海開き
季節は夏本番だ。先日あんずと名前が企画し、七夕祭と名付けられた大きなS1のドリフェスが大盛況に終わり、校内はいっそう賑やかになっていた。学校もあと残すことあと数日で夏休みだ。一般の学生なら、これから来る夏休みに思いを馳せているところだが、夢ノ咲学院アイドル科は少し違う。ユニットの更なる躍進のために、学校主催のドリフェスや、外部からの依頼を元に、せっせと活動を行い、少しでも知名度を上げようと必死である。もちろん、そのしわ寄せがどこに行くかと言うと、仕事の窓口となる学校の教職員や、アイドルをプロデュースする、あんずや名前である。
さすがに夏の暑さには勝てなかったようで、徒歩が20分の距離でも車登校を始めた名前は、夏休みで厳重に警戒された身体検査と身分証明を終え、本日分の仕事をこなした。七夕祭の後処理、来賓へのお礼状。そして春からドリフェスの会場建設なとでお世話になった業者へのお中元。それと、兄から回ってくる生徒会の業務。最後の一枚に天祥院のサインを書きいれた名前は、うん、と大きく伸びを一つ。クーラーの効いている空き教室は居心地がいいが、せっかくの夏だし、と名前は腰を上げた。教室の鍵を職員室に返却し、その足で生徒会室へと向かう。ノックして返事を待ってドアを開け、名前は言った。
「兄さん、海行こ」
「うみ?」
「うん、すぐそこに海あるじゃん。いこ」
「えっと?」
「今日海開きで、今日から海に入れるの」
「それは知っているけど」
「別に水着に着替えろとかじゃないよ、水際で遊んだりとか、兄さんとしたいなーって」
だめ?首を傾げた名前に、しばらく目を瞬かせていた英智は、うん、と頷いた。チェックしかけの書類を机に置き、二人で生徒会室を出る。その前にと女子更衣室に寄った名前は、しばらくしてから大きなトートバッグとビーチパラソルを持って出てきた。英智が呆れた顔をする。
「前もって準備してたの?」
「偶然だよ。UNDEADと流星隊がフェスやるからって、朔間先輩のために買っておいたの」
「へぇ…」
「レジャーシートは春にTrickstarのみんなとお花見した時にスバル先輩が買ってくれたやつ」
「お花見かぁ」
「秋になったら紅葉狩りしようね」
「そうだね」
校舎の外に出れば、夏の日差しが容赦なくジリジリと照りつける。うわぁと顔を見合わせた二人は一旦校舎内に戻り、購買で冷たい水とアイスを買った。スプレータイプの日焼け止めをお互いこれでもかと振りかけ、裏玄関から出て、木陰の多い道から裏門を使って外に出る。
「なんだかワクワクするね」
「そう?」
「名前はいつもこっそり外に出ていたみたいだし」
「ナンノコトカナー」
「でもこうやって二人きりで出かけることは無いから、新鮮だね」
「そうね」
名前が持っていた折り畳みの日傘を開けば、英智がそれを奪って手に持つ。ほら名前おいで、そう言われて、名前は英智の傘の中に入る。お互い少し体をぶつけながら、ゆっくりと坂を下っていく。
「相合傘も初めてだ」
「ん」
「名前は?」
「高岡と良くしてる」
「羨ましいな」
「執事と相合い傘しても何も楽しくないわよ」
あいつ私を濡らさないようにってズブ濡れになるから嫌になるし。その時のことを思い出したのだろう、唇をとがらせた名前に、英智は笑う。大きな横断歩道を渡れば、簡易的な柵で囲われた海が目の前に現れた。白い、とは言えないが少し黄みがかった砂浜に、青い海。風は吹いていないようで、日傘もパラソルも飛ばされる危険はない。よさげな木陰の前を探して、名前はレジャーシートを敷いて、パラソルを立てた。トートバッグと飲み物をレジャーシートの重しにして、暑苦しくまとわりつくローファーと靴下を脱ぐ。ベストも脱げば、二人は示し合わせたかのように海に向かって走り出した。
「つめたっ、」
「つめたーい!」
「しょっぱい」
「当たり前でしょ、海だもん。それっ」
「うわぁ!名前!」
「なぁに、油断した兄様がいけないの、わぁ!」
「油断したね、名前」
「もう〜!」
ぷぅと頬をふくらませた名前は、えいと水を蹴る。それを真似して、英智も名前に向かって水を蹴る。二人でびしょびしょになるまでしばらく遊び、足に砂をつけながらパラソルの下に戻ってきた。やはり日差しはジリジリと照りつけくるが、海水で濡れた二人にとって、大したものではなかった。こんなにはしゃいだのは久しぶりだよ、と濡れた髪をかきあげた英智に、はい、と名前がトートバッグからタオルと着替えを出して渡した。
「着替え?」
「ん、たまに校内アルバイトで力仕事する生徒のために取っておいてあるものなの」
「ズボンも?」
「…………えへ」
「ふふ、分かったよ」
名前が向こうを向いている間に着替えた英智は名前はどうするの?と聞けば、さほど濡れていないから少しもすれば乾くよ、と返ってくる。着替え終わったと伝えれば、さらにラッシュガードまで渡され、英智はそれに袖を通した。ふぁ、と小さなあくびが出る。
「疲れた?」
「ちょっとだけね」
「十分だけなら、いいよ」
はい、と膝を叩く名前に、じゃあお願いしようかなと英智が寝転がる。すぐに寝息を立て始めた英智に、名前は持ってきたラウンドタオルをかけた。ざぁ、と穏やかな波音に耳を済ませれば、名前ちゃん?と名前を呼ばれる。頭だけそちらに向ければ、何してんの?と手を振りながら薫が近づいてきた。
「こんにちは、薫先輩」
「やっほー名前ちゃん…って、彼氏?」
「兄です」
「天祥院くんかぁ、天祥院くん!?」
おどろいたなぁ、なんて言いながらちゃっかりと名前の隣に座った薫が、こんなところで何してるの?と聞いてきた。
「兄さんと海で遊んでたの。薫先輩は?」
「俺は奏汰くんが海に来るって言うから、付き添い」
ぷかぷか〜ってどっかに流されちゃったら嫌だしね。苦笑する薫に、そうですね、と名前はつられて笑う。そういえば先輩、サーフィン得意でしたよね。最近聞いた話を思い出した名前に、よく知ってるね、と薫が意外そうな顔をした。
「あんずお姉さまに聞きました」
「へぇ、あんずちゃんに」
「どうでもいい情報もらったから教えてあげるって言われて」
「辛辣だなぁ〜」
サーフィンね、得意だけど、今日は風も波もないからサーフボード持ってても出来ないかなぁ。でもパドルボートはできるよ、ほら、サーフボードに似たやつとパドルでやるやつ、そう言われてあー、と名前は思い出した。少し前にテレビでリゾート地流行っていると、見たことがあった。
「あ、そう言えば薫先輩」
「ん?なにかな」
「お姉さん、結婚おめでとうございます」
「…………え、あ、ありがとう?」
突然言われた言葉に反応できなかった薫だったが、しっかりと意味を理解してありがとうと返事を帰し、頭を傾げる。
「って言うかなんで知ってるの?」
「私の持ってるチャペルに、下見にいらっしゃったので」
予約に羽風って入ってるの見て、もしやと思いまして。そう言った名前に、えぇ、と薫は困惑気味だ。どう、だった?探るような口ぶりに、深月は微笑む。
「楽しそうでしたよ。こんな素敵なところで式を挙げたいと、仰って頂けました」
「そっか……幸せそうにしてた?」
「はい」
「それなら、良かった」
「先輩って、お姉さんのこと大好きなんですね」
「……………そう、なのかな」
俺さ、小さい頃にお母さん亡くしてるんだ。薫の静かな声が、波音と混ざる。昔からこの一体をとりまとめる名家である羽風家と、そんな家に嫁いできた薫の母。古いしきたりを重んじる名家とは反りが合わなかったようで、自分の仕事を邁進し、儚くなったらしい。そんな母に代わり、姉がずっと面倒を見てくれたこと。
「俺さ、こんなんじゃん?」
「ちゃらんぽらんですもんね」
「うーん、あんずちゃんに似て辛辣。だから家のことを何一つ知ろうとせず、見ようとせず、全部兄と姉に押し付けてきたんだよね」
「そうは、見えませんでしたけど」
「え」
「少なくとも、社交場には出ていたじゃないですか、『かおくん』」
「え、えぇ〜」
もしかして『てんちゃん』?驚きと疑いが混じった、そんな声で薫に聞かれて、名前ははぁいと返事をする。顔をひきつらせた薫が、たはは、と笑った。
「『てんちゃん』には敵わないなぁ」
「ふふ」
「名前ちゃんが結婚した時、天祥院くんはどうなるんだろうね」
「え?」
「考えたこと無かった?」
「兄さんが結婚することは考えたことあったけど、自分はなかったなぁ」
「はは、考えてみるといいよ。例えば相手が俺だとか」
「薫先輩、私に手出せます?」
「天祥院くんが怖いから無理かな」
即答した薫に、名前がクスクスと笑う。かおる、かえりましょう。文字通り水浸しになってこちらにやってくる奏汰は名前見つけて、へらりと笑った。そして濡れた手をぽん、と名前の頭にのせる。
「また、あそびにきてくださいね。『こどもたち』と、くびを『ながく』してまってますから〜」
「もちろん、機会があれば」
「それではいきますよ、かおる」
「はいはい。じゃあね、名前ちゃん」
「また」
思いのほか力が強かったのだろう、奏汰に引っ張られ、よろけながら立ち上がった薫が引きずられるように歩き出す。その後ろ姿を眺める。
「仲良しなんだね」
「兄さん、起きてたの?」
「『かおくん』の所からね」
なんだすごい気持ちよく寝れた気がする。そう言って二人でしばらく暫くぼんやりしていたが、そろそろ帰ろうか。と言って起き上がった英智と一緒に荷物を片付け、シャワースペースで足の砂を落とし靴下と靴を履く。パラソル以外は僕が持つから、と全部英智に奪われ、二人で来た道を戻った。生徒会室で青筋を浮かべた敬人が待ち構えていたとは、この時二人は知らなかったのである。