好きなモノは、睡眠、食事、稽古。
 そんな俺の大事な睡眠をぶち破ったのは、ガンガンと狂ったようにならされる寺の鐘の音――警鐘の類だった。
「!」
 布団を跳ねのけ、高枕を蹴飛ばして窓へ駆け寄る。屋根裏を無理やり第二の自室に変えたような場所なので、街をよく一望できる。深夜一時、紺色を塗りたくったような夜空と、黒に塗りつぶされた家々の屋根、その下でほのかに輝く提灯の赤。それが、よく見慣れた光景だった。
「なんだ、これは……」
 茫然と、ガラスに触れる。ほんのりと熱を感じ、化け物を触ったようにぱっと指を離した。
眼前に見えたのは、竜のようにとぐろを巻く炎の群れ。
赤い。
 紺色も黒もない、俺が夢を見ていたのかと思うくらいに。他の色を許さない、真っ赤な街。燃えていない家など、ないような具合だ。
「おかしい、こんなことになるまで気づかない訳が……」
 と組やろ組、火消しどもは何をしていたんだろう。
 そこまで呑気に考えていた自分だが、反動のように意識がぱっと現実感を帯びた。枕元の愛刀を引っ掴むとすぐに弾かれたように踵を返し、どたどたと音を上げて階段を駆け下りる。濃い煙の臭いとパチパチと炎の弾ける音が、遠くから漂ってくる。
まだ火の気配はない一階の廊下だったが、いつ他の家から移るとも知れなかった。
 菖蒲。
 俺の主である百合の息子。
 もう十五歳になるとはいえ、この光景を見たら泣き出すんじゃないか、などと考えてしまう程度には、まだまだ子供だ。少なくとも、俺や百合にとっては。
 泣いてはないにせよ、パニックになっている方が危ない。どうか落ち着いていろよ、と願いながら彼の部屋へとたどり着く。
「菖蒲! 起きているか!」
 男の部屋にしては整った、本が静かに並ぶ部屋へ足を踏み入れる。真ん中にぽつりと鎮座するのは、主人を失った布団だった。
 一瞬にして、最悪の事態が脳裏をよぎる。
「あいつ、まさか一人で街に――!」
 居てもたってもいられず、裸足で縁側の外へ飛び出た。門の方にまだいるかもしれないと淡い期待があったからだ。全速力で走ると、門に人影が見えた。菖蒲の小さな影ではなく、ひょろ長い成人の姿。
 その手に持っているのは、ライター。
「貴様!!」
 怒りの余り叫んだ俺に、はっと顔を上げた男。だが情けをかけるなどという手段は、すっぽりと頭から抜け落ちていた。胴を薙ぎ払うように刀を振り払えば、素直にその通りに切れた。
 百合の家を燃やさせずに済んだことに、深く息を吐く。が、このままでは数十分後には他の家の火が燃え移っているのは確実だ。まさかこの男が、すべての元凶なのだろうか。
 遺体の情報を読む魔法でもあるのなら、この死体を百合に見せる必要がある。いや、それより菖蒲を探すのが先か。足りない頭であれこれと考えていたところに、縁側にもう一つの気配。
「竜胆丸、菖蒲はどこだ」
「百合」
「父さんと呼びなさい――なんてやり取りをしている場合ではないな。その様子だと、菖蒲が見つからないのか?」
 羽織を右肩にかけただけの中年の男。おそらくまだ起きていたのだろう、随分はっきりとした口調で俺に菖蒲の行方を問うてきた。彼こそが菖蒲の父にして、没落した知人の為に、その息子を引き取ったもの好き――百合だ。
 彼は俺の足元に転がる男を見ると、すっと目を細めた。ぶつぶつと何事かつぶやくと、死体はほのかな緑色に発光した。
 もはや何年も、何度も見た光景とはいえ、魔法というものは不思議で、少し不気味だ。百合や菖蒲が使うモノだから、嫌いにはなりたくないが――。
「……だいたい事情は読めた。そこの男は科学者だ。放火魔と言えば放火魔だが、彼の目的は放火ではなく、魔術師を攫うこと」
「なっ、じゃあ菖蒲は!」
「――彼には仲間がたくさんいる。別の人間に攫われた可能性は高い。ふむ――」
 そこまで言って、百合は押し黙ってしまった。何かを考えているのは分かる。分かるのだが、火事場で、息子が人さらいにあっているのに、そんな悠長にしている場合ではない!
 いらついたように視線を動かす俺を見て、百合は少しだけ悲しそうに眉を下げた。
「ああ、すまないね。……少し決意に時間がかかっただけだよ」
「決意だと?」
「ああ。竜胆丸、少し背を向けなさい」
 面食らったが、うだうだ言っている間に火の手が強まっては困る。さっと背を百合に向けた。すると、何かがかさりと背で音を立てる。
「×××××」
 なんと言ったのか、俺には皆目見当つかなかった。が、背に少し冷たい空気が触れたのが分かった。百合の手が離れ、「よし」と少しおどけたような声が聞こえてきた。
「竜胆丸。私の随身として、君に命令するぞ」
「! なんだ」
「お前に護符を付けた。これで三日間、お前は炎を一切寄せ付けない体質になる。だから、二日間は菖蒲を探してくれ」
「残りの一日はどうしろっていうんだ」
「武家屋敷街から逃げろ。菖蒲のことについては心配するな、とりあえず焼け死にはしないように、手を加えておく」
 そんなことが出来るのか? とは問わない。
 魔法使いに「そんなことできるのか」と問うことほど、バカらしいことはない。ましてや百合は魔法研究家だ。その道のプロなのだから、聞く必要もないだろう。
 百合ができるといったら、出来る。俺はそう信じるだけだ。
「……絶対、菖蒲を取り返してくる」
「頼む。さぁ行け」
「わかった。なら百合――城前公園で待っててくれ。あそこはなら火の手も回らないはずだ」
 百合は微笑んだ。
 行ってくると告げれば、なお一層優しい笑みを浮かべた。
 大丈夫だ。俺は父さんの信頼に応えてみせる。