「悪かったよ、菖蒲。高い電車代を借りてしまった」
「良いんだよ。僕も行先は同じだし、ちょうど旅の仲間ができて良かったなぁと思ってるくらいだから」
「そう。まあ、一区のターミナルは混むから……仲間がいたほうが迷わずに駅から出れるよね」

生まれてこの方何かに迷ったことはありません、というような真顔で菖蒲を見据えながら語り掛けてくる同僚に、思わず苦笑した。普段から共に事務の仕事をすることが多いけれど、思えば彼の感情の起伏というものをあまり見たことがない。

「ジーンは迷ったりしなそうだね」
「ま、地元だからね。……タバコ吸っても?」
「どうぞ。あ、僕はいらないよ」
「了解。――そうだ、確か北口に銀行があったと思うんだよね。電車代下ろしに行こうか」

さらりと金糸のような前髪を揺らして、同僚のジーンは首を傾げた。同じ金髪の男を思わず連想したけれど、彼の髪はムツキの髪質ともまた別で、指通りが非常に良さそうだった。

「え、でも僕らは南口から出なきゃいけないんだよね?」
「うん。北口は、俺ら一区生まれの居住区。南口は、世界都市を動かすお偉い方の勤務地に繋がってる。東と西は……まあ、ぼちぼち観光地が広がってるかな。二区に比べたらお粗末なものだけどね」
「そっか。じゃあ、やっぱり後で良いよ。お金返すためだけに、ジーンに逆走して貰うのは申し訳ないし」
「ん、分かった」


淡白に返答して改札を出てからも、やはりジーンは迷わなかった。

人ごみであふれかえる駅構内を難なく抜け、慣れた様子で街へと歩みを進めていく。菖蒲はというと、一区特有の洗練された空気に当てられ、つい観光気分でキョロキョロとあたりを見回してしまって、何度かジーンに「迷子になるよ」と真顔で腕を引っ張られることがあったが。

そうしてジーンに先導されてたどり着いたのが、世界都市管轄省――の隣にある、巨大な総合ビルだった。

「いつ見ても、めちゃくちゃな大きさだねぇ……」
「本当にね。えっと……菖蒲はお姉さんとの待ち合わせがあるんだっけ。何時から?」
「午後の三時からだよ。お店の名前はカフェ・メンデルスゾーンって言ってた」
「えっ、三時? まだ十一時なのに……もしかして、俺に合わせて電車乗ってくれた?」

珍しく驚いたように目を丸くしたジーンに、菖蒲は曖昧に微笑んだ。図星なのだが、何だかそんなに率直に言われると答えづらい。ジーンは沈黙を肯定と受け取ったらしく、後ろ頭をかいて苦笑した。

「ほんと、君っていつもこんな感じだね。仕事中も、俺は割と君に甘えてしまっていたのかも……ごめん」
「そんなことないよ。ジーンはいつも冷静で、仕事中も今も、僕は助けられてる」
「そっか……。でも俺の気が済まないから、今日はお昼を奢るよ。その前に、俺の用事を終わらせていいかな」
「もちろん。……でも、このビルって病室もあるの?」
「五十階から五十二階までは、管轄省の職員が入れる病棟になってるんだ。このビルは、隣の管轄省の職員が便利に過ごせるよう作ったらしいからね――病人になった場合もまたしかり、ってこと」

そう言って、ジーンはエレベーターのボタンを押した。一分ほどで扉が開く。乗員はジーンと菖蒲だけだった。ちょうどいい、とばかりにジーンは口を開く。

「ちょっと前に、俺の遠い親戚が急に倒れてね。その人、ちょっと偉い人だからさ……家族が『お前も見舞いに行け』ってしつこくてさ。だから、突然お金が居る羽目になったんだ」
「このビルの病棟に居るなら、超エリートだろうね。全部個室なんでしょ?」
「そう、ちょっと引くレベルのエリート。でも、いくら偉くてもさ……俺のなけなしの非番と給料を食い散らかすのは勘弁してほしいよ」

不満げなジーンとは反対に、菖蒲はくすっと笑った。それを受けて、ジーンは「?」と不思議そうな表情を見せる。菖蒲はますます嬉しそうだ。

「菖蒲?」
「あ、ごめんね。君がそんな冗談を言ったり、表情を変えたりするのが珍しくって……つい」
「そう? 俺そんなに真顔かな……」
「すっごく真顔」
「仕事中は頭が痛い案件が多いからだよ、それ。今は、金が無くなった事以外は問題ないし。……あ、着いた」

プレートが『52』という数字を浮かび上がらせた。ジーンの親戚は52階、病棟フロア? の最上階らしい。いよいよ大物の気配がするが、菖蒲が突っ込んでいい話でもないだろう。

「僕、談話室で待ってるね」
「あぁ……うん。あ、ちょっと待って」

談話室へと歩き始めた菖蒲を引き留め、ジーンが上着のポケットをごそごそと探った。彼の胸ポケットから出てきたのは、一枚のチラシだった。

「一個下の階……51階に売店があるんだけどね。そこの売店、一流のパティシェが常勤してるお菓子屋さんとしても有名なんだ。特にこのチラシの一番上――このシェルチョコレートが最高。人気商品だから、食べて損はないと思うよ」
「う、うん。ジーン、甘いもの好きなの?」
「すごく好き」
「熱弁だね」

キラキラと青い目が輝いている。これは何個か買って、後でジーンと食べよう……なんて思いながら、菖蒲はいったん彼と別れた。目指すは51階の売店だ。



冷凍庫に色とりどりのアイスクリーム。冷蔵タイプの陳列棚にはプリンにシュークリームにおいしそうなシェイクやジュース。常温の陳列棚にはクッキーや、二区でお馴染みの饅頭まであった。

そして店の奥には、見るも華やかなケーキの数々。売店と銘打ってあるものの、店の半分はケーキ屋の様相だった。

「わぁ……すごい……さてはジーン、ここ行きつけのお菓子屋さんだったりするのかな……?」

しかし、お菓子がありすぎてジーンおすすめのチョコレートは何処にあるのか分からない。人気商品と言うからには、真ん中にあると思ったのだが……。

「ううん……? チョコレートの棚でもあるのかな……? ケーキの並びにあるとか……?」

とりあえず壁際から攻めてみているが、壁一面は冷蔵・冷凍商品で埋め尽くされている。チョコレートは見た感じ、並んでなさそうだ。

となると常温商品として販売しているのだろう。何列も並ぶ棚をぼんやり見ていると、ポンポンと肩を不意に叩かれた。

「何かお探しですか?」
「あっ、チョコレートを……」

てっきり店員かと思って振り返ると、そこに立っていたのはスーツ姿の青年だった。既に買い物をした後なのか、ビニール袋を片手に提げている。
ジーンと同じかちょっと上か、くらいの年齢らしい彼は、顔の右半分を大きな覆いで隠す、不思議な風貌をしていた。

ぽかんとしている菖蒲を見て、彼は少し恥ずかしそうにはにかんでヒラヒラと右手を振った。

「あはは……すみませんね、急に話しかけて。貴方、第三区警察の制服を着ているでしょう? ここの勝手が分からなくて困っていらっしゃるのかと思って……出過ぎた真似だったかな」
「いえ! あのっ、この広告のチョコレートを探してたんです。友人に勧めて貰ったんですけど、見当たらなくって」

青年に慌ててチラシを見せると、彼は長い指を顎に当ててそれを覗き込んでくれた。

「ああ、それはあそこの中央の籠にいつも詰められてるよ。でも、今日はちょうど安い日だったから……」
「な、無い……ですね……!」

見事にもぬけの殻である。ふと周りの客を見れば、客用の買い物籠一杯にチョコレートを詰めている人が何人もいた。まだ昼前だというのに、信じられない光景だった。

「すっごい美味しいチョコなんですね、きっと……! うーん、そう思うと残念だなぁ……」

今度姉上にもこのお店を紹介しておこう、と思いながら菖蒲はチラシをポケットに仕舞う。ジーンにはチョコレートではなく、シュークリーム辺りで我慢してもらうことにしよう。

「場所を教えてくださってありがとうございました! 今度また友人と来ることにします」
「待って!」

青年がそう言って、ビニール袋の中を探った。そして何かを取り出すと、菖蒲にそれを手渡した。

「僕もさっき二個だけ確保できたんですよ。これ、差し上げます」
「えっ!? いやそんな、悪いですよ!」
「良いの良いの。僕は毎日ここに来れるけど、君は来れないでしょ? ここのチョコレートのおいしさは僕もよく知ってるから、これを食べる機会を逃してほしくないな。ね、店長さん? 君のチョコレートは全世界に賞味して貰う必要あるよね?」

レジの方に声を飛ばす青年。すると、中から店長らしき人が現れてペコペコ頭を下げながら、「三区の方にはまだ店が出てませんから、是非食べてください」とか「チャーリー様に勧めて貰えるなら、当店も安泰ですよ」とか、嬉しそうに返答した。

「という訳で。店長もああ言ってる訳だし、受け取ってよ。ね?」
「わ……分かりました。ありがとうございます!」
「うん。じゃあ、一区観光を楽しんでね」

じゃあね、と短く爽やかに店から出ていった青年の背を見送る。大都会のエリート街で、こんな軽やかな若者に出会うとは思っても居なかった。お目当てのチョコレート自体は手に入れてしまったが、このまま何も買わず出ていくのも……と迷っていると、丁度三十秒くらいの入れ違いで、再び自動ドアが開いた。

「うわ。チョコ売り切れてる」

かなりショックそうな第一声と共に、ジーンがこちらに歩み寄ってきた。声に違わぬ悲しそうな目に、菖蒲は急いで先ほど渡されたものを取り出し彼の目の前に付きつける。

「あっ――菖蒲、買えたんだ」
「ううん、貰い物。僕が来た時には丁度売り切れててね……優しい人が譲ってくれたんだ」
「へぇ。このコンクリートジャングルにも、良い人は居るものだね」

普段より少しだけ声のトーンを上げて喜ぶジーンが、ちらりと腕時計を見た。どうやら、丁度お昼時らしい。

「じゃあ、そのチョコレートは帰りの電車のお楽しみにしておいて……ごはん食べよっか」




ジーンと菖蒲はいったんビルから出て、そのまま隣の管轄省へと入った。一階のフロアはかなり広大で、入り口から右奥へと進んでいくと、レストラン街のような場所が広がっている。

「俺のおすすめは、ここのカフェ。ランチに出されるサンドイッチが絶品なんだ。菖蒲は……食事は和食じゃないと駄目、とかじゃないよね」
「あはは、二区民は毎日お寿司食べてるみたいな謎の偏見はよしてよ! 僕、ジャンクフードだって食べるからね?」
「はは、ごめん。そういや食堂で、普通にオムライスとか食べてるよね」

そう言って、ジーンたちはカフェに入った。ちょうど建物の窓際に面した場所だからか、壁一面ガラス張りで広々とした空間になっている。ランチをしている市民のほかにも、立ったままコーヒーを飲みつつ談笑する職員らしき人も大勢いた。

「二人。喫煙席で」
「かしこまりました。こちらへどうぞ」

ウェイトレスに案内されたのは、丁度二人用のテーブルだった。日曜の昼時、しかも少しお高めのレストラン街の一角とあってか、二人掛けの席に座すのはカップルだけだった。

「……なんか、すごく居心地が悪いね。ごめん、俺ここに来たことあるの、平日だけだったから」
「全然気にしなくていいよ。サンドイッチ楽しみだね」
「そう。ちなみに、いちごジャムのサンドイッチが美味しいから」
「ほんとに甘いものばっかだね……ジーン、糖尿病には気を付けてね」
「大丈夫」

なぜか自信満々に応えるジーンが可笑しくて笑っていると、ウェイトレスがメニューを持ってきた。ジーンはそれを見て早々、少し頬を赤くして、

「これは要らないです」

と何か一つメニュー表を付き返していた。見ると、そこには『カップル割引・対象商品一覧』と、可愛らしいポップな字体が躍っていた。全体的にピンクを基調として可愛らしい感じだ。

ウェイトレスは生暖かい視線と共に「失礼致しました」と一言置いてメニューを片付ける。さながら「はいはい、まだ恋人じゃないってことね」とでも言いたげに……。

彼女がテーブルを去ってから、ジーンが重たい溜息と共に顔を両手で覆った。

「…………ほんとごめん」
「あはは……大丈夫だよ。二区も同性愛OKの街だから、割とこういう勘違いはよくある話だから」
「あ、そうなんだ。良かった……俺がそういう……例えば告白目的で、ここに連れ込んだと思われたらどうしようかと」
「ぶっ、あははは! ジーンが告白!?」
「大爆笑だね。ていうか、君ってそんな大声で笑うんだ。意外」

今日はお互い、意外な一面ばっか見てるね。とジーンがちょっと楽しそうに微笑んだ。笑い死にそうになっていた菖蒲は、涙で滲んだ視界のせいで、その笑顔がはっきりとは見れなかったのを残念に思っていた。

結局、ジーンの勧めたサンドイッチのセットが二つテーブルの上に並ぶことになった。いちごジャムのサンドイッチを頬張るジーンに自分の分を譲って、代わりにジーンが「ここのツナサンドは美味しいよ。二区の人って、魚好きでしょ?」と、ツナサンドを譲ってくれたりしながら、お昼は和やかに過ぎていった。

「美味しかったよ! もしかすると姉上もここに通ってるかもしれないと思うと、すっごい羨ましいなぁ」
「ああ、菖蒲のお姉さんはここに勤めてるもんね。特にこの店は、五長官のマイクロフト長官や、俺の親戚も通ってるらしいよ」
「えっ、マイクロフトさんも? それはちょっと会いたくないかも……ってあれ? ジーン、今親戚って……」
「あー……ニュースでこの前流れたの、覚えてない? 五長官の金髪のおじさんが緊急搬送されたってやつ。あれ、俺の親戚。あの人、今は隣ビルの52階の住人になってるけどね」
「はぁああ!?」

さらりと、本当にどうでもいいことのように言うジーンに頭がくらくらする。つまり、先ほど彼は五長官の一人にお目通りしていたという訳だ。

ジーン曰く、「遠い親戚だから、俺には関係ないし。あと、今あのおじさんは五長官休職中。だから、俺が会ったのはただのおじさん」とか何とか。そういう問題では……と思ったが、マイクロフトに時々面会している菖蒲が言える話でもないので口を閉じることにした。どのみち、これ以上込み入った話はカフェでは出来ないだろう。

「じゃあ、ご飯は俺の奢り」
「ありがと、ジーン」
「電車代の五分の一以下だし……あっ」

伝票を取ろうとして立ち上がったジーンが、急にすっと敬礼のポーズをとった。菖蒲の背中側だ。慌てて菖蒲が立ち上がって振り返れば、そこにいたのは五長官が一人、ラフィーであった。

「ラフィー殿! お、お疲れ様です……」

一応挨拶をしてみたが、ラフィーは露骨にムッとした顔でフンと鼻で笑うだけだった。相変わらず物凄い嫌われようだな……と菖蒲が内心苦笑していると、ジーンも続けざまに挨拶を述べた。

「チャーリー長官もお疲れ様です」
「――あぁ! もしかしてジーンさん? 久しぶりだね、元気にしてた?」
「はい。チャーリー長官のお父様におかれましては……」
「ああ、そっか。父さんのお見舞いに来てくれたんだね。わざわざごめんね、ジーンさん。きっと父さんも喜んだでしょ」
「ご病気の際でも明るい方です。見習いたいものですよ」

ジーンに明るさを見習いたいと言われると、何だかシュールなギャグだ。と菖蒲が笑うのを必死に我慢していると、ふと我に返った。

チャーリー長官? そんな人、五長官にいただろうか。敬礼を解かずに、ジーンへそっと耳打ちする。

「ねぇジーン」
「何」
「チャーリー長官って、五長官に居たっけ」
「ああ……倒れた長官の代わりに、息子さんが今五長官の席についてるんだよ。正確に言うと、チャーリー長官代理、みたいな感じかな」
「チャーリー……、長官代理……」

ラフィーに滅茶苦茶きつい視線を向けられていたので目が離せなかったから、チャーリー長官の顔をまだ一度も見れていないのだが。

チャーリー。
思いっきり、聞き覚えのある名前だった。

「あれ? 君、さっき売店に居た――」
「は、はいっ! その節はどうも……それより申し訳ありません! まさか五長官の方とは思わず、図々しい真似を……!」
「いやいや、図々しく話しかけたのは僕だろ? 気にしないでいいよ。チョコレートもう食べた?」
「チョコレート? ……菖蒲、もしかしてチョコをくれたのって……チャーリー長官?」
「そうだよ!」

お恥ずかしい限りである。まさか世界都市のトップと言っても過言ではない殿上人から、チョコレートを譲ってもらうなんて、無駄にミラクルを起こしてしまった。

「にしてもそっか、友人はジーンさんだったか。どうも君とは縁があるみたいだね」
「恐縮です……」
「チャーリー長官、チョコレートありがとうございました。まだ食べてないですが、帰りの電車でいただこうと思ってます」
「ジーン……」

無駄にチョコレートに関する報告をしている彼もなかなか大物であった。チャーリーは人好きのする笑みを浮かべて、うんうんと頷いてくれている。

「もういいか、チャーリー殿。私はこの男が嫌いでね」
「おや。ラフィー殿が珍しいことを仰るね。なぜかゆっくり聞かせてもらってもいい?」
「なんでも構わない、さっさと出させてくれるか」

ラフィーがやたらとせっつくのを楽しそうに見ているチャーリーは、「またね、ジーンさん、菖蒲さん」と短く挨拶して店を出ていった。まさしく春の嵐のような人だった。