動きが硬直する。ぽかんと開いた口は傍から見たら無様な阿呆面を呑気に晒しているだろうがそんなこと、今の私が気にする余裕などなかった。
 私と対面する男、同じくらいの背丈に赤い炯眼を持つ人物の、普段の切れ長である目つきはなりを潜め私と同じような瞠目を晒している。
──上半身裸で。
 固まったまま視線を頭の先から爪先まで移動させた。がっしりとした首筋に流れるように描かれる鎖骨、硬く隆起した筋肉の乗る腹部は普段から鍛え上げられていることがありありと分かり、しっかりとした上腕二頭筋を持つ腕は腰のスキニーに手を掛け今まさに摺り下ろそうとしている最中。黒いスキニーの隙間から灰色の色が見え、その色が指し示す意味はと考えたところで「おい」と背筋が凍るような低い声が響き渡った。
 はひ、と思わず口から情けない声が零れるが相手は差して気にしていないようで入るなら入れと言われてしまったので恐る恐るオペレーター室へ足を踏み入れる。静かに音を立てて閉まるドアへ無意識に視線を送ってから所在なげに室内を見渡す。
 綺麗に片付いたオペレーター室はここに所属している隊員の几帳面さを表していて、流石だなあと思いつつぐるりと室内を一周させ──端と気付く。
(他の隊員がいない?)
 つまり、今し方お着替えシーンを覗いてしまった(不可抗力だが)この男と、二人きり?
──気まずい。
 もんのすごく、気まずい。
「突っ立ってないで座ったらどうだ?」
「は、はい……」
 気分はさながら蛇に睨まれた蛙だ。どちらがどっち、などと言った問いは愚問だろう。しかし、お着替えシーンを覗かれたというのにこの男、平然としている。いや、別に少女漫画みたいな「きゃ!えっち!」といった反応が欲しいわけではないがせめて何らかの反応をしてくれ。
 ちょこりとソファーに座り逞しい背中を晒け出している男を見つめる。てっきり脱いでいる最中かと思ったのが、ジッパーを上げる音とベルトを嵌める金属音を聞いてどうやら思い違いだったと訂正した。良かった、流石に年頃の男女が密室で相手のストリップシーンに遭遇するのは教育的にどうかと思う。
 白いTシャツを頭からかぶる様子を見やって、私は今もしかしなくとも相当レアな場面が立ち会っているのでは、と今更ながらに気付いた。
 A級第三位隊長にして個人総合三位という華々しい成績を持つこの男、風間蒼也先輩。低身長だがそれを感じさせない高圧的な態度と辛辣な口調、整った顔立ちと鋭い眼孔は女子から好評でありボーダー内人気ランキングにおいて片手の指に収まるほど。
 そんな男の生着替えに遭遇した挙げ句、現在進行形で二人きり。あまつさえ今日のパンツの色まで知ってしまった。
(こっ殺される!)
 誰に、と言わずもがな親衛隊に。
「み、三上ちゃんはどちらに?」
 冷や汗をこめかみに浮かべつつこの状況を打開しようと友人の名を上げる。そうだ、本当なら私は三上ちゃんに会いに来たのだ。宿題で出された問題、しかもよりによって当てられる問題が全く解けず助けを借りようと思っていたのに何処に行ってしまったんだか。
「三上なら家族で予定があるとかで早く帰った」
 まじですか。
「えっと……じゃあ、歌川くんは」
「菊地原と共に個人戦に行っている」
 さいですか。
 頼みの綱、歌川くんまでもが不在だとは! 恨んでやる、フォローの苦労人め。私を風間先輩と二人きりにさせ困らすとは許すまじ。
 攻撃手の憧れ、高嶺の花、雲の上の人。あの風間先輩と二人きり。緊張しない方がおかしい。私がフリーのB級隊員で、三上ちゃんと仲良しで、歌川くんとも良く話して、菊地原くんともまあそこそこに会話をすることからA級第三位である風間隊オペレーター室に足を踏み入れることが許された。作戦室に安易に立ち入れること、その意味が分からないわけではない。
 戦術を練ったりランク戦での動きを話し合ったり外では出来ない機密を話し合う場所。本来なら部外者の長居なんて出来ない空間で、私は良く三上ちゃんと歌川くんと、時々菊地原くんとで他愛もない話をしていた。
 最初のきっかけはなんだったか。そうだ、ボーダー関係者で同じクラスになった三上ちゃんと自然と話すようになって暫くしたある日、三上ちゃんに借りたものをうっかり返すのを忘れていたのに気付いてオペレーター室を訪れ返却して、すぐに帰るつもりでいたけどオペレーター室なんて初めて入った物珍しさからついつい話し込んでしまって、それから何かと理由を付けて訪れる回数が増えていったんだ。
 その回数が二十回にいくかどうか、といったところで最低限の会話しかしていなかったはずの風間先輩に「用がなくともお前の来たい時に来たら良い」と言われ(その頃には理由も歌川くんの八の字眉が見たくてなどという苦しいものだった気がする)、なら遠慮なくとお言葉に甘えている次第。
 普通の人ならばこうもいかないと分かっている。私がフリーの隊員でランク戦に参加しないことから情報が漏れても脅威はないと踏んだのだろう。
 それはそれでなんだか悔しいような気もするがオペレーター室に立ち入れなくなることと比べれば安いものだ。
「そ、そういえば風間先輩と二人きりだなんて初めてですね」
 風間先輩は隊長であり大学生ということもあって私が遊びに来ても不在だったり、隊長会議に出席して場にいないことが多い。だから、二人きりになるなんて初めてのことだった。うう、緊張感からか胃が痛い。あまりの沈黙に耐えきれず思わず話し掛けてしまったがもう少し気の利いた会話を切り出せなかったのか、私よ。
 案の定、風間先輩からは「そうだな」と短い返事しか返って来ず、自分のコミュニケーション能力の低さに平謝りした、心の中で。
「……」
「…………」
「……、」
 どちらが発したものか判別のつかない沈黙が流れる。風間先輩は普段から口数の多いタイプでないため、私が切り出さないとこのまま重い沈黙のみが続くだろう。
「……み、皆がいないならこれ以上お邪魔するとご迷惑でしょうし、帰りますね!」
 帰ろう、それが私の下した結論だった。
 そうだ。私の本来の目的は勉強を教えてもらうこと。その目的が達成出来ないのならここにいても意味はない。早急に代役を見つけなければ。
 ソファーから勢い良く立ち上がる私にちらりと視線を向けた風間先輩が用はなんだ、と問い掛けてきた。
「えっと、学校で出された問題が分からなくて。明日当てられてしまうので教えてもらおうと思ったんです」
「どこだ」
 へ、と気の抜けた間抜けな音が口から出る。そんな私に風間先輩はへそを此方に向け、頭にクエスチョンマークを浮かべる私が分かるよう噛み砕いた言葉でもう一度言う。
「その分からない問題とやらは、どの問題だ」
 それって。もしかして、いや、もしかしなくとも。
「教えてくれるんですか……?」
「当たり前だろう。それとも、俺だと役不足か?」
 その発言にぶんぶんと思い切り首を振って否定する。そんな、滅相もない! 寧ろとてもありがたい申し出だ、あの風間先輩に勉強を見てもらうなんて恐れ多いが寧ろこれはお近付きになるチャンスなのかもしれない。隊員でもないのにオペレーター室に居座り迷惑がられていると思っていたから先輩とは必要最低限の会話しかしていなかったが、勉強を教えてくれる程度には気を許されていると思って良いのだろう。このチャンスを逃すな。これを機に攻撃手上位に上がるコツと、あわよくば風間先輩を師匠に──。

 ▲▼

 と考えていた時期が私にもありました。前言撤回、とんでもなく厳しい。教えを乞うていたのは数学の問題だったが、当てられない問題はいいやと放って置いていたところ目敏く気付いた先輩がご親切に全て解き終わるまで教えてくれた。お陰で私の頭の中には関数や数式やらが今でもぐるぐると踊っている。もう何も考えたくない。
 ぷしゅーと頭から湯気を出し机の上に伏せている私に良く頑張ったなという労いの言葉と共にコトリ、と何かを置く振動が伝わった。緩慢な動きで置かれた物体を見やると私が良く飲む乳酸飲料のパックがある。
「これ……」
「いつもこれを飲んでいるだろう? 全て解けた褒美だ」
 まさか、買いに行ってくれたのだろうか。そういえばこの数式が解き終わるまで待っていろ、と最中に言われ少し席を外していた時間があったような。てっきり何かの呼び出しだと思っていたのに、わざわざ私の好きな飲み物を買いに行ってくれていた?
「あ、りがとうございます」
 お礼を述べながらストローを差し中の液体を飲み始める。なんだろう、このほわほわとした気持ち。さっきまで鬼教官とか思っていてごめんなさい、撤回します。我ながらジュース一本で買収される安い女だと思うが致し方ない。相手はあの、風間先輩だ。
 自他共に厳しく、遠慮ない発言をする男。そんな相手に労いの言葉を掛けられあまつさえ好物の飲み物を記憶してくれた。私の中での風間先輩の株は以前にも増して鰻登りである。
「もう遅い時間だ、送っていく」
「はい!?」
 羽を羽ばたかせ飛んでいた気持ちが一瞬で撃ち落とされた。先輩は今、何と言った?
「気付いていないのか? もう八時だが」
 なんですと。
 慌ててスマホを取り出して電源を入れる。画面に映し出された数字は二十時四分を示していた。こんな時間まで付き合わせていたという現実に打ちひしがれる。私の数学に対する理解のなさに申し訳なさでいっぱいだ、風間先輩もお忙しいはずなのに。
「す、すいません! こんな遅い時間まで付き合わせてしまって……! 今日は本当にありがとうございました、助かりました。急いで帰ります!」
 ばたばたと慌てて教科書やら筆記用具やらを片し始める。あまりに慌てていたからかひっ掴もうとした消しゴムが指先に弾かれ、私の指から逃げるように机を転がり回る。
「あ、」
 ころころと転がるそれを呆然と見つめ、見過いでいる場合じゃないとはっとし、腰を伸ばし今度こそ消しゴムを捕まえようと体を倒す。
 あと数ミリで届く、といった瞬間。白い塊は肌色に埋もれ姿を消した。
「落ち着け」
 ふわりと、低い声が耳元で囁かれるように紡ぐ。現状に把握出来ず双眸をぱちぱちと数度瞬かせてから首を上げて眼前に迫る男のかんばせを見つめた。心なしか口端が上がっている気がする。消しゴムを掴もうとした動きのまま止めてた私の手を掴むとひっくり返し、掌の中にぽんと乗せて男は離れた。
「支度をしろ、ゆっくりで良い」
「は、い……」
 呆然と、気の抜けた返事で此方に背を向ける先輩を眺める。
 なんだ、なんだったんだ今のは。頭の中から先程までの光景が焼け付いて離れない。濃緋の炯眼と視線が交わった一瞬、耳元に残る声音、掌に触れた体温、節榑立った固い指──って私は何を考えているんだ。変態か。
 多分、いや絶対最初に風間先輩の上半身姿を見てしまったせいだ。そのせいでおかしな方向に意識が向いてしまった、そうに違いない。さっきのもただ先輩は親切に消しゴムを渡してくれただけなのに。
 忘れよう。そうだ、それが良い、風間先輩の今日のパンツはグレーだなんて知らない。私は知らない。
 そう決心し、動揺を隠すように緩慢な手つきで帰り支度を始める。そんな私は、風間先輩が家まで送る気満々であるということをすっかり抜け落ちていたのだった。

'16.6.28

その優しさは誰の為

AiNS