濡れ鼠の足跡

厚い雲が空を覆い世を暗くしていた。降る雨は冷たく刺さる。まだ冬の冷気が残る初春の寒さがそれをまた助長させていた。

明日を卒業式に控えたこの日。部活動も委員会も無いこの静まり返った校舎を最後に見納めて迎えの車に乗り込む。この3年間色々な事があった。楽しいこと悔しいこと、それを表に出さずとも俺はきっとあいつらと同じ時を共有していた。しかし卒業しても殆ど変わらない人間が同じ高等部に進むためさほど今までと変わらない生活になる。そう思っていた。

車の窓ガラスを叩きつける雨で外の風景は見にくくなっていた。しかし手持ち無沙汰なため外を眺めているしか無い。ぼんやりとしていたら視界に人間の影が見えた。女の、それもこんな雨の中傘も差さずに。俺にはその女に見覚えがあった。見間違えで無ければあいつは…

「悪い、止めてくれ。」

俺は性急に車を止めさせ運転手に何か言うわけでもなく傘を手に持ち車から飛び出した。近付けば女はやはりあいつであった。大きめの傘に俺の体とこいつの体はすっぽりと収まる。

「おい、何してんだ。」
「…あ、とべ。」

その顔に何時もの笑顔はなく最早生気さえ感じれなかった。こいつのこんな顔を見るのは初めてのことだった。いつだって笑顔で堂々としていて真っ直ぐな人間だった。何かあったのは一目瞭然だ。

「何があった。あいつはどうした。」
「っ……、知らなかった、



…私、知らなかった……も、う…もう私と居られないって、別れよって、何で……



侑士、大阪に帰るなんて知らなかった…!!」

苗字は忍足と中二の夏頃から付き合っていた。お互い好きになるのは早かったらしく予想が正しければ中一の夏になる前から想い合っていたのではないだろうか。それから一年と少し周りの人間からしたらもどかしくて仕方がなかった。ようやく付き合ったかと思えば周りがうんざりするぐらい上手くいっていた。こいつらは何があっても2人で乗り越えていくのだと一生共に過ごしているのだと思っていた。

「お前、知らなかったのか。」
「跡部は知ってたの!?知ってて何も言わなかったの!?」
「俺があいつの進路に口出す筋合いはねえし……お前も聞いてると思ってた、多分全員…。」

タガが外れたのか苗字の大きな瞳に溜まっていた涙はとうとう溢れ出しダムが決壊したようだった。喉は引き攣り声を抑えきることもできずにいた。

俺たちは全員こいつらは離れていてもやっていける自信があるからいつもと変わらない日常を送っていたのだと思っていたが間違いだったらしい。現に苗字は今日この日になるまで一切忍足の口から転校の話は聞かなかった。更には噂も上手く彼女に回らないようにしていたのだろう。転校のことは早くから決めていたに違いない。俺たちに知らされたのは夏が終わる頃だった。送別会も要らない、ただ苗字には自分で言うから黙っていてくれ。それだけがあいつの望みであった。

望み通り送別会も行わず数日前にプレゼントを各自渡すだけという何とも味気ない別れ。明日の卒業式が終わり数日もしないうちにあいつは大阪。苗字とは連絡を取り合ってたまに会う。そんな予定なのだろうと俺は思っていた。そんな予想を裏切りこの2人はさっき別れたという。何故忍足が遠距離であるということだけで諦めたのか俺には皆目見当もつかない。

本当に愛し合っていたのだこの2人は。しかし誰も入り込むことが出来ないそこに憧れる人間も多数いた。それはあまりにも馬鹿らしかった。叶うはずのないものを持ち続けることはあまりにも苦痛である。

「…どうするんだ、家帰るか?一旦俺の家で休んで行ってもいいが。」

流石にこの雨の中、しかもことがことなだけに放っておくこともできずに問う。苗字は小さな手で俺の降ろされた腕の袖口を控えめにつまむ。それは自宅ではなく俺の家に寄るという意味だと解釈し、未だ泣き止まない苗字の手を握り車に戻る。手は雨で冷えている筈なのに熱く感じたのは自分の手の所為だろうか。



「ホラ、風邪ひくからさっさと拭け。」

タオルを手渡そうとするも俺の手からタオルは取られない。仕方なくタオルを苗字の頭の上に置き髪を絡ませないように撫でる。

「……たい…。」
「あ?」
「痛い……。跡部、痛いよ…。」

止まったかと思った涙はまた流れ出す。俺が髪を拭いてやっている間ずっと流れる涙はカーペットに染みを作るもすぐ消えた。

「…何で、何も言ってくれなかったんだろうね。分かんないや。侑士、全部自分の中にしまっちゃうから。試合負けて悔しそうな顔してたのにね、私の前に来たら、堪忍なって、笑うの。私に慰めさせてくれないの。」
「苗字、」
「私じゃ、駄目、だったのかなぁ…。」

いよいよ二度目のダムの決壊だった。そんな苗字を見て俺に湧き上がるのは怒りであった。今こいつはこんなにも忍足を思って泣いているのにあいつは何をしているんだ。ずっと繋いでいた手を離して何がしたいんだ。忍足が苗字を好きだったことに嘘偽りは無いはずだ。もちろん逆も然り。それが何故。

「…好きだ。」

俺がどれだけ願ったかお前に分かるか?俺がどれだけ苗字の横に居たいと願っていたか。何故その手を離した。何故俺の前で弱みを見せた。こんなこと言うつもり一生無かった。こいつらの結婚式に盛大な花を持って俺はこの恋に終止符を打つつもりだったんだ。誰にも知られずにいるつもりだった。それでも今のこいつを見てると溢れる気持ちは止まらない。

「苗字、好きだ。」
「何言って…。」
「お前があいつを好きになるより前から好きだった。」
「こんな、何の冗談。」
「冗談じゃねえよ。言うつもりも無かった。お前はずっと忍足と居ると思ってたからな。」

嗚咽は止まるも流れ続ける涙を掬い上げる。今こいつの何処に俺の入る隙間があるだろう。

「今のお前に付け入る隙もないのは分かってる。だから何も気にするな。」

苗字から見た今の俺はどんな顔をしているのだろうか、ちゃんと笑えてるだろうか。未だ止まらない涙をこれ以上見ていたくなくて俺はこいつの頭を自分の胸に押し当てた。



「おい忍足。」
「なん…」

ゴッ、と鈍い音が部室に響く。

「なっ、跡部!?何してんだよ急に!!」
「これで済ましてやってんだ感謝しろ。」
「何があったか知らないけどさ、何も卒業式の日に殴らなくても…。」
「だから式が終わるまで待ってやっただろ。」

卒業式が終わりHRも終わってテニス部は広い部室に集まっていた。俺は忍足が来た途端殴りかかった。それに対して向日が喚く。忍足は昨日のことを誰にも言わないつもりだ。それは勝手にすればいい。それでもこの怒りだけは抑えきれなかった。俺が、苗字が何も知らないままこいつが大阪に逃げるのだけは許せなかった。俺が忍足を呼んだ時こいつはいつも通りに返事をした。俺に知られていないと思ったからだ。

「何か言うことはあるか。」
「…何も無い……いや、あいつのこと頼むわ。」

腹の中が怒りで煮え滾った。無意識に振りかぶった拳は宍戸によって止められていた。

「やめろって跡部!」
「何でだ!!お前にとってあいつはその程度の奴だったのか!!違うだろうが!!あいつがどれだけお前を…!!」
「俺とお前を一緒にせんといて。俺は跡部とは違う。お前みたいに真っ直ぐやない。俺はお前みたいに直ぐ会ってやれへん。俺らにとったらまだ世界は広すぎる。」



「俺かて一緒に居たかった。でも俺は、あいつの事も自分の事も信じられへんねん。……待っててくれなんて言えるわけないやん。」
「…勝手にしろ。」

それが俺と忍足の中学最後の会話だった。





「ねえ日吉。」
「何だ。」
「跡部部長と苗字先輩って付き合ってるの?」
「…付き合ってはないだろ。」
「でも忍足先輩が大阪に行ってらからよく一緒に居るよね。」
「それは跡部さんが…。」

「おいお前ら、ぐたらねえ話してる暇あるならコート空いてるから入れ。」
「あ、跡部部長。」
「すみません…。」

忍足が大阪に行ってらから二年が経った。2人が別れたことは大騒ぎになる事は無かったが薄々全員が気付き暗黙の了解となっていた。その代わりさっきみたいな噂が流れ始めた。けれど俺は苗字と付き合ってなどいない。あの日以降確かに俺は苗字とよく一緒にいる。けれどそれはあいつを1人にしていたくなかったからだ。笑っていて欲しかったから。俺の努力の甲斐もあってか卒業式前後は力なく笑っていた痛々しい苗字の姿は今はほとんどない。以前の様に華やかに笑ってくれることが増えた。それでも未だ寂しそうな顔を1人の時にしてるのを遠くから見つけてしまう。その顔を見るとまた俺はあいつを1人にしてられなくて近づいて声をかけてしまう。

しかし俺はあの日以降好きだとかそういうことは言っていない。今この距離であいつが笑ってくれるだけでよかった。あいつを助けてやれる今に満足しているのだ。それにまだあいつの中に忍足は残っている。また泣かせるのも嫌だというのもあったが、何よりこいつが忍足を好きな限り俺にはどうしようもないからだ。

「あ。跡部、お疲れ様。」
「苗字。委員会はどうした。」
「早く終わったから今から帰るところ。」
「…少しだけ待ってろ。もうすぐ終わる。」
「うん。」

高一、高二、そして今は高三。少しずつ築き上げてきたものは無意味ではなく最初は俺が近寄っても壁を作っていた苗字も今はある程度受け入れてくれる。素直に善意として家に送ることを許してくれるし休日にも出掛けてくれる。少しでもこいつの寂しさを俺は紛らわせられているのだろうか。



「待たせたな。」
「全然。いつもありがとうね。」
「お前も毎度毎度律儀なやつだな。俺がやりたくてやってんだから気にするなと何度言った?」
「…そう、だね。ずっと言ってくれてた。」

何か引っかかる言い方をする苗字に俺は言葉が出なかった。とてもいい予感とは言えない何かが過る。

「跡部…。」
「何だ。」
「…私、大阪に行こうと思う。」
「っ、は…?何言ってんだお前。」
「日帰りでね!…ちゃんと会って話がしたいの。」
「…そうか。俺に文句言う権利はねえしな。」

自分の想像以上に苗字は未だ忍足を想っていた。あいつが今何をしていてもそれでも苗字は話をしてきちんと区切りを付けたいのだ。その結末がどうなろうともいい。いや、きっとまた昔みたいになるのではないだろうか。

「それでね。」
「あぁ。」
「跡部も来ない?」
「……は?」
「だから、一緒に大阪に行かない?」

奇想天外とはこの事だ。何が楽しくて好きな女の元彼現想い人に会いに行かなくちゃならないんだ。それでも俺が行くことで何か変わるのではないかとも思ってしまう。1人で行かせてまた何も知らないで苗字に何かがあるのは耐えられない。せめて見届けることで自分の気持ちにも区切りを付けられるのではないか。

「はぁ…分かった、行けばいいんだろ。」
「ありがとう跡部。」



そしてその週末。俺たちは大阪に降り立った。日帰りの予定だったから忍足とは早めの時間に待ち合わせている。俺も苗字も変な緊張感があるかと思えば案外苗字は穏やかな顔をしていた。俺もそれにつられて特に思うこともなく和やかに談笑しながら電車に揺られていた。

けれど流石に待ち合わせ場所に付くと苗字の顔は強張った。俺はここまで苗字が何を言うつもりか聞かなかった。聞くのが怖かった。我ながら女々しいと思う。好きな女の幸せを願ってやれないなんて。俺は少し離れた柱にもたれ掛かり事の行く末を見守ろうとしていた。

「名前。」

聞き覚えのあるアルト声が耳に入る。一言二言話した後に2人の視線はこちらに向き苗字は手招きをして俺を呼ぶ。このまま二人に近づかずに終わるつもりが苗字はそれを許してくれない。渋々向かうと忍足は目を見開き俺と苗字を行き来している。

「跡部来るなんて聞いてへんねんけど。」
「あ?お前言ってなかったのか。」
「だって言ったら侑士来なかったでしょ。」
「それは否定出来ひんな……。」

昔のように繰り広げられる会話。何とも無いように送られる言葉の応酬は苗字の性格故だろう。

「で、話って何や?」
「…何も言わせてあげられなくてごめんね。」
「…なんやの急に。」
「私たくさん侑士に助けられてた、ありがとう。でも、私ちゃんとお別れぐらいしたかったよ。行ってらっしゃいって言っておかえりって待ってたかったよ。」
「名前、」
「私本当に好きだったんだよ。」
「…俺も好きやで。」

俺に口を挟む権利も何も無いのは重々承知だ。どれだけ苗字が泣きそうになっていても忍足が悲しげに笑っていたとしても俺にその二人の気持ちは測りきれない。俺にとって苗字が選ぶ道がこいつの幸せで俺の幸せだと思っている。だから俺がここにいても見守ることしかできないのだ。それなのに何故、俺はここにいるのだろうか。何故。

「遅いよ、もう遅いんだよ。私が今ちゃんと笑えるのは跡部のおかげだから、私跡部のこと好きだから。」
「苗字…?」
「私跡部が好きだよ、だから、ちゃんと、ちゃんと侑士にっ…。」

いよいよ堪えきれなかった涙が流れ出した。俺は突然の出来事について行けず体が動かなかった。柄にもなく動揺し、隠せない。

「…遅えんだよ。俺じゃなきゃ待ち草臥れてたぞ。」

ボロボロと落ちる涙を掬い上げる。何度俺はこいつの泣く姿を見ただろうか。

「そっか…跡部なら、安心やな。」
「ハッ、当たり前だろ。俺様を誰だと思ってるんだ。」
「名前。」
「侑士?」
「俺のこと好きになってくれてありがとう。」

止まりかけた涙はまた流れ出す。こいつはどれだけを苗字泣かせれば気が済むのだろう。涙で濡れる苗字はあの日のことを思い出させる。

「また…またみんなで集まろうっ…。」
「ああ、せやな。」
「あぁ。」

掠れた声に僅かな喜びが乗せられる。忍足の、俺たちの身勝手が3年前の楽しい日々を壊していたことに漸く気付いた。けれどまだ取り戻せる。またあの頃みたいに苗字を含めた全員で笑いあえるだろう。早くずっと気まずさを滲ませていたあいつらを安心させてやらなければならない。もう気にしなくて良いと。いっそのこと盛大にパーティでも開いてやろうか。

そんな馬鹿みたいなことを考えながら久しぶりの忍足との会話を弾ませていると帰りの時間が近づいていた。俺は苗字を少し先に行かせ忍足の横に並ぶ。



「忍足、本当に良いのか。」
「跡部がそんなこと気にするなんてな。ええねん。あんま身勝手なことしてこれ以上あいつを泣かせたくないし。」
「確かに次お前か苗字を泣かしたら一発殴るだけじゃ済まさねえな。」
「あれめっちゃ痛かってんで。」
「知るか、自業自得だ。」

戯けて言う忍足に睨みを効かせると肩を上げて躱される。昔からこいつのこういう所が気に食わない。あの時だってそうだ。肝心なところは隠されていた。

「…まあホンマの所言うとな、嬉しかってん。名前が来てくれて。もしかしたらって。でもあかんなぁ、もう俺は過去の人間や。俺のことはもう二度と好きにならんわあれ。」
「あの時お前がちゃんと言ってやれば何か違ったのかもな。」
「ははっもう遅いわ。ほら、そろそろ行ったり。名前待ってるで。」
「あぁ。」
「跡部、ありがとうな。スッキリした。俺忘れたつもりやったけど全然あかんかった。でもちゃんと話したら踏ん切りついたわ。ありがとう。」



「私ね、ずっと引っかかってたの。何も言えずに何も知らずに侑士と別れてずっと。」

人の居ない車両でも小さな苗字の声は俺にしか聞こえない。

「跡部がずっと側に居てくれて、寂しくなくなって。気付いたらずっと一緒で、もし跡部が側に居なくなったらって考えられなくて。」
「ああ。」
「跡部のこと好きだなって思ってもでもどうしても引っかかってて。そんな状態じゃ跡部に何も言えなかったの。でも今日会って話してスッキリした。」
「そうか。」
「私跡部が好きだよ。」

ずっと憧れてた笑顔が俺に向けられている。それだけのことにとてつもない幸福を感じる。こいつを好きになってよかった。どうしようもなく愛おしい。一生を掛けて守ってやりたい。そう思う。

「俺も好きだ。」
「ずっと待ってくれてありがとう。私のこと好きになってくれてありがとう。」

揺れる電車の中で溢れるほどの幸せを噛み締める。3年前、今俺の横にお前がいるなんて思ってなかったんだ。なあ苗字、俺はお前を待ってなんかいない。最初は諦めてさえいたんだ。俺はずっとお前を追っかけていたんだ。俺はお前が歩く道をずっと追っかけていた。あの日からずっと。





濡れた跡を辿って。