御幸がモブ女と結婚しています。


「──汝」
 現実から眼を背けたくて双眸を閉じる。それでも神父の厳かな声が、私の逃避を許さないとでも言うようにつらつらと定例の宣誓を紡いでいく。
「その健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか?」
 誓わないでほしい、と。神父の紡いだ言葉に思わず叫んでしまいそうになった。聞き分けの無い子供のように眼是ない稚子のように「嫌だ」と。駄々を捏ねる子供みたく「結婚なんてしないで」と言ってしまいたかった。それでも咽喉元まで出掛かっていた言葉をぐっと呑み込んで眦をきつく閉ざす。そうじゃないと泣いてしまいそうだ。
 誓いますと脳髄の遠くで聞こえた、聴き慣れた声に息が詰まる。呼吸の仕方を忘れてしまったかのように苦しい。苦しいよ、一也。あの場に立っているのは私が良かった私でいたかった。真っ白なウエディングドレスに身を包みベールをそっと上げる一也の指先の温もりを何度夢見ただろう。彼と共に過ごす未来を幾度となく描いただろう。それでも夢は所詮夢でしかなくて一也が選んだのは手入れのされた栗色のふんわり巻かれた髪と同じ色を持つ大きく純朴そうな双眸を持つ控えめでそれでいて芯の在る女性だった。
 同じような問い掛けをした神父の言葉に高いソプラノ音が誓いますと紡いで。嗚呼次は誓いのキスかと口唇を噛み締める。双眸を開ければ一也がベールを上げている途中だった。隔たりの無くなった距離に二人は照れたような、それでいて嬉々とした笑みを浮かべながらどんどん顔が近付いていく。嗚呼、止めて。
 思い出されるのは幼少期、お飯事で被った布団のシーツをベール代わりに上げる一也の高い体温。ちかいまあすと舌っ足らずな声で笑い合いながら子供の戯れのように軽く触れるだけのキスを交わしたあの日。
 壊れていく、と思った。あの日確かに二人で未来を誓い合ったのに壊れていく。小さい頃に交わした約束なんてと莫迦にされても私と一也は何れ結婚すると信じて疑わなかった。でもそんなものは幻想で。
 少し首を傾げた二人の口唇が重なり合う。背けたい現実を掌を握り締めることで堪えた。これは、私が幼馴染という衰退もしなければ発展もしない関係に甘んじていた罰だ。脳裏にフラッシュバックするのはあの日一也と一度だけ口付けた誓いの証。
 共に過ごしたあの日々が零れ落ちていく。まるで底の空いた砂時計のようにさらさらと落ちて、消えて無くなっていく。口唇を離して幸せそうに微笑む二人を眺めながら心の何処かが凪いでいくのを感じた。震える指先で結婚式の招待状に参加しますと丸を付けた日も今日この日どんな服装で行こうか悩んだ日々も、現実では無いような夢心地の気分で過ごして今やっとこれが紛れも無い現実だと理解した。
 さよならだ。この恋心に終わりを告げる、手放す。茶髪の男の子と並んで歩き此方を振り返る少女の姿を見た気がしてあの子は誰だっけと本当は知っているのに素っ惚けた。
 お祝いの言葉に囲まれ幸せそうに佇む眩しげな二人を眼を眇めて見やる。心の底から笑うことの少ない一也の破顔した表情を見て、好きだったなとふと思った。そう、好きだったんだよ一也。近過ぎて直接伝えたことはなかったけれど。言えば言ってしまえば何かが変わっただろうかなんて出来もしないことを考えて、無駄なことだと考え直して止める。二人、同じ手同じ指に嵌められた銀色に輝くそれが牽制しているようだった。

夢を棄てた話

AiNS