男子高校生とマネージャー(≠紡)
下ねた

「なあマネージャー、濡れるってなに?」
 土曜日、穏やかな昼下がりの事務所で事件は起きた。口に含んだばかりのコーヒーをなんとか飲み下し、平静を装って男子高校生に膝を向ける。環さんの表情は普段とさして変わらず、真意を測りかねた。
「えっと……なぜそれを疑問に……?」
「クラスの女子たちが雑誌読みながら言ってた。TRIGGER見てたら濡れるって」
 そうきたか。わたしは腰掛けたまま天を仰いだ。最近の高校生は、進んでいると言うかませていると言うか、そんなあけすけな話を学校でするらしい。二つほどしか変わらない歳の差でジェネレーションギャップを感じるのだから、世のおじ様、おば様方の苦労が伺い知れる。
「あんたも濡れんの、TRIGGER見たら」
「ワーッ!」
 弾かれるように立ち上がり、まだ何か言いたそうな口を両手でふさいだ。わたしは今、何か試されているのだろうか。
「ご存じなければ、どうかそのままで」
「んん〜っ!」
 両手を掴み上げられバンザイのようなポーズとなったわたしに、環さんは「なにすんだよぉ!」と抗議の声を上げている。抱かれたい男五位のくせに、なんだその無防備な顔は。
「ごめんなさい、あまりの衝撃に耐えがたく……」
 「耐えがたい」を別の意味に取ったらしい環さんが眉根を寄せた。
「え、もしかして悪い意味?」
 純な瞳を正面から見ていられず、バンザイのまま床へ視線をさまよわせる。角の方に溜まったホコリが目についた。どんなに掃除していても、少し気を抜くとすぐこれだ。はぁ、と大きなため息をつき、ぽつりぽつりとこぼす。
「いえ、ある意味最高の褒め言葉、と言いいますか……楽さんの称号的に、然るべきと言いますか」
「なんだよ、悪口なのかと思った。褒め言葉なら俺も使」
「ワ゛ーッダメダメ、ダメですよ環さぁんっ!」
「うおっ暴れんなって!」
 手首を掴む環さんを振り払い、再び口をふさぐべく襲い掛かる。こんな話、社長や紡さんに聞かれる訳にはいかない。万里さーん早く迎えに来てくださーいと心の中で叫びながら、事態を収束させたいが為に思ってもいない言葉が飛び出した。
「わ、わかりましたっ教えます、教えますから!」
「何してるの?」
「バンちゃん」「万里さん!」
 ああ〜頼れる先輩! 約束の時間十分前を指す時計を見て胸がいっぱいになる。「環さん、忘れ物はありませんか?」と尋ねながら、「さっきの質問、万里さんにしちゃダメですからね」と視線を送る。すれ違いざま、環さんが低い声で囁いた。
「帰ったら教えろよ」
「じゃあ夢野さん、後はよろしくね」
「約束だかんな!」
「はーい、いってらっしゃ〜い……」
 何とか作った笑顔は引き攣っていたに違いない。

 ○

 早めに切り上げるつもりが、気がつけば二十時を回っていた。環さんの仕事は、押したとしてもとっくに終わっているはずだ。万里さんは戻ってこないので直帰したらしい。ようやく区切りがつき、パソコンの電源を落とす。一日の疲れを振り払うように大きく伸びをしながら、マグカップを持って給湯室へ向かった。
 オフモードに切り替わった頭が、昼の出来事を思い返していた。マグカップをすすぐ手は、蛇口の水を受けて濡れそぼっている。
「濡れる、かあ……」
 わたしたちの間に性的な話題を上げることは、なぜかとても危うい予感がしている。でも、彼くらいの年齢なら、そう言う知識を得たり関心を持つのは自然な流れなのだから、下ネタくらいさらっと教えてもよかったのかもしれない。変に隠した方がやましいし、後々恥ずかしい気がしてきた。
「マネージャー」
「たっ環さん!」
 驚きのあまりマグカップを取り落とす。居るはずのない環さんが、給湯室の入り口に立っていた。
「声デカ。ウケる」
 廊下の照明を背に受け表情がよく見えないが、笑っていることが声音から伝わる。
「一人だと思ってたのに、突然声を掛けられたら驚きますよ……こんな時間にどうされました?」
「約束したじゃん」
 好奇心と言うより、最早執念に近いものを感じる。もうさっさと言ってしまおう。羞恥心をため息に乗せて一気に吐き出し、マネージャーとして背筋を正す。
「こういうことは、未成年の耳にはあまり入れたくないのですが」
「あんたもだろ」
「わ、わたしは社会人だからいいんです。……クラスの子たちが言った〈濡れる〉っていうのは、まあその、エッチな意味でして」
 予想される環さんの反応は二つ。第一、『なんだよマネージャー、エロい話なら初めからそー言えって! バンちゃんに聞かなくてよかった〜』。第二、『ふーんそーなんだ、教えてくれてあんがと』。前者なら後腐れないし、後者なら恥ずかしい思いをさせて申し訳ないが、そこはお互い様と言うことで。
「知ってる」
「え?」
 第三の反応を受け、間の抜けた声が漏れた。
「さっきスマホで調べた」
 スマホ。ああ、それは文明の利器。
「それならそうと言ってくだされば、」
「だから、教えてって言った」
 可視化出来るなら、今、わたしの頭上には無数の疑問符が浮かんでいるだろう。環さんと喋るとたまにこうなる。
「えーと」
 給湯室は、紡さんと並んでもしょっちゅう肩をぶつける程のスペースしかない。環さんが踏み込んできたので後ずさりしても、背はあっけなく壁にぶつかった。
「わたしは……何を、教えれば……」
 普段となんら変わらない双眸が、次のセリフを読ませない。環さん、あなたは何を知りたいんですか。
「濡れたらどーなるか教えてよ。濡れてるとこ見たい、マネージャー」

20240925