「好きです」
 両脚が震える。心臓の音が嫌に響いて鼓膜を突き抜けた。戦慄くくちびるで必死に次の音を紡ぐ。言わなきゃ、早く。だって、練習で疲れてるのに。やっと一日の練習を終えて、くたくたに疲れているところを急に呼び止めて、時間を作ってもらったのは私なんだから。だから、早く。
 そう思っていても口から吐き出す呼吸は音にならない。ぱくぱくと陸に打ち上げられた魚のような動きになるのが滑稽だと真っ白にフェードアウトする思考のなかで何処か思った。咽喉の奥がからからに渇いて張り付いていく感触がする。嗚呼、こんなこと考えている場合じゃない、早く、続きを。
「……な、ので、私で、」
 うまく紡げない。早く言えよ此奴と飽きられているんじゃないか。迷惑を、掛けたいわけじゃないのに。
「わたしで、よかったら……」
 夕陽は疾うの昔に落ちていて薄明かりの街灯が私たちを照らすのみ。時折頬を撫でる風は、秋も深まった季節の所為か些か冷たい。
 薄暗い為に御幸先輩の表情が読み取りずらいのが幸いした。なかなか言葉を紡がない私に苛立ちを湛えた御幸先輩の顔なんて、見たくないから。
「わたしで、妥協、してください」
 言った。ついに言ってやった!
 眦をきつく瞑り視界を閉ざす。手脚の震えと咽喉の渇きは先程と比べものにならないくらい酷くなっていた。どくんどくんと心臓の音が大きく響いて思わず指先を握り締める。掌に爪が食い込むがそんな些細なこと、今の私には関係ない。
 今は、羞恥による逃げ出したい気持ちを押さえ込むのに精一杯で。
 だから御幸先輩の発した音に反応が遅れた。

「ふはっ、」
 一秒一秒が遅く感じられる無音のなか、それを切り裂いたのは先輩の笑い声だった。
「くっ、……ぷぷぷ! ぶははははっ!」
 空気にそぐわないその音に思わず瞠目しお腹を抱え大声で笑う御幸先輩を茫然と見やる。へ、と思わず零れ落ちた疑念の音は小さ過ぎて私にしか聴こえていない。未だひーひー言っているその様を眺めながら嗚呼、この人はこんな風に笑うんだと遠い思考回路で思った。
 だって、こんな風に笑うなんて見たことない。
 いつも練習風景を横目で横切るばかりで御幸先輩がどんな笑い方を、表情をするのかなんて全然知らないから。
「はははは、……お前、"私で妥協してください"なんて告白、聴いたことねーぞ」
「えっ、あ……。 す、いませ」
 頬を焼くように朱が走る。そうだ、私は何と言って告白した?今更ながらに自覚する。私はとんでもない失態を晒してしまったのではないか。初めて間近で見る先輩の姿に、周りに誰も居ない二人きりという状況に舞い上がり動揺した結果がこれだ。穴があったら埋まりたい。誰かいっそのこと殺してくれ。
「いーんじゃねえの?」
「へ……」
 じゃり、と土を踏み締める音がする。薄暗い街灯が一歩近付いた御幸先輩の顔立ちをはっきりさせた。黒縁眼鏡の奥にある琥珀が、私を見詰める。射抜いている。分厚い口唇の口端を上げた先輩から視線を外せない、外させてくれない。
「妥協してやるよ、お前で」
 いつの間にか御幸先輩が随分近い距離に居る。気付かなかった、脳の収容能力を超えて混乱している間に狭めていたらしい。
 私の心臓の位置に不安げに添えられていた右手首を掴み掠めるように唇の端にキスを落とした。
「これからよろしくな」
 にこりと爽やかな笑顔を浮かべて先輩は言う。軽く触れられた口端と、未だ掴まれたままの右手首が尋常でない熱を孕んでいた。

'14.09.19

愛しきれない君のこと

AiNS