「マネージャー、返事は?」
一八〇センチを超える青年に壁際まで追い詰められれば、それはまさに袋のネズミである。チュウと身を縮こまらせてみても、窮地を脱することが不可能なのは環さんの表情から察せられた。新しい仕事の企画資料を早く見せたかっただけなのに、機嫌を損ねてしまったのは軽率だった。
愛想笑いを跳ね返す真剣な目が、わたしの言葉を待っている。困ったことに、環さんがほしい言葉と、わたしが発するべき言葉は対極の位置にあった。だからわたしは何も言えないまま、ひたすら笑みを浮かべて環さんを見上げるしかない。
◯
好意の片鱗が見え隠れし始めたのは、半年ほど前に遡る。時間が合わなかった万里さんに代わってMEZZO"と打ち合わせをしていた折、たまたま二人きりになる時間があった。
「環さん、こちらの資料なんですが、先に目を通し、て……」
言葉が尻すぼみになったのは、差し出した資料を飛び越えた環さんの手が、わたしの手に触れたからだ。
「環さん?」
「……」
「心配ないですよ。新しい試みですけど、しっかりサポートしますから」
不安を振り払うべく、手を取りぎゅっと握った。けれど、環さんから握り返してくる気配はなく、これはよほど不安に思っているのだろう、めずらしいこともあるものだと受け止めた。
「大丈夫です。いつもの環さんなら、これくらいなんてことないですよ」
「……ん」
その顔から不安の色は消えていなかったが、準備する時間は充分にある。壮五さんが戻ってくる頃にはいつもの環さんに戻っていたので、深くは心配しなかった。
また別の日にはこんなこともあった。事務所に顔を出した環さんが、おもむろに何かを差し出した。
「これやる」
「王様プリンじゃないですか! いいんですか?」
「マネージャー、頑張ってくれてっから」
甘いものに目がない環さんが、まさか他人に大好物の王様プリンを譲るだなんて。〈厚意〉を受け取らないのも失礼だと思い、ありがたく遅い昼食のデザートにさせてもらった。
そう言ったことが幾度となく続き、さすがのわたしも気付かざるを得なかった。環さんはわたしに〈好意〉を抱いてしまったようだ。
このまま気付かない振りを続けようにも、恋心を弄んでいるようで心苦しい。恋愛における勘違いなんてよくある話。年上の女性へ抱く、母親や姉へ向けるような親愛との違いを見極めるのは、十代の男の子にはことさらむずかしいだろう。
◯
そして今。
新しい仕事の企画資料を早く見せたくて、レッスン場にこもっていた環さんの元を訪れた。オファーがあったのは、青春ときめくシチュエーションを盛り込んだ制汗剤のCMで、絵コンテを見せがら迂闊にもこう言ってしまったのだ。
「素敵なシチュエーションですね。わたしもこんな風にときめいてみたいなぁ」
環さんは驚いた顔でわたしを見、次いで眉根を寄せてぐいぐいと壁際まで追いやった。
「え、え、え?」
両腕を顔の横につけば、あっという間に〈壁ドン〉の完成だ。資料を胸元で握り込んで動揺するわたしをよそに、環さんが口を開く。
「こんなこと、俺以外にさせるなよ」
「え、」
「俺、マネージャーのことが好き」
あまりに真面目な顔をして言うものだから、CMのセリフだと気付くのに時間がかかった。
「あ、え……っと、待ってくださいね」
慌てて資料をめくり、壁ドンのページに書かれた概要を追う。痺れを切らした環さんが間近に押し迫っていた。
「……あの、これは、CMの練習とかでは」
「違う」
「今のは、セリフではなく」
「なく」
「環さんの、言葉で、」
「マネージャー、返事は?」
環さんがほしい言葉と、わたしが発するべき言葉は対極の位置にあった。だからわたしは何も言えないまま、ひたすら笑みを浮かべて環さんを見上げるしかない。
そして、一つの説得材料を思いついた。
「そうだ! 例えばですね、わたしがプリン屋さんだとします」
「? さいこーじゃん」
「王様プリンに負けないくらい、美味しいプリンを作るプリン屋さんです。でも、お店に並べる前に、商品のプリンをわたしが食べちゃったら、環さんはどう思います?」
「売りもんを食べちゃダメだろ」
「そう! そうなんです。わたしにとって、環さんやIDOLiSH7の皆さんはプリンなんです」
環さんは頭上に大きなクエスチョンマークを浮かべ、シンキングタイムに入ったようだ。少しして、思考の整理を終えたらしい環さんが口を開いた。
「でもさ、それってそんだけ〈うまい〉ってことじゃん?」
「え?」
「商品だけど、思わず食っちゃうくらいうまいんだろ?」
「え……っと、そう……です、ね?」
「じゃあ仕方ねえよな。それに、作ったやつがうめぇって思った方が、売る時に相手に伝わんじゃん?」
「……ん?」
今度はわたしがクエスチョンマークを浮かべる番だった。
「つーかさ、プリンが自分から食べられたがってんだからいいじゃん」
「……んん?」
「俺、マネージャーのプリンになっから。食ってよ、マネージャー」
ちゅ、と触れた唇は信じられないくらい甘くて、環さんは本当にプリンなんじゃないかと思った。
20250611