「熱っ」
ガシャン。
コーヒーを運ぼうとして、マグを落とした。白い陶器をこげ茶色に染めながら、熱い液体が破片の合間を縫って生き物のように床を滑る。仗助くんが来た時に、彼にだけ使うマグは、その多くはない役割を今終えた。
騒ぎを聞きつけた仗助くんがリビングから顔を覗かせる。
「あーあ、何やってんスか」
「待って、だめ」
"力"を使われる前に制止したわたしを、彼は不思議そうに見下ろした。その間もコーヒーの海は広がり続けている。思わず深呼吸をしてしまいたくなるような芳醇な香り。
「名前さん、直しますから」
「ううん、いいの、直さないで」
仗助くんには不思議な力があった。壊れた物を直し、人の怪我を治す、まるで神さまのような力。スタンド、と言うものの存在を聴かされたが、残念ながらわたしには見る事が出来ない。彼の分身、クレイジー・ダイヤモンドが触れたものは、壊れる前、または怪我を負う前に戻されるのだそうだ。わたし自身、何度助けてもらったか知れない。自転車で転んだ際の大きな傷は、普通ならば痕が残っただろうに、その日のうちに何事もなかったように完治した。こんなに優しい力を、彼は人の為に惜しげも無く使う。しかし、こんな完璧な力にも欠点があった。この力は彼自身には適用されないのだ。
このところ、仗助くんに生傷が絶えなくなった。理由は分からない。例外はあれど無闇にけんかをするような人ではないと知っているから、真新しい傷をなぞるたび、鉛を落とし込まれたような不安が募る。もしも彼になにかあったら。仗助くんの居ない世界で、心にぽっかり穴を開けて生きていける程、わたしは強くない。
「どうして。これくらいなんて事ねえのに、なんで断るんすか」
"なおす"時の彼は、どんな時より格好良く見えた。なおして、守る。守るのはきっと、人の心だ。破損や怪我をなかった事にして、悲しみや苦しみを遠ざける。なんて優しい力なんだろう。
「だって、何時でも仗助くんが居るわけじゃないでしょ。わたし一人の時に、何かを壊したり、怪我をしたら、わたし一人でどうにかしなくちゃいけない」
「そんなの、直ぐに飛んでってなおすに決まってんでしょ。何で俺を呼ぼうって思わねーの」
「学校に行ってる時は?」
「授業サボって来ますよ」
「そんなのだめ」
自然と溢れた笑いに、愛おしさが込み上げて堪らなくなる。鉛がすこし溶かされた気がした。
「今は俺が居るんスから、ほら」
「……ん」
もしも、もしも彼が居なくなる日がきたら。心の傷を治す術を知らないわたしはどうなってしまうのだろう。きっと長い時間をかけて、ゆっくり治していくしか他ない。瘡蓋のしたで、新しい皮膚を作り上げるように。
熱々のマグを持った仗助くんに抱きついて、そんな日が来ない事を切に願った。さあ、コーヒーを飲もう。
20170817