シーザーは帰って来なかった。
空っぽの墓の前で、まだ新しい石に彫られた文字を一つ一つ丁寧になぞる。昨日まで降っていた雨水がくぼみに溜まっていたので、指先でそっと掻き出しながら。
「ここに居たのぉ名前ちゃん。探しちゃった」
不意に声が降ってきて、大きな影にすっぽり飲み込まれた。わざとらしく吐いた溜息で牽制するも、この男には無駄な事だろう。果たしてここが墓場だとわかっているのだろうか。聞いてもいないのに、男は義手を新調したから見せに来たのだと呑気に喋り、腹が減ったから帰ろうと言った。
シーザーの弟弟子、ジョジョはいつもこうだ。ほとほとデリカシーのない男なのである。そしてわざわざアメリカから義手を見せにやって来たのだとしたらバカだ。まったく金持ちの考えている事はわからない。まだ何か喋っているが、軋まなくなったのだというその新しい義手と同じように、すこしは静かになるべきではないか。
「ねえねえ聞いてる?」
「あのねえジョジョ、」
顔を覗き込んできたジョジョに苛立ち、制止の言葉をぶつけようとそこで初めて顔を合わせた。言葉を止めたのこちらの方だった。ジョジョが、声色からは想像もつかぬ真摯な表情をしていたからだ。エメラルドグリーンの瞳がわたしを射抜く。
右手を取られ、半ば強引に引き上げられた。ジョジョの左手は血が通っているかのようにほのかなあたたかさだった。
「……痛い」
「帰ろうぜ、風邪なんかひいてみろ」
風邪をひいたらどうだと言うのだ。意地悪な気持ちになって飛び出しかけた言葉は、やはりエメラルドの瞳によって止められた。
ジョジョが、多忙な仕事の合間を縫ってはイタリアにやって来ている事を知っていた。お調子者を装って、軽口を叩きながら、なにかとわたしの世話を焼いた。シーザーがわたしにそうしたように。
ぐいぐい腕を引かれシーザーから離れてゆく。振り返ったジョジョは抵抗しないわたしを見て、「それでいいのよン」と笑った。
静かな園内にはいくつかの人だかりがあり、それぞれ親しき者との別れを惜しむ場面が見受けられる。すこし離れた場所で、真黒の服を着た子供たちがじゃれ合っていた。厳かな弔いの場に不釣り合いな明るい声。まだ死を理解できぬ子どもたちの無垢な笑い声は、大人の心をどれだけ癒せるのだろう。
懐かしきシャボン玉は、賑やかな声の中から飛んできた。景色を虹色に写しながら、ふわりふわりと上下に漂う儚き球体。大きな犬が喜んで、方々に飛びゆくそれを追いかけ、それを子どもが追いかけて、また賑やかな声で溢れかえる。
「シーザー……」
驚いた。この目玉からはまだ涙が出るらしい。からからに干からびてしまう程泣いたというのに。膝が崩れる前に、ジョジョが自慢の義手でわたしを引き寄せ抱いた。なんてデリカシーのない抱き寄せ方だ。そんな乱暴な抱き方、シーザーはしなかった。
「シーザー、シーザー……」
死者眠る墓石はつやつやと光を反射して、わたしの心に似合わない青空を写している。
20151203
20161120修正加筆