わたしがそのホテルのドアを叩いたのは、地獄での生活にうんざりしたからだった。生前働いた悪事の報いとは言え、ここはあまりにも醜悪な世界。プリンセスの提案は多くの悪魔から笑いものにされたが、地獄から脱する機会が得られるのならば利用しない手はない。
地獄のプリンセス・チャーリーは、突然の来訪にも関わらず、何の躊躇いもなくわたしを受け入れた。テレビで観た人懐っこい笑顔が惜しみなく降り注ぐと、それだけで別世界へ来たのではないかと思う程だ。
「ホテルを案内するわ」
チャーリーがわたしの手を取り、一歩踏み出した時だった。
「おやチャーリー、新しいお客様ですか」
ノイズエフェクトのかかった声が行く手を阻んだ。更正の為の施設、ハズビン・ホテル──のはずが、更生とは程遠い存在が突如目の前に立ち塞がり、わたしは息を飲んだ。
「ラジオ、デーモン……」
「アラスター、ちょうど良いところに! 紹介するわ、名前よ。名前、彼はこのホテルのマネージャーでアラスター」
「初めまして、お嬢さん」
アラスターは大仰に腰を折り、至近距離でわたしの顔をじろじろと眺めた。
「わたし、犬は嫌いなんですが……」
ゆるりと伸ばされた左手が、首輪のように喉元に纏わりつく。眇められた眼は、わたしの首なんて簡単に絞めたり折ったり出来る力を持っているのに、そうしないでやっている、と語っているようだった。
「ふむ、躾甲斐がありそうだ」
無礼を詫びるでもなく去っていくアラスターの背を見ながら、チャーリーが興奮気味に言った。
「彼から人に触れるなんて滅多にないのよ、気に入られて良かったわ」
「そう……」
あれを〈気に入る〉と言うのならば、気に入られない方が良かったに決まっている。わたしは早くも、このホテルに足を踏み入れた事を後悔し始めていた。
*
当初の懸念はともかくとして、ホテルでの生活は早々に慣れた。チャーリーが更正の為の企画をあれこれと催し、それにだらだら参加する。夜はハスクやエンジェルとだらだら飲んで……つまりだらだらしていれば日々が過ぎていく。これで更生出来るとは到底思えないが、〈外〉の暮らしよりよっぽど満ち足りている。天国に行ける気配は微塵もなかったが、全く構わなかった。
「ご機嫌よう、お嬢さん」
影の中から湧き出るようにして現れる男に驚く事もなくなった。アラスターは〈犬嫌い〉を公言しておきながら、何かとわたしに構いたがる。
「ご機嫌ようアラスター。ペットを探してるんだったら他を当たってくれる?」
「つれないですねえ」
あれだけ魂を従属させておいて、まだ足りないとは恐れ入る。間違っても契約なんてしないよう、彼に弱みを見せてはならない。すれ違った直後、背に凍るような視線を感じて振り返ったが、アラスターはもう居なかった。
あのラジオデーモンに目をつけられたのは非常に厄介だが、だからと言って、ホテルを出る理由にはなり得なかった。ここはそれだけ居心地が良い場所となっていたからだ。
わたしが誘拐されたのは、久し振りにホテルを出た時の事だった。なんとなくあの醜悪な世界が恋しくなって、散歩に出掛けたのが運の尽き。路上駐車していた車の中から突然腕が伸びて、あっという間に引き摺り込まれた。辺りに悲鳴が響き渡ったが、周囲は見て見ぬ振りだった。そう、ここは地獄なのだ。
シートに悠々と腰掛ける誘拐犯は〈あの〉ヴォックスだった。彼のような有名人が、なぜ一般人のわたしを攫う必要があるのだろう。疑問の答えは後ほど判明する事となる。
連れてこられたのは、シックなホテルとは違い、下品を煮詰めたような色合いの派手な部屋だった。ヴォックスが高らかに声を上げた。
「アラスターのお気に入りを攫ってきたぞ!」
ソファに腰掛けた先客は、ピンク色の煙を吐きながら、ハート型のサングラス越しに視線を寄越す。彼もどこかで見た顔だが、その前に訂正を入れるのが先だった。
「あの、わたし別にアラスターのお気に入りじゃ……」
顎を掴まれ、言葉を遮られる。
「自覚がないのか? 暢気な女だ」
ヴォックスは、わたしがいかにアラスターから気に入られているか切々と説いた。それはわたしの認識とは大幅に乖離しており、そもそも真実だとして
、なぜそこまで詳しいのかと新たな疑問が生まれる。
訝しがるわたしに、ヴォックスはとある映像を観せ始めた。ホテルのあらゆる場所で撮られたそれには常にアラスターとわたしが映っており、全てにおいて、まあ仲が悪いようには見えない。
「と言うかこれ、盗撮じゃない」
「認めるんだな」
「別に、」
「認めろ!」
なんでも、彼はアラスターに恨みがあるらしく、画面の中で表情をころころ変えては(と言っても大半が憤りなのだが)一曲歌い上げた。つまるところ、わたしを人質にアラスターを脅したいと言う訳だ。
「アラスターを呼び出しておいた。奴が来る前に、ヴァル、手伝ってくれ」
ヴァル……ヴァレンティノ。サングラスの男がエンジェルの雇用主だと思い出したと同時に、毎晩死ぬほど聞かされた悪口が蘇る。
「こんな小娘捕まえたところで、あの男がどうにかなるとは思えないが」
「それならそれで用済みだ。スクリーンデビューでもさせてやれ」
「ちょっと待っ……」
ヴァレンティノはどぎついピンク色の縄を両手で何度かピンと張り、楽しそうにわたしを見下ろした。
*
エンジェルが出演するポルノ映画を何度か観せてもらった事がある。あらゆる手を使って攻め立てられる彼を不憫に思ったが、緊縛プレイはそのうちの一つだ。
「おやまあ、無様ですね」
「……あんまり見ないでくれたら嬉しいんだけど」
アラスターを見下ろすのは初めてだが、決して愉快な気分ではない。身体のあらゆる場所に縄が通され、絶妙なバランスをもってわたしは宙に吊るされていた。少しでも身じろぎすれば、縄に振動が伝わりギシギシと揺れる。
わたしの願いを聞き入れたかどうかは微妙なところだが、アラスターは視線をヴォックスへと向けた。
「で、わたしに何の用です?」
「見たらわかるだろう、こいつを酷い目に遭わせたくなかったら……」
ヴォックスが掲げたのは、卑猥な形のおもちゃだった。バイブ音を発しながら猛然とうねるそれが鼻先まで寄せられる。必死で顔を逸らすも限界があった。シリコンに押された頬肉が、振動に合わせてむにむにと形を変える。
「彼女がどうなっても構いませんが」
「なんだと!?」
「お好きなようにしてください」
アラスターはすげなく言うと、くるりと背を向けた。お気に入りまでとはいかずとも、そこそこ良い関係を築いていたつもりだったのに、まさかこんな簡単に見放されるとは思いもしなかった。これから一体どんな目に遭わされるのか、想像に難くない。悪魔の背を睨むうち、視界が滲み始めた。
「ただし」
ゆるやかに振り返ったアラスターの視線が再びわたしを捉え、彼は一層笑みを深めた。
「名前……貴女が助けを求めるのなら話は別です。ここでポルノ女優として活躍したくないのでしたら……お助けしますが?」
「アラスター、何言ってやがる!」
「……は、」
こんな形で借りを作る羽目になるとは。しかしそんな事は言ってられない。マゾヒストも逃げ出すようなポルノ映画に出るのはごめんだ。
「……助けて、アラスター」
「ふふ、良いでしょう」
*
「あら名前、素敵なチョーカーね」
「ありがとうチャーリー」
無邪気な感想を愛想笑いで受け流す。これは飼い犬に成り下がった証だ、褒められても嬉しくない。
「アラスター見て、名前のチョーカーとっても可愛いの」
「ええ、お似合いですよ」
主人の笑みが憎らしい。こんな事なら、ホテルに来る前の方がマシな生活だったかも。
20240228