夜空を覆い隠さんと、霧が重く垂れ込めている。心なしか風も強くなってきたようだ。二つの針はとうに十二を超え、日没前からフル稼働の身体はギシギシと軋む。こういう日は今直ぐにでも家路に着き、熱いシャワーを浴びてホットミルクを飲み、柔らかなベッドに潜り込むのが正解だ。新調したシーツの心地良い肌触りを思い出し、空想の幸福についつい身震いする。とびきり上質の素材で仕立てられたとびきり高いシーツを強請ったと言うのに、カード一枚チラつかせてなんて事なく寄越したのは気障ったらしいスカーフェイス。……そう言えば小一時間程姿を見ていない。
「スティーブン」
思いの外声が響いたのは、先程までの爆発音が聞こえなくなったからだ。安らかな眠りを妨げる───と言ってもヘルサレムズロットは眠らない街なのだが───厄介な存在が、ようやく片付いたのだろうか。元はなにかのビルであり、今は瓦礫と化した一角に足を掛け、スティーブンと別れた広場を確かめようと身を乗り出す。
途端、止まったはずの爆発が背後で起こった。不意打ちに反応する間もなく風に煽られ大きくよろめく。地面まで三十メートルはあろうかという距離に加え、石畳が敷き詰められた見るからに硬そうな落下点。油断するなよ、と言うすかした声が蘇り、ああ、また嫌味を言われてしまうではないかと顔をしかめながら落下の衝撃に備えた時。下腹部が強い力で押し返され、否応なしに身体がくの字に曲がった。
「う……ッ」
息が詰まり呻き声が漏れる。圧迫するものに手を掛けなんとか酸素を取り入れるも、身体はそのまま上昇を続ける。季節にそぐわぬ冷たい風が頬を刺し、吐く息が輪郭を歪めながらその姿を現した。下腹部を支えるものが腕だと気づき、遠ざかる石畳を眺めていた視線を左上にやれば、頬に走る傷痕と真紅のタトゥーが突き刺さる。最悪だ。
「戦闘中なら致し方ないが……自発的な事故死は止めてくれよ」
「不可抗力!」
抱き合うような体勢で顔は見えないが、きっと笑っているに違いない。爆風にうまく乗って飄々と現れたであろう男の背に、抗議の意を込め拳を振り下ろす。スティーブンは歌うように「痛いなあ」と感想を述べて、まだ破壊されていないビルの屋上へと着地した。
「もっと優しく出来ないの」
「難癖だな。ベットの中では優しいだろう」
「な……っ!今そういう話を、」
「お取込み中失礼する」
会話の最中、突然飛び込んできたクラウスさんは屋上に降り立つと同時に身を翻し、わたしたちに背を向けた。直後、向かいのビルで新たな爆発が起こり、彼が盾になってくれたのだと気付く。奴ら、どこにガス管が通っているのかを事前に調べ上げているらしい。サシでの戦いなら三秒で伸すことも出来ようが、火を味方に逃げ回られたのでは堪らない。ごうごうと燃え盛る炎がクラウスさんの赤毛を一層赤く照らした。
「お二方、新手だ」
「ザップは何をやっているんだ?」
わたしは愚痴をこぼしたスティーブンの腕から解放される事なく、再びコンクリート片の散る宙を舞う羽目になる。今度は肩にしっかり担がれて。
「君、スカートなんて穿いてきたのかい」
「違うっ穿いてきたんじゃなくて!」
白いレースのフレアスカートは、おろし立てだというのにあちこち破れ、煤けてそれは酷い有様だ。白なんて選ばなければよかった。風に煽られ膨らむ布地を、彼なりに気を遣っているのか臀部の真下で押さえられる。際どい場所に腕があるのでなんとも落ち着かないが、言っている場合ではない。落下の速度は増してゆく。
「スカートを穿いていたら!巻き込まれたのよ!」
「それは災難!」
傾斜がきつく最早壁に近い氷の斜面を、クラウスさんとスピードでも競うかのように滑り降りてゆく。足元で砕けた氷の破片がきらめきながら散ってゆく様は、まるで季節外れの降雪だった。美しさに一瞬目を奪われる。が、熱に耐えかねた窓ガラスが小気味良い音と共に次々と破裂し、氷の欠片と混じり合って降り注ぐものだから、慌ててスティーブンの肩口にすがり顔を隠した。久しぶりのオフに、正しく災難である。スカート代は何倍にもして請求してやることに決めた。
───眠らぬ街が夜明けを迎えた。
朝陽を浴びる氷壁は、昼過ぎには溶けてしまうだろう。粉塵まみれの身体を軽くはたいて、砕けたガラス片を踏みつけ瓦礫の山に背を向けた。街の一部が形を失おうと、ヘルサレムズロットは何ら変わることなく時を進める。
軋む身体をほぐしながら、今日も休みを頂きたいところだと思い隣の男を見上げると、スティーブンは大きなあくびを一つして「ところでそのスカート、初めて見るな。最近買ったのかい」などと嘯いた。待っていましたとばかりに、皮肉たっぷりに言ってやる。
「ええそうよ。最初で最後のお披露目だから、精々その目に焼き付けておく事ね」
20161129