映画化に際し、製作会社に三つの約束を取り付けた。一、一ノ瀬トキヤをキャスティングする事。二、主題歌は一ノ瀬トキヤが歌う事。三、この約束は決して口外しない事。
別の打ち合わせで早く出版社に来ていたのだが、予定よりもスムーズに話が進んだ為、映画の打ち合わせまでそのまま会議室で時間を潰す事にした。
「意外でした。先生、アイドルがお好きだったんですね」
編集部の女性が言わんとしている事は直ぐにわかった。前の打ち合わせの片付けをしながら、わたしの手元の資料に注がれる視線。主人公の名前の下に記された男性アイドルの名前。
「たまたま観てたドラマに彼が出演してて、お芝居上手だなって。アイドルに興味はないですよ」
「そうなんですか? ふふ、強く推してらっしゃったって訊きましたけど」
「主人公のイメージに合ってたんですよ。実写化って賛否両論でしょうけど、彼ならきっといいお芝居をしてくれると思って。そしたらファンも納得して……」
言いながら顔を上げると、編集の女性がわたしの背後を見て硬直していた。彼女が口を開く前に、背に声が掛けられる。
「ありがとうございます。演じる前からお墨付きを頂けるとは思いませんでした」
油の切れたロボットのように振り返ると、声の主が微笑みを浮かべながら会議室に足を踏み入れてくる。よく知った声、よく知った顔のその男は、さっと右手を差し出した。
「苗字名前先生ですね。初めまして、一ノ瀬トキヤです。著作、何冊か拝読しています」
力の入らない身体をなんとか椅子から立ち上がらせ、差し出された手を握り返す。もっと冷たい想像をしていたが、思ったより温度の高い肌だ。
「……初めまして、苗字です」
声が震えている。ああ、まだ化粧直しをしていないのに! 心臓がありえないスピードで鼓動を刻み、背にじっとりと汗が浮かぶ。手汗をかく前に、直ぐに離してしまわねば。名残惜しいけれど、握手をほどく。
「前の仕事が早く終わって、編集長にご挨拶に伺ったら、苗字先生はもうおいでとの事でしたので」
一ノ瀬トキヤの静かな声がわたしの名を呼び、宝石のように美しい瞳がわたしをとらえている。
アイドルに興味はない? 真っ赤な嘘だ。大嘘だ。わたしは、一ノ瀬トキヤの大ファンだ。
編集部の彼女は、まだこの場に残りたそうにそわそわと書類を整理していたが、やがて諦めて退室した。
「お隣、良いですか」
「ど、どうぞ!」
ふわりと香ったのは洗濯洗剤の匂いだろうか。それともシャンプーか。香水ではなさそうだ。何にせよ、男性に対していい匂いと思ったのは初めてだ。彼が一ノ瀬トキヤであるという贔屓目を抜いても、これまでに出会った男たちからいい匂いはしなかった。かつてない近距離に存在する彼を満喫しようと、ついつい呼吸が深くなる。
「驚きました。その、女性に年齢の話をするのは失礼ですが……苗字先生、著者近影も生年月日の記載もありませんから。もっとお年を召した方だと思っていました」
「よく言われます」
「作風も表現方法も、とても歳が近い方が書いたとは思えません。この間の新刊は……」
わたしと一ノ瀬トキヤの出会いは、今この瞬間を除けば数年前にさかのぼる。デビューしたてだった彼らは、飛ぶ鳥を落とす勢いでスターダムにのし上がっていった。地方出身のわたしは、そんな彼らにさしたる興味もなく、同年代ですごいなあなんてテレビや雑誌を眺めていたが、ある日友人に布教目的で押し付けられた雑誌を読んで世界が一変した。
忘れる事はない。見出しは「一ノ瀬トキヤと10の世界」。読書好きな一ノ瀬トキヤがお勧めする本を十冊、ランキング形式でまとめたもの。おそらく流行りと兼ね合い、編集部が推したい本をまぎれこませたその中に、わたしが一番好きな本が挙げられていた。確信した。これは彼がちゃんと好きな本だと。語り方が違った。一番ではないかもしれないが、その本に対すると愛情と熱意を感じる。何度も紙面を読み返していくうちに、十代のわたしは恋に落ちた事に気がついた。
その後、友人の付き合いで仕方ないという風を装って赴いたコンサートで、初めて彼の声を生で訊いた。鼓膜を震わす歌声に、わたしは再び恋に落ちた。そして曲の合間、MCの端々からのぞく思慮深さや優しさを知り、彼をますます好きになった。アイドルに恋するなんて、ありきたりで笑ってしまう。それでも好きな気持ちは止められず、わたしは職業に小説家を選んだ。選んだと言ってもその道は険しく、ようやく掴んだデビュー後も、ST☆RISHのように華々しくはいかなかった。それでも、一度掴んだチャンスを手放す事なく書いて、書いて書き続けた。いつか、トキヤがわたしの本を手に取るかもしれない日を夢見て。
「今回は、こんなに素敵な本の主人公を演じる事が出来、光栄です」
一ノ瀬トキヤがわたしを視界に捉え、わたしに話しかけている。既刊を数冊、さらには新刊を読み込み、感想を口にしている。
「主人公の気持ちに寄り添って、丁寧に演じさせて頂きます」
ありふれた恋愛小説だが、彼にそう言ってもらえると、途端にこの本を宝物のように抱きしめたくなった。ありふれていても、主役に一ノ瀬トキヤを置く事で興行収入は期待出来る。キャスティングを快諾してもらえた裏事情が透けて見えたが、そんな事は関係ない。
「聖川さん……あ、聖川真斗と言って、同じアイドルグループの者なんですが……彼も苗字先生の著作に興味があると言っていたので、今度貸す約束をしているんです。感想、訊いておきますね」
好きです、好きです。あなたの事が好きなんです。この後、トキヤと主演女優のラブシーンの撮影に直面し、執筆した自身を恨む事になる訳だが、あの瞬間を思い出すと、この先人生のどんな苦しい壁も平気で乗り越えられる。
あの日わたしは、一ノ瀬トキヤに三度目の恋をした。
20200406