ぺたぺたと歩く音だけが人気の無い静寂な廊下に響き閉ざされた窓から洩れる陽射しは空間を緋色に染まらせた。野球部の掛け声をBGMに階段を上がり少し歩けば其処に在るのは私と先生の逢瀬の場所。
 軽く息を整え、頭上のプレートに国語科準備室と書かれた扉を開く。
 途端に鼻腔を擽るのは開封済みのお菓子箱や空になった苺牛乳から漂う人工的に作られた甘い香辛料と灰皿に積まれた煙草特有の苦い匂い。正反対な其れが入り混じってなんとも云えない匂いとなる。甘党なのに何故煙草を嗜むのかと以前尋ねたときがあった。先生は銜えていた煙草を手にやり灰皿へ灰を落としてから何でだろうなァ、と感慨深そうに云っただけ。レンズ越しに見える深緋色は私を映していなくて遠くの方を見やるだけだった。あの頃は解からなかったけど先生が煙草を嗜むようになったのはきっと。
「……あれ」
 先生?と問い掛けた声は虚しくも人の居ない部屋に響いただけで返してくれる声なんて在りはしない。会議が長引いてるのかな、若しくは糖分補給と思案しソファーに座る。革張りの其れは抵抗するように一度跳ね諦めたように沈んでいく。背凭れへ頭をぶつけ天井の滲みを見詰めた。

「……まだかな」


 瞑目して暫く朦朧(ぼんやり)していると軋んだ音を立てて扉が開く。其方へ視線を向けると先生が居た。先生も私に気付いたのか視線が交差して笑みを溢し此方へと向かう。
「悪ィな、会議長引いちまって」
 結構待ったか、との問い掛けに首を振ってそんなに待ってないよ、と云って笑う。安堵したかのように先生も微笑み頭を数度撫でて隣に座った。先生が居なくてつまらなかったなんて唇を尖らせて不機嫌そうに云えば悪かったってとキスを落としながら抱き締めてくれる。
「先生。 眼鏡痛いから、」
 其れ以上の言葉を紡がなくとも先生は意図を汲み取ってくれたようで机上に眼鏡を置いた。机上に置かれて在る其れを少しだけ見詰めてから視線を戻し先生に抱き付く。すぐに抱き締め返して好きだよ、なんて囁く低音が心地良い。伝わる温もりが夢現のようだ。

 強請れば抱き締めてくれるしキスもくれる。其れ以上の事はしてくれないけど今は其れだけで十分。だから。
 会議に必要な資料が机上に放置されているだとか白衣から薫るフローラルベリーだとか私が此処に居ると解かったときさり気無く抜いた左手に嵌められていた指輪だとか。

――全部知らない振りしてあげる。


聴きたいのは好きだなんて空疎な言葉じゃなくて愛の言葉。

優しくて残酷な人

AiNS