ママはヤクザの情婦だった。未婚でわたしを産んだあと、水商売を始めて、そこでパパに見初められたらしい。ママはわたしが小さい頃に死んでしまったけれど、パパは実の娘のようにわたしを可愛がってくれた。住む場所にも食べるものにも困った記憶はなく、むしろ裕福な暮らしを約束されていた。
ある晩、デリバリーの配達員が来たと思い玄関を開けたところ、突然見知らぬ男たちがなだれ込んできた。明らかに〈こちら側〉の人間で、ヤバイと思った時には背中に腕を捻り上げられ、男と壁に板挟みの状態だった。
「兄貴、娘しか居ません」
室内を改めた数人の男たちが戻ってきて、外に向かって報告をする。開け放された玄関ドアから現れたのは、美しい銀糸と燃えるような眼光を持つ青年だった。
「おう、さっさと例のモン捜せや」
〈兄貴〉はこちらを一瞥もせず上がり込み、それを合図に、背後で控えていた残りの男たちも奥へと進む。少しして、家中をひっくり返す音が方々から聞こえ始めた。
後ろ手に拘束されたまま、引きずられるようにリビングに連れていかれると、先ほどの青年が我が物顔でソファに腰掛けタバコを燻らせていた。わたしが突き飛ばされ隣に倒れ込んでも、天へ向かって煙を吐き続ける。知らない匂いが充満したリビングは、我が家とは思えないほど居心地が悪い。
「……パパのお友達にしては、乱暴な挨拶じゃない?」
精一杯の虚勢を見透かしたように、彼は鼻で笑った。
やがて男たちが、餌を運ぶ働き蟻の如く、あるものを持って次から次へと戻って来た。もちろんリビングやキッチンも隅々まで手が入り、やがてテーブルの上には、白い粉の入ったビニール袋の山が築かれた。
ソファに背を預けていた彼が前傾になり、緩慢にタバコをもみ消しながら口を開いた。
「おまえ、これが何か知ってるか?」
声自体はやわらかい音を持っているのに、口調のせいか、ずいぶんと粗暴に訊こえる。
「……知らない」
厳密に言うと、山を成すそれらが〈何か〉は一目で分かった。でも、なぜそれがうちのあちこちに隠されていたのかは知らない。彼は再びタバコに火をつけると、袋を一つ摘み上げ、わたしの眼前に突き出した。
「よく思い出せ。おまえのパパが大好きだったろ」
「知らないってば、!」
立ち上がって言うと、背後に控えていた男に強い力で腕を引かれソファに戻された。強面の連中は慣れっこだけど、それは身内に限った話だ。ここに居る男たちは皆、わたしに危害を加える事になんの抵抗もない。
彼は優雅にタバコを銜え、袋を山に投げて戻す。
「パパに電話しな。火貂組の碧棺左馬刻が遊びに来たって言や分かる」
火貂組と言えば、パパの組と対立している組織だ。対立とは言うが、ヤクザは基本的に表立って諍いを起こさない。このご時世、小競り合いに興じるよりも、自身のシマで少しでもシノギをあげた方が互いに有意義だからだ。よって、大々的に乗り込んできたこの状況は異常と言えた。
背後に控えていた男から、肩越しに見覚えのあるスマホが差し出された。テーブルに無いと思ったら、しっかり取り上げられていたらしい。わたしはそれを引ったくって、唸るように問うた。
「パパを呼んでどうする気?」
「わかんねえか? 商売熱心なおめーのパパが、俺様のシマで好き放題やってんだよ」
「っ!」
「挨拶くらいさせろや」
ソファに閉じ込められるように両手をつかれ、呼吸も忘れて迫り来る端正な顔を見上げた。タバコに混じって、潮風のような爽やかな香りが鼻腔をかすめる。左馬刻が身を引くと、指先には例の袋が摘まれていた。どうやらクッションの隙間に埋め込まれていたらしい。毎日座っていたソファの秘密が、他人の手で暴かれるなんてとんだ皮肉だ。
その時、ふと思い出した。火貂組はヤクザのくせに薬を嫌い、決して手を出さないとパパがぼやいていた事を。それなのに、その薬を彼らのシマで勝手に売り捌いていたとなれば、怒りに触れるのは当然だ。この異常が異常で無くなる。
視線に気圧され、パパに着信を入れた。コール音がずいぶん長く遠く感じる。
「名前、どうした?」
電話が繋がり、わたしは咄嗟に叫んだ。
「パパ逃げて! 火貂組の、んんっ」
スマホがかすめ取られると同時に口を塞がれ、ソファに押し倒された。左馬刻は冷たい眼でわたしを見下ろし、薄い唇を開く。
「よう、邪魔してるぜ」
パパの声は訊こえないが、きっと全てを理解しただろう。
「詳しい話は会ってからしようや。一時間以内に来れるよな? それを過ぎたら……」
口を塞いでいた左馬刻の手のひらが、親指を起点に半円を描きながら下降し首を掴んだ。指先に力が込められうめき声が漏れる。パパ、来ないで。遠くへ逃げて。そう叫びたかったのに、首を絞められて叶わない。
通話を終えた左馬刻がソファにスマホを放り投げた。首の拘束から解放され、背を丸めて咳き込むわたしの目の前に、ぱっと待ち受け画面が表示された。満開の桜を背景に、パパと笑顔で写っているお気に入りの一枚だ。
*
結果として、あの晩パパは帰って来なかった。
あれから三日、わたしは火貂組に軟禁されている。安心したし、落胆もした。
わたしには、通わなければならない学校も、労働力を提供する会社もない。これまで自由に生きてきたけれど、ある日突然消えても、誰も少しも困らない存在と言うのは、虚しいものだと初めて気が付いた。
火貂組の事務所が入っているビルの一角に設けられた軟禁部屋(と言っても、雑多に荷物が置かれた物置みたいなところ)で日がな一日を過ごす。スマホが没収されなかったところを見ると、こっそりパパに連絡を入れるとでも思っているのだろう。馬鹿にされているようで腹が立ったが、暇潰しの手段を奪われなかったのは幸いだった。
左馬刻は部屋に顔を出しては、「パパに捨てられちまったなぁ」「お迎えはまだか?」と挑発してくる。が、彼の持ってくるコーヒーは極上だったし、初めて会った時のような乱暴を働く素振りはなかったので、恐怖心は失われつつあった。
「よう、捨て子ちゃん」
昼過ぎにやって来た左馬刻は、新しい悪口を披露したかと思えば、湯気の立つプラカップをおざなりに置き向かいに腰掛けた。間髪入れず銜えたタバコを見て、よく飽きもせず吸うものだと呆れる。
引き寄せたカップから漂う芳醇な香りが、束の間の安らぎだった。口に含むと深いため息が漏れた。
「ヨコハマにこんな美味しいコーヒーを出す所があるなんて知らなかった。なんてお店?」
「店のじゃねえよ、俺様が淹れたコーヒーだ」
驚いて、黒い水面と左馬刻の顔を見比べた。粗野な言動が多いこの男から、こんな繊細な味が生み出されるなんて。それに、ちまちまと豆をドリップする姿は想像もつかない。意外な一面は、しかし絵になる事だろう。
「……バリスタになればいいのに」
「ああ?」
機嫌の悪そうな顔が一層顰められた。何か地雷でも踏んだらしい。
左馬刻が出て行ってから、煙たい部屋を換気しようとブラインドを上げると、ちょうど路上に停まった車に乗り込もうとする彼の姿が見えた。陽に透ける銀糸が眩く光る。どうしてあんなに綺麗な人が、ヤクザなんて仕事を選んだのだろう。左馬刻が黒い車体へしなやかに身体を滑り込ませると、車は発進し、あっという間に見えなくなった。
街灯の薄明かりが差し込む部屋で、固いソファに身を横たえ、タオルケットに包まって寝ていると、扉の向こうで話し声が訊こえた。足音が一つ遠ざかり、扉の開く音がする。廊下から差し込む光が影を作り顔は見えないが、気配で左馬刻だと分かった。
左馬刻はわたしが起きているとは気付かず、いつになく静かに歩み寄ってきた。そこで「何か用?」と起き上がればよかったものを、タイミングを逃し、つい寝たふりをしてしまった。鋭い視線をひしひしと感じながら、規則的な寝息の演出を加える。重なるように、煙を吐き出す呼気が訊こえた。そっと目を開け、薄闇に赤く明滅するタバコの先端をとらえる。
やがて、頭上の肘置きに腰を下ろす気配がし、冷たいものが頬に触れた。それが左馬刻の手だと気付いた時、心臓が大きく跳ね上がった。気取られないよう寝息を立て続けたが、緊張でうまく呼吸が出来なくなる。初めは指の背で触れる程度、やがて手のひらを擦り付けるように輪郭をなぞってゆく。頬に流れた髪をすくい、耳に掛けられ、背がぞくりと震えた。
「ん……」
あくまで寝ている振りを続け、目をぎゅっと瞑って耐えていると、起きる気配を感じ取ったのか、手は離れた。
左馬刻が出て行き、残り香が満ちる室内で、熱を持つ頬に手を添える。まるで慈しむようなあの触れ方は何だったのだろう。
今、ドアの外に見張りは居ない。時計は深夜を指している。昼間のように人の出入りはないはずだ。逃げ出す好機だった。なのに、馬鹿なわたしは動けずに、いつまでも冷たい手の感触を思い返していた。
翌朝、コーヒーの香りで目醒めた。向かいのソファに座った左馬刻と目が合う。左馬刻が午前のうちからここに来るのは初めてだ。胸騒ぎがする。パパが消えてもう四日、そろそろ何か進展があってもおかしくない。わたしたちは、立ち上る湯気を挟んでしばらく無言で見つめ合った。
口を開いたのは左馬刻だった。
「……本当の娘じゃねえんだってな」
「ヤクザが血の繋がりを気にするなんて聞いた事ない」
吐息のような笑いがよく似合う男だ。
「……パパはどうなったの」
「おめえのパパはルールを破った。破ったからには、相応の罰が下る」
「どうなったの!」
立ち上がった拍子にプラカップが倒れた。茶色い液体が生き物のようにテーブルを這い、埃っぽいリノリウムの床に流れ落ちる。
「おめえもこっちの世界に片足突っ込んでんだ、覚悟がねえとは言わせねえぞ」
「パパが殺される覚悟? それとも、わたしが殺される覚悟?」
「両方だ」
コーヒーの流線を跨ぎ近づいた左馬刻に突き飛ばされ、ソファに倒れ込んだ。古いソファは、左馬刻の体重を受けて僅かに軋む。
下顎に押しつけられた無機質な冷たさから、銃口を突きつけられているのだと理解した。安全装置の外される音が響く。朝っぱらから血の気が多いヤクザ。
烈火を宿したような赤い眼が、銃弾よりも先にわたしを射抜いた。左馬刻はわたしを見下ろしながらゆっくりと白い煙を吐き出し、引き金に指を掛ける。
「首絞めた時は涙目になって震えてたのに、銃は平気なのか? 変わってんな、おまえ」
これから人を撃ち殺すとは思えない軽い口調が、わたしの思考をクリアにした。
「ねえ、ここで殺すより、シマの風俗店にでも売った方が良いんじゃない? わたし、結構稼げると思うんだけど」
「は、違えねえ」
拍子抜けするほどあっさりと、左馬刻は銃口を離した。賭けだったが、やはり撃つ気はなかったのだ。左馬刻は安全装置を元に戻し、テーブルに放った。コーヒーの海に滑り込んだ拳銃は、パパのものだった。
*
「いいんすか? あの子、組長から売られたって教えてやらなくても」
「逃げてる時点で棄てられたって分かってんのに、わざわざ教える必要もねえだろ。親父と話はつけてきた。後の面倒は俺が見る」
「兄貴、情でも移ったんすか」
「余計なクチ叩いてんじゃねえよ。いいからさっさと後始末行ってこい」
「うす」
20220828