この業界、二徹、三徹してなんぼのところがある。かく言うわたしも、数日前から現場が重なり、最後に帰宅したのは遠い記憶の彼方だ。会社のシャワーを浴びる時間もない日は、デオドラントスプレーやシートで汗臭さを誤魔化す始末。スプリングの効かないソファの寝心地にもすっかり慣れてしまった。
 今日は人気アイドルを迎えてのCM撮影。シャイニング事務所所属、ST☆RISHの神宮寺レン……かの神宮寺財閥の御曹司であるのは周知の事実だ。CMはさる事ながら、ドラマやバラエティ番組に引っ張りだこ。甘いマスクとキザな台詞でファンを夢中にさせているが、芸能人の素を垣間見る事が多々ある仕事をしていれば淡い期待も抱かない。アイドルの表の顔など知れていると言うものだ。
「まあ、アイドルなんて顔が良ければ中身はどうでもいいか……」
 独りごちて、クライアントが用意した本来の主役、チョコレートを箱から取り出した。
 この撮影が終われば、今週の山場は越える。



「神宮寺さん、入ります!」
 作業をしていたスタッフが示し合わせたように手を止め、軽やかにスタジオ入りする男に注目した。わたしもつられて顔を上げる。
 神宮寺レンを生で見るのは初めてだ。以前QUARTETTO NIGHTと仕事をして、「シャイニング事務所のアイドルはヤバイ」と取り憑かれたように繰り返していた先輩を思い出す。そんな大袈裟な、と同僚と笑っていたが、真偽の程は如何に。
 まず飛び込んできたのは、ジーンズに収まるすらりと引き締まった脚だった。モデル業もこなしているだけあってウエストの位置が高い。白いシャツから覗く鎖骨。少し焼けた肌は健康的な印象を受ける。艶やかなオレンジブラウンの毛髪は、十分な手入れが行き届いているとこの距離からでも伺える。
(顔ちっさ……)
 頭身が高いゆえに、余計にそう見えるのだろう。薄く笑みを浮かべた唇で、これまでに何人の女を口説いてきたのか、ファンは知る由もない。
こちらへ歩み寄る神宮寺レンの顔をまじまじと眺めていると、少し下がった目尻が柔らかな雰囲気を醸し出している事に気がついた。以前テレビで見かけた時は、こんな雰囲気だったろうか。
「レンくん、変わったね」
 いつの間にか隣に立っていたプロデューサーが呟いた。
「変わった?」
「デビューした頃は、もっとこう……キザな雰囲気を作ってたって言うか。W神宮寺レンWを演出してたのよね、彼」
「へえ……」
「表情が優しくなった。なにか心境の変化があったんでしょうね」
 華やかに見えるアイドルにも色々あるらしい。



「リハいきまーす」
 タイミングを見計らいカチンコを鳴らすと、神宮寺レンの真横にしゃがみ込む。今回のCMは、もったいないことに上半身しか映らない。チョコレートを並べたテーブルに隠れていれば、カットのたびに駆け寄って小道具を整えなくても済むという訳だ。時間もスタミナも無駄には出来ない。
 神宮寺レンがチョコレートを手に取る。唇を寄せて、キスを一つ。
「Wとろける愛を、君にW」
 神宮寺レンの、チョコレートのような甘やかな声が降ってくる。クライアントのごり押しに近い形で決まったキャスティングだったが、この台詞一つで、かつてイメージキャラクターを務めた若手俳優たちが途端に霞むのが分かった。これは売り上げ倍増間違いなしだ。
 プロの仕事、見せてもらった。一人納得していたところ、突然カチンコを持つ手に力が入らなくなった。神宮寺レンの、長く締まった脚がブレて見える。
「……レディ?」
 異変に気がついた神宮寺レンが水色の瞳をこちらへ向けた。ファンならば卒倒するシチュエーションだが、当のわたしは強い空腹感とめまいに襲われ、それどころではない。



 一瞬なにが起きたか分からなかったが、どうやら背面から誰かに支えられているらしい。監督、プロデューサー、カメラマン、他スタッフの面々が、心配そうな面持ちでわたしを見下ろしていた。
「レディ、食事は? ちゃんと摂った?」
「二日……三日くらい前から、あんまり」
「低血糖かな……とりあえず、これを食べて」
 口元に差し出されたのは、小道具のチョコレートだった。
「これは撮影用の、」
「そんな事言ってる場合じゃないだろ」
 背後から顔を覗き込まれ、そこで初めて気がついた。わたしを支えているのは神宮寺レンだ。オレンジブラウンの髪がカーテンのように顔に掛かる。
「じ……っ」
「ほら、口開けて」
 神宮寺レン、と叫ぶ為露わになった前歯に、ライトの熱のせいか、少しやわらかくなったチョコレートが当てられる。有無を言わさぬ状況だ。大人しく口に含む他ない。神宮寺レンの声と瞳を溶かして固めたような甘いチョコレートが口いっぱいに広がった。
「そう、良い子だね」
 飲み下したのを認めると、息を呑んで見守るスタッフ陣に声を掛けた。
「チョコは気休めだから、ジュースか何かを飲ませてあげて。ラムネなんかがあればベストなんだけど」
 同僚が調達してきた車椅子に乗り、退場を余儀なくされるわたしに対し、神宮寺レンは最後まで優しかった。頭を撫でながら、耳元で「ちゃんと病院に行くんだよ、レディ」と囁き、ウインクと投げキッスを寄越して光の中へ戻って行った。

 以来、テレビ局やスタジオで時折会うと、神宮寺レン、否、レン様は飴玉やチョコレートをくれるようになった。アイドル、恐るべし。

20191102