飛躍するチェリー
※ネームレス草薙理解は困惑していた。
いつも通り夜九時に就寝し、寝ついていた筈なのだが。いくら頬を引っ張って現実かどうか確かめてみても、見渡す限りの白い壁が広がるこの空間は変わらない。
真っ白いこの空間。何故私はここに居る?
理解はそもそも夜に出歩くなどしない。例外と言えば、自身の人間性が素晴らし過ぎるが故に悪事に手を染めようと、夜遅くのゲームセンターへふみやと入ろうとした時くらいだ。だからこそ、こんな訳が分からない空間にいることが理解出来ない。格好が寝る前に着替えた覚えのあるパジャマであるから尚更だ。
立ち尽くしながら頭を悩ませていると、突然ブゥンという音と共に謎の人物が理解の目の前に現れた。
「なっ」
「ん、ぁえ?」
その人物は腑抜けた声を出しながらも、グラスに一升瓶から日本酒を注いでいる。キャミソールにスウェット生地のショートパンツ、髪はヘアクリップで無造作に纏められ、酔っているのか頬は赤く、とろりと溶けているような目で理解をぼうっと見上げる女。
そう、女だ。
理解は体がカチコチと固まったかの感覚に陥った。こんな腕も脚も露出して、ほぼ下着みたいな格好しているだなんて。なんてふしだらなんだ。初心な理解には目の毒だ。体が沸騰したように熱くなり、及び腰で片足が一歩下がる。
ぴちゃぴちゃと水音が響く。女が持っているグラスに入りきらなくなった酒が溢れているのだ。びしゃびしゃになった手と床に女も気づくと注ぐ手を止める。一升瓶とグラスを床に置くと、濡れた手をぱっと払った。
「うぇ〜、最悪〜」
女は嫌そうに顔を歪めると辺りを見回した。目当てのものが無いことに気づくと、また理解の方を見上げてくる。
「ねぇ、お兄さん〜。拭ける物ない?」
「あ、え、うぇ、あ、ありません!」
「えー、もー」
じゃあ舐めるしかないかぁ、とか言って自身の手をぺろりと舐め出した女。確かにこの空間には手を洗えるような場所も無いし拭き物も無いからして、しょうがないともいえるが。
なんだ、何なんだこの女は。
理解は見てはいけない物を見てしまった気分になって両手で目を覆った。
何なんだこの卑猥な女性は。何なんだこの空間は。何でここに私は居るんだ。
パニックである。
「ねぇ、お兄さん。ここどこぉ?」
「わかりません!!」
「えー。私家に居た筈なのに〜。て言うかお兄さんどなた?」
「草薙理解です!!」
「んじゃ理解さん〜、一緒にお酒飲も?」
四つん這いでふらふらと近づいて来る女に、逃げ腰の理解。女が距離を縮めると、その分理解は距離を取る。それを繰り返していけば理解は次第に壁に追い詰められ、逃げる場所が無くなっていた。
焦る理解に女は近づき目の前まで迫ると、ふらりと立ち上がる。目を潤ませて頭一つ分ほど差がある理解を見上げ、酔いで足元が不安なのか女は壁に手を付く。理解は所謂壁ドンをされていた。
「何で逃げるのぉ?」
「そそそ、そりゃ、こんなふしだらな格好な女性が迫って来たら逃げますよ!」
「んは、ふしだらってなに、私のこと?」
「そうです!」
理解が言うふしだらな格好とは、女の中では唯の部屋着だ。
顔を真っ赤にして目をぎゅっと瞑り、そう叫ぶ理解に女はけらけら笑う。酒臭さに混じり女のシャンプーだろうか、甘い匂いが鼻を掠める。すぐそばにある肌に触れてしまわないよう、理解はびっとりと壁に体をつけた。
「こうやって私に迫って、何をしようって言うんですか!」
「えー、何もしないよ」
「嘘です! 何かする気でしょう! そうやって常に男を惑わせて来たんでしょう!」
女は黙り込んだ。何も言ってこない女に、理解もあれ、と目を開ける。見えた女の表情は据わった目をしていた。
「社会人なってすぐに三年間付き合っていた彼氏と別れ、勤めている会社も居る男性はおじさんか既婚者。毎日毎日残業に休日出勤。休みの日はほぼ寝るだけ。忙し過ぎて出会う暇もない。友人たちは結婚や出産ラッシュ。死んだ目でインスタにいいねを押し、私は寂しく一人暮らしの部屋で気絶するように寝る。休みの日の前日に唯一出来る至福の晩酌タイム中にちょっと寝落ちてたと思ったら、変な空間に飛ばされた女ですが。ここ数年男絡み無いわ!」
ずいと顔を近づける女の気迫に、理解は勢いよくのけ反った。
「ひぃいい!」
「私も彼氏欲しい! 寂しい! 結婚したい! てか会社辞めたい!」
女はそのままうわぁあんと号泣し始めた。大人のマジ泣きに、女の勢いに怖がっていた理解も呆気にとらわれる。女は壁についていた手も引っ込めるとぺたりと座り込んだ。顔が涙でぐしょぐしょである。
流石の理解も同情せざるを得ない。恐る恐るとだが、女の目線に合わせるように座った。
「えっと、あの、元気出してください」
「じゃあ何でも良いからハグして!」
「えぇ!?」
涙を流しつつも、ん、と女は両手を広げて理解を見つめてくる。
ハグ? すなわち抱擁? 私が? この女性を?
理解の頭からはやかんが沸騰したように煙が出始めた。顔を真っ赤に染めてフリーズしている。キャパオーバーだった。
「嫌なんだ」
女はそう言うとまた、大声を上げながら泣き始めた。思考が止まっていた理解はその女の様子に頭が回りだす。
また泣き始めてしまった。泣き止ませる為には、ハグをするしか無い。ハグを――ハグを!?
理解は迷いに迷ったが、泣き続ける女を見てもう何とかなれと自暴自棄な思考に陥った。彼女の背中にあまり触れないように手を回し、少しだけ力を込めて抱き締める。
――あぁ、卑猥な行為をしてしまった。
女の剥き出しな肩は目と鼻の先であるし、体中からいい匂いがする。男とは違う体型は細くて、そして柔らかい。
その状態になって数十秒も経っていないのだが、もう無理だと理解が体を離そうとした。しかし、その前に理解の背中に手が回される。己とは違う体温に、理解の体はピクリと反応した。
「もっとぎゅってして」
「えぇ!?」
泣き止んだのか、女は拗ねた声で理解に甘え始めた。理解の手は女の背中から離れて右往左往し始めるが、女の手が背中に回っているので理解は離れられない。それに加えて女が理解の胸元に顔を押し付けてくる始末。涙のせいで胸元が冷たい。
もう、こんな行為をしたからには責任を取らないと――
理解は覚悟を決めた。女の背中にもう一度手を回し、それはそれはぎゅっと抱き締めた。
「ん、ちょっと苦しい」
「す、すみません!」
強く抱き締め過ぎたようだ。理解はその加減を知らなかったのでしょうがない。慌てて緩めた。
女は落ち着いたのか機嫌が良さそうにふふ、と笑っている。
「あ、ねぇ、理解さんっていくつ?」
「え、えっと二十五ですが」
「ふーん、じゃあ理解くんだ」
「え、それは、ど、どういう」
意味ですか――その言葉はそのまま女が寝落ちたことによって飲み込まれた。この状態で寝落ちた女に理解は戸惑う。寝息まで立てている。
どうすれば、どうすれば良いんだ、どうすれば――
ぐるぐるぐるぐると頭を悩ませていたら理解の視界も暗転した。ぱちりと目を開けると、視界には見覚えがある天井。勢いよく起き上がり辺りを見ると、やはり自分の部屋だった。時計を見れば、時刻は五時半。いつもと変わらない起床時間だ。
まさか、先程までのは夢? 夢であんなふしだらなものを見るだなんて。私はもしや煩悩まみれに?
「秩序を正さなければ……」
理解は朝のルーティンである書き初めを始めるが、何を書こうかと筆が止まる。悩みに悩んで書いた物は"煩悩を払おう"との言葉であった。何かに認めて意識しないと、あの女の匂いや感触を忘れることを努められなそうだったからだ。
身支度を整えて他の住人たちを起こす。いつもは元気いっぱいな理解であるが、今日はほんの少しだけ静かだ。
「なんか理解さん少し元気ないですよね……」
「え? そう? 変わらなくない?」
「いつも通りな気がするけど」
「こんな朝からうるせぇのがおかしいだろ」
「まぁ確かに秩序の足音が少し乱れてる気がしますね」
「秩序の足音が乱れるって何?」
カリスマたちは疑問を抱いたがすぐに思考を放棄した。普通に眠くて頭が回らなかったのだ。理解の背中を見送ると、彼らは二度寝をする為に部屋へと戻ったのであった。
*
その日から数日後。時刻は十七時。理解と依央利は夕飯の買い出しの為にナポレオン商店街へと来ていた。
ここ数日の理解は一度帰宅した後、自分が定めた門限ギリギリまで外出をするという行動を繰り返していた。門限の時間には帰って来るが、元々こんなに外へ出るような人物では無い為不自然だ。話しかけても心ここに在らずといった、ぼうっとした状態であることが多々ある。誰が見ても明らかに理解の様子は変であった。問い詰めようにも、狼狽えた顔をしながらも「何もありませんよ」と否定し続けるものであるから堂々巡りで他の住人たちはヤキモキしている。
今日も別に依央利一人で買い出しに行けるのだが、丁度家を出る際に理解も外出をしようとしていたのと、理解の様子が変過ぎるとのことで一緒について来させたのだ。
「ねぇ理解くん。今日の夕飯は何がいいかな?」
理解からの返事は無い。何やら目線をうろうろとさせて周りを見ることに必死のようだ。
「ちょっとー、理解くん?」
「あ、すみません依央利さん! 何かおっしゃいました?」
案の定聞いてなかったらしい理解に依央利は少し呆れ顔になる。
「夕飯何がいいって、まぁそれはとりあえずいいや。周りをキョロキョロして、何か探してるの?」
「いえ? 何も?」
未だに見渡しながら言うものだから全く持って説得力が無い。依央利は絶対嘘だ、と半目になる。
「ここ数日の理解くん変だよ。何かあったの?」
「何もありませんって! と言うかこの私が変ってどこがですか!」
「え、全部」
「ハァ!?」
青筋を立てた理解だったが、ある一点を見るとそのまま凝視し始めた。大人しくなった理解に、依央利も不思議に思って視線の先を見る。そこには草臥れた表情のOLがコンビニへ入っていく姿があった。依央利が「理解くん探してたのあの人?」と問うよりも前に、理解は早足でそちらへ向かって行っていた。素早いその行動に、依央利は呆然とする。
あの空間で出会った時と格好や髪型、そして薄くだが化粧を施された顔は若干印象が違うが、確実にあの時の女である。前とは異なり目のハイライトは消え去り、疲れ切った雰囲気を纏っているが。
夢では無くて本当に存在しているのでは無いだろうか。そんな根拠の無い勘を信じて、理解はずっと探していたのだ。例の女を。
そしてその勘は気の所為では無かったのだ。己の妄想で作り上げた偶像では無かったのだ。もしや自分は欲求不満なのでは? と悩んでいたのだが、今それが解消された。
その女は栄養食品コーナーの目の前に立ち、商品を死んだ目でじっと見つめている。緩い動きで栄養ドリンクと栄養補給食を手に取るとそのままレジへを向かう。
理解は少し離れたところでそれを眺めていたが、意を決したように自身の頬を叩くと女を出待ちする為に外へと戻った。
「あの!」
コンビニから出て来て歩き始めた女の背中に駆け寄り、理解は声を掛けた。その馬鹿でかい声に、怪訝そうに女は振り返るが、理解の顔を認識した瞬間目をまん丸くさせて固まった。
「り、理解くん?」
「はい。理解です」
女はぱちぱちと瞬きを繰り返すと、途端に頭を抱えた。
「え、待って。夢の住人じゃ無くて実在する人間だったの? え? 理解くん、あのこと覚えてる?」
「えぇ、勿論」
理解には衝撃的なことであったから忘れる筈がない。女はただでさえ悪い顔色を更に真っ青にさせると、土下座でもする勢いで頭を下げた。
「本当にごめんなさい! まさか現実のことだなんて! あの時私、一升瓶を半分くらい飲んでべろべろに酔ってたの」
だから許してと謝る女に、理解はにっこりと笑う。
「えぇ、大丈夫です。この理解、もう覚悟は出来ています。責任を取るという覚悟を」
女は冷や汗をダラダラと流していた。いくら酔っても記憶は残っているタイプなのであるが、理解が言うような責任を取られるような行為をした覚えが無い。私、何かをやらかしてしまって、しかも記憶を吹っ飛ばしているのかと。
「わ、私、理解くんに何をやっちゃったの?」
恥を忍んで聞くしか無いと女が投げた言葉に、理解は顔を赤く染める。
「私に言わせる気ですか!? あのようなふしだらな行為を!」
「だって、私全然心当たりない……」
心底わからないと言いた気な表情をする女に、理解はショックを受ける。この私にあんな卑猥なことをしておいて、覚えてないだって、と。口をわなわなと震わせた理解は、強く両手を握り締めると腹を括って口を開いた。
「ほほほほ、抱擁ですよ!」
「へ?」
「だから、抱擁ですよ! あー! 何てふしだらな行為をしてしまったんだ私は! 責任を取らなければ!」
一人でてんやわんやしている理解に女は困惑していた。聞き間違えじゃなければ、この人、ハグしたからって責任を取ろうとしている。何故? 唯のハグで? ハグしたことは女の記憶にも残っている。その他に何かしてしまったのかと考えていたのに拍子抜けだ。
「ハグだけ? 私がしたこと」
「ハグ、だけ!? ハグですよ、ハグ! 肌と肌が触れるふしだらな行為! こんなことをしてしまっては、あぁ、まずはご両親にご挨拶を行くべきか!?」
「え? ハグで? 責任を? どうして?」
「どうしてとは逆にどうして聞くのでしょう! ハグですよ? ハグ! 抱擁! 抱き締め合うこと! このようなことをしてしまったからには、責任を持って籍を入れるしかないではありませんか!」
「ちょ、ちょちょ、ちょっと待ったー!」
純情男子である理解が女性と知り合って話しているという光景が物珍しく、目をキラキラとさせつつ、はわわと口を抑えながら二人から数メートル離れたところで見ていた依央利であったが、余りの噛み合わなさに間に入った。どんな展開になるのか楽しんでいたのだが、チェリーボーイの話の飛躍を舐めていた。
理解の大きな声のせいで話は筒抜けであり、周りからも注目を浴びている。
「理解くん、流石に結婚は先走りすぎだよ!」
「ですが依央利さん。ハグをしてしまったのですよ? もう責任を取って結婚するしかないでしょう?」
「どうしてそうなる!? まずはほら、友人とかからでもいいんじゃない?」
いきなり現れた依央利に女は驚いていたが、常識人っぽいことを言っているので賛同するように大きく頷いた。
「理解くん、責任は取らなくてよいから友人からでお願いします」
「友人……そしてゆくゆくは籍を入れるんですよね? やはり今すぐにでもご挨拶に行かなくては」
「え、いやいやいや理解くん、ハグしただけで責任取らなくていいから!」
話の噛み合わなさに女は自分がおかしいのかと思い始めた。ハグしたんだから責任取ってよって言うべきなのと。依央利はそんな彼女の様子を見てある提案をする。
「理解くんとお姉さん、とりあえず連絡先交換したら? 理解くんの暴走にお姉さんが押されちゃってるよ。理解くんはあんまり恋愛経験が無いでしょ? だから僕を入れて三人グループのトークルームを作らない? 僕が二人の緩衝材になってあげる!」
話が噛み合わない二人の橋渡しをするという圧倒的な負荷に依央利は興奮していた。二人のキューピッドになる。これぞ、滅私、貢献、奉仕。
様子がおかしくなった依央利に女は少し引いている。何だかこの子も変だぞ、と。
外回りを終えて疲れている女の頭はよく回っていない。しかもこれから会社に戻って事務仕事が待っているのに。人手不足により一人で三人分くらい働かなければならない為、女は早くこの場から去りたかった。
「とりあえず連絡先を二人と交換すればよいかな? ごめんね、私これから職場に戻らなきゃならないからもう解散しても?」
スマホの時間を見て焦ったように言う女に、理解と依央利は驚いたような表情になる。時刻はもうすぐ十八時。大体の会社が定時を回っている時間だ。
「これからまた働くんですか!? 辞めましょうそんなブラックな会社! 責任を取って私が養いますから!」
「辞めたいけど辞められないんだよ……」
「そんなことはない筈です、法律が許しません! さぁ今すぐ退職届を書きましょう!」
辞めた人間の仕事が降りかかって嘆いている先輩たちを見て、私も辞めますって言い難くなってもう何年目だろうか。日本人の性ってやつだ。女は遠い目をしている。
「ねぇ、その仕事僕がやりましょうか? 事務作業も営業もお手のもの! 僕も奉仕して嬉しい、お姉さんも仕事を割り振れて嬉しい、これぞウィンウィンの関係! ほら、さぁ! さぁ!」
「機密事項とかあるから無理だよ……」
「じゃあ部外者にも任せられるような作業を! 任せてください!」
このまま職場まで着いて来そうな勢いの理解と依央利に女はほとほと参っていた。
どうしたらこの二人を振り切れる? どうしてこうなった? 誰か助けて欲しい、と。