フォロー体制が万全とは言え、日々ふくらむお腹を抱えながら生活するには向いていない街だとつくづく思う。
買い出しを終え店を出ると、世界はさながらゾンビの楽園へと変貌を遂げ、ビヨンド、ヒューマー見境なく噛んだ噛まれたの大騒ぎだった。
一時的な作用なのか、恒久的なものなのか──判別がつかないうちは一般市民の頭を吹き飛ばすのも躊躇われ、レッグホルスターへ伸ばした手を止める。
と、一体のゾンビがこちらに気がついたのを皮切りに、他のゾンビも続々と足を向け始めた。店に戻ろうと踵を返し、ガラス越しに目の合ったビヨンドの店主は間髪入れずにブラインドを下げた。
「あぁぁもう! 妊婦に何させんのよ!」
荷物を放り捨てスカートをたくし上げる。地面に打ち付けられた紙袋の中で、買ったばかりのジャムの瓶が割れる音。ホルスターから愛銃を引き抜き、こりゃ産休に入っても手放せないわね、と引鉄に指を掛けた時だった。
狙いを定めたゾンビが突然弾け、臓物があたり一面に飛び散った。反射的にK・Kが潜んでいるであろう方角を仰ぎ見る。不測の事態にも万全のフォロー、さすがはライブラと言ったところだ。わたしへ合図するように銃身がキラリと反射した刹那、他のゾンビも続け様に肉塊と成り果て、足元はあっという間に血の海と化したのだった。
スコープでこちらを覗き見ているであろう彼女に手を振り感謝を伝える。そういえばまだ初期の頃、二児の母であるK・Kに妊娠を言い当てられ驚いた事を思い出した。
拾い上げた紙袋からは案の定ジャムが染み出していたのでその場に捨て置く、ゾンビの生ミンチ、マーマレード添えの完成と言ったところか。まだ新鮮な血肉から腐臭はしない。腐っていないならゾンビではないのでは、みたいな考察は頭の隅に追いやった。
それにしても。妊娠を機に一線を退いたものの、ちょっと買い出しに出ただけでこのザマだ。無意識に大きなため息が吐き出された。
ため息ついでにもう一つ。
「いつまで働けそうだい」
お腹に新たな命を宿したと知らせた際の、精子提供者の返答だ。これはわたしが悪かった。まだ仕事の顔をしている時に告げれば、仕事の心配しかしないのは当たり前だ。
「どうかな。初めての事だから、その時にならないとわからないかも」
わたしもわたしで日和ってそんな回答をしてしまったものだから、未だあくせく働いているし、日夜あらゆるトラブルに巻き込まれる羽目になっている。
なんて回想しているうちに新たなゾンビの群れが集い始めた。ジャムでべたべたの手を腹部に添え、まだ見ぬ命に囁きかける。
「パパはどこで何をしてるんでちゅかねぇ」
こんな時に限って胎動を感じず、うんざりしながら天を仰ぎ見ると、地上の喧騒に似合わぬ晴れやかな青空が広がっていた。
王子様がピンチに駆けつけるなんて期待していたら、このヘルサレムズ・ロットではやっていけない。気を取り直して銃を構え、迫り来るゾンビに照準を定める。
「…………」
引金に掛けた指が動かない。見逃せない違和感が、神経伝達に制止をかけたようだった。
「………………え?」
再び空を見上げる。抜けるような青。
この街に来て、霧が晴れたところなんて……わたし、一度も──。
*
「目が醒めたかい」
「……スティーブン」
「おいおい、上司を呼び捨てか?」
「……さん」
「オーケー。君、あのガスをもろに吸ったみたいだからね。まだ混乱してるんだろう」
視線を追って顔を向けると、男が一人、彫刻よろしく静謐に時を止めていた。彼が絶叫したまま氷漬けにされた理由はわたしの手の内にあった。気を失う前に、何とか外したガスマスク。
──ああそうだ。
ランチの帰り道、とあるテロ組織が肉体を腐らせるとの触れ込みでガスを散布し始め、辺りは蜘蛛の子を散らすような大騒ぎとなった。目の前に飛び出してきた男の肩に担がれた大仰な装置からは、濛々と白い煙が吐き出される。不意を突かれ思い切りガスを吸ってしまったわたしは、死なば諸共、と半ばヤケになって男に挑みかかり、そのガスマスクを取り上げたのだった。
ところがラッキーな事に、散布されたゾンビ・ガスは大気中の酸素濃度の都合か何かで上手く作用せず、吸った者の肉体を腐らせるには至らなかった。代わりに意識を奪い幻覚を見せたのだが、聞くところによると、大抵はその人の願望が強く反映されているらしい。
事の次第を聞き終えた頃、まだ倒れていた人たちも徐々に目を覚まし始めた。中には甘美な夢から醒めやらぬ様子で、現実に引き戻された事実を受け入れ難いとパニックを起こす者も居る。
人混みの向こうから、ひと仕事終えたらしいザップがチンピラよろしく歩いてくるのが見えた。
「おーう。お前、あのガスもろに食らったんだって? 大丈夫かよ」
「耳が早い事で。この通りピンピンしてるわ」
ガスマスクを氷の彫刻に投げつけ、ザップの手を借り立ち上がる。警察や救急隊員が慌ただしく行き交う様子を眺めながら、彼が意地悪く唇を歪めた。
「億万長者になり損ねたな」
「あんたじゃあるまいし、お金の幻覚なんて見てないわよ」
「じゃあ君はどんな夢を見たんだい」
〈上司〉のスティーブンさんに目を向けられ、わたしは努めて表情を抑えて答えた。
「……忘れました」
「おんやぁ? 顔が赤いなぜ〜? は〜ん、さてはやらし〜夢でも見てたんだろぉ」
神経を逆撫でする口調のザップに拳を一発入れて、ため息混じりにヘルサレムズ・ロットの空を仰ぐ。濃霧立ち込めるこの街で、わたしのおなかはがらんどう。
20260130