんともそういう顔が様になる男だ。

「…戻る気は無いんですか。」
「あると思う?」
「いいえ、全く。」

あると答えてくれればどれだけ良かったか。

「ボスも酷だよなぁ…わざわざ骸を選ぶなんて。それこそ雲雀辺りが来るかと思ってたけど。」
「知りませんからね彼は。確かに知っていれば彼が僕を寄越すことは無かったでしょう。」
「ふーん?それは俺がお前の嫌いなマフィアの一人だから?それとも男同士で恋人だってバレたくなかったから?はたまた……俺とお前の二人だけの秘密にでもしたかったか?」
「…どれも正解でどれも不正解と言ったところでしょうかね。」
「おっ、珍しく素直だ。」
「えぇ、君とこうして話すのもこれが最後でしょうから。」
「………。」

笑みを崩さぬまま再び男は外に目を向けた。その姿はいつもの様に楽しそうにも見える。ああ、これはこういうものだった。

「ボンゴレを、それも君ほどの人が裏切ればこうなる事は分かってたでしょう。」
「それこそ、お前が一番解ってるだろ。」
「此の期に及んで楽しくないから、なんて言いますか。」
「ほら、解ってんじゃん。そうさ、楽しくないから。俺がそれを理由以外に動くと思うか?」
「今回ばかりは否定して欲しかったですね。」

快楽主義のこの男はどこまでもその本能に素直であった。楽しい仕事はする。楽しくない仕事はしない。気紛れな男は楽しいの基準も曖昧でその日の気分で全てを決めてしまう。そんな扱い難いものをどうしてボンゴレに置いていたのか。それは単に実力だ。人を殺す技術だけで言えばボンゴレの中でも群を抜いていただろう。それも実際は彼が楽しむ為だけに磨かれたものだが。

先代9代目は彼の扱いや読みが上手かった、そして今代10代目はそれが下手。たったそれだけの話。仕事がつまらないからとボンゴレをミルフィオーレに売ったのだこの男は。

「白蘭だっけか?あの白いやつ。そいつが俺にピッタリな仕事をくれるって言うからよ。9代目は俺の使い所ってのを解ってたが今のボスは駄目だな。穏健派所の話じゃねえわ。つまんねえ。」
「だからってボンゴレの本部を壊滅させた挙句、幹部を消すまでしますか。」
「思ったよりつまんなかったよ。」
「君のそう言う所は嫌いじゃ有りませんが、今回ばかりは戴けない。相手が悪過ぎましたね。一体何人の追っ手を殺したんですか。お陰で僕にお鉢が回ってきてしまった。」
「あぁ、ここに来るまでは結構楽しかったよ。匣が無かったらちょっと面倒だったかな。でも舐めてるよねぇボスも。雑魚の集団ばっかでさ、数だけ多くてもね。幹部クラス連れて来なきゃ手応えないって。あっ、その幹部ももう居ないんだっけ?」

僕も彼も行動理念は同じだ。己の欲を満たす為、目的を果たす為。マフィアを潰す為、白蘭なんかに世界を自由にされては面白くないから。彼はただ楽しい事が出来るのがマフィアだったから。ただそれだけの単純な事。交わるはずなど無かったのに、何故。

「事が小さく済むならそれで良かったんだろうけど……何せ身内が裏切ったなんて不名誉な事隠したいよなぁ?でも幹部を出せば事は露見する。だから下っ端でカタをつけたかったんだ。まあそりゃ無理な話だな。何せ幹部はとっくに壊滅。となりゃ後は信頼できる外部に任せるしかない。それもボンゴレと関係無さそうに見せかせて因縁のある奴。そして実力も申し分無い奴、雲雀か骸かのどっちかだ。そりゃボンゴレからの仕事ってなったらどっちも嫌がる。けど相手が俺だ。雲雀も割と乗り気になる。」
「えぇ、随分と大変だったみたいですよ。雲雀恭弥の説得は。」
「そしてもう一人は俺と関わってたお前。ま、疑われるよなぁ?お前の日頃の行いだと。だから身の潔白でも証明しろとでも言われたんじゃねえの。まさか本当にそんな理由で動くとは思えねえけどよ。俺とお前の仲だ。それこそ良いってもんだけじゃねえんだから。」

ペラペラとよく喋る口が紡ぐ言葉は全て真実だ。この男は馬鹿じゃない。それでも他人に対しては幾らか鈍感だから僕がここに居る理由に気付かない。

「何でマフィア嫌いのお前が俺みたいな根っからのマフィアと恋人になんてなったんだか。何にせよボスに俺と恋人だーって言えば来なくて済んだだろうに。何で来た。」
「僕にとって君が弱点だからですよ。」
「は…?」
「君は僕にとって唯一の弱点となり得るんですよ。それほど僕は君の事を想ってましたが、知りませんでした?君がボンゴレに捕まれば僕は身動きを取れなくなりますし…何より僕以外に君を殺されるのは面白くない。ボンゴレの指示が無くとも関係なく僕はここに来ましたよ。」
「…知らなかった。」

久し振りに合う目は大きく見開かれており彼の意表が突けたと知る。この男のこういう所が好きだった。快楽主義故かどこまでも無防備で鈍感な所が。どこが根っからのマフィアなのか。

自分の好きなものに素直だから、部外者の僕でさえ気に入れば懐に入れるし内部のものでも気に入らなければ視界に入れない。ボンゴレに属していながらマフィアもボンゴレにも興味がない。ただ都合がいい場所がそこであっただけで。僕といる方が楽しいだとか、幻覚に興味があるだとか、そんなありきたりな事だけれど懐かれて。楽しいと言われ続けて。そんな扱いを受けて絆されない方が難しかった。結局僕も存外ただの人であった。

「まあきっと君は僕の事など玩具の一つとぐらいしか思ってないでしょうけど。……最後にもう一度聞きます。戻るつもりはないですか?」
「ねえよ、何度も言わせんな。もう時間稼ぎも充分だろ。無駄に喋って疲れたんだけど。」
「それはそれは。付き合わせてしまいすみませんでした。」
「建物の包囲…と、幻覚もとっくにか。俺今持ってるの低ランクのリングだけなんだけど。」
「よく言いますよ。これでも良くて引き分けだ。君にリングのランクなんて関係ないでしょう。まあそれでも大量には持ってるんでしょうけど。」
「本当、よく解ってんな俺の事。」
「好きな人の事ですから。」
「ハハッ、あの骸にそこまで言われるとは光栄だね。」
「一つだけ聞いても良いですか。」

じわじわと迫るタイムリミットの中ようやく彼は窓際から離れた。崩れない笑みに隠されているのは、楽しさか焦りか。はたまたどちらでもないのか。ここに来てまだ知らない姿が見える。

「逃げれたでしょう、君なら。」

こんな事になる前にきっとどうにか出来たはずなのに。それだけは理由が解らない。

「逃げても行く場所なんてねえよ。元々仕事は受けても白蘭のとこに行く気はねえ。俺は玩具にしてもされる気はねえし。追いかけっこにも飽きてきたところだ。」
「…そうですか。なら、もうこのくだらない会話も終わりにしましょう。君が楽しめる状況になればいいです、ね!」





「……は?」
「……っ、」
「何、してるんですか、何で…何で避けなかった!!」

血溜まりに立っていたのは僕だった。

「何がしたいんですか君は!!」

彼ほどの男なら僕の攻撃など避けれた筈なのだ。たとえ幻覚に惑わされていたとしてもそれさえも楽しめるこの男なら。なのに何故。

「何で…!」

快楽主義の男がこんな風に地に伏せている姿は初めてでらしくもなく激情に呑まれる。それも自分の手によってだと言うのだから。

「はっ…、ボンゴレに、居座ってお前と…居るか………ボンゴレぶっ潰して……お前と居るか。」
「何を言って、」
「帰る場所、なんて…そこしか…なかった……。」
「っ、黙りなさい……本当に、死にますよ。」
「でもお前に殺される……ってのも案外悪く、ねえなぁ………。」
「そっ、んなことで、逃げなかったのか、君は!」

喉が焼けるように痛い。きっと彼の方がずっと痛いはずなのに、僕の方が酷い顔をしているのが彼の目に映った。今になってそんなこと知りなくなかった。

「……骸も、馬鹿だよなぁ……。」
「喋るな…!」
「お前の、こと…玩具なんて思ったこと、ねえよ。」

本当は必死な僕の顔を見て楽しんでるんじゃないのか。なんて有り得そうな事を思う。いや実際その通りなのだろう。ただこの時を迎える為だけの逃避行。

「好きだぜ、骸……最後まで、楽し、かっ……………。」
「最高の、褒め言葉…ですね。」

快楽主義の男は、最後まで自分の欲の為に働き僕までをも巻き込んでいった。楽しむ為だけにクーデターを起こし追っ手を掻い潜り僕が来るように仕向けて。思い付きでただ楽しそうだからと僕に殺されることを勝手に決めて。どこまでも一途で自己中心的な男だった。楽しそうな顔をした彼を見るのが好きだったのに。

「……僕はこれから、何を楽しめばいいって言うんですか……名前。」

快楽主義者は一人楽しそうに死んでいった。ただ僕に呪いだけを残して。