「き、緊張したね……まさか五長官に、こんなところで出くわすなんて……」
「そうかな。チャーリー長官は親戚だし、ラフィー殿なんて一言も会話しなかったから、あんまり緊張はしなかったけど。というか、君なんかラフィー長官に目を付けられてない?」
「目の敵にされてるだけだよ……」
「五長官に目の敵にされるって、何やったの」
「何もしてないはずなんだけどなぁ。不思議な人だよ、ラフィー殿は」
カフェを出ると、時間はまだ一時半だった。菖蒲の姉との約束は三時で、二時半に待ち合わせ場所に行くとしても、あと一時間以上ある。
「あと一時間くらい、適当に暇つぶししよう。ジーン、どこか行きたい場所ない?」
「行きたい場所ねぇ……あ、なら西口に行かない? 自分へのお土産に、パンを買いたいんだけど」
「へぇ! 美味しいパン屋さんがあるの?」
「食パンが絶品。厚さとか指定できるし、食パンの上にクリームとか小豆とか塗ってあるやつも美味いよ。チョコチップを生地に練り込んであるやつは、子供も好きと思う」
「なるほど……ユーリューくんが好きそうで良いね」
「彼、クリームパンとか好きなんじゃないかな」
グルメにうるさい料理上手のユーリューは、食パンにも結構うるさい。パン屋の食パンなら、朝ご飯に出しても文句を言わずに食べるだろう。菖蒲は携帯を取り出して、ユーリューに『ユーリューくんは何パンが好き? 一区の美味しいパン屋さんに行くから、よかったら好みを教えて』とメッセージを送った。
「じゃ、行こうか。歩いて行っても、西口はそう遠くないよ」
ジーンの言う通り、一区の面積自体はそう大きくはない。車でざっと回れば、観光地全て回れてしまうくらいの面積である。まあ、この区は行政を司ることに最も大きい意味を持つので、観光客が脚を運ぶような観光地が少ないからでもあるが。
「そういえば、ジーンは家族に会いに行かなくていいの?」
「え? うーん、別にいいかな」
「せっかく来たのに……よかったら、僕が姉上と話してる間、北口に行っても……」
「ああ、本当にいいよ。遠慮とかじゃなくてさ……家に帰ったら妹がうるさいんだ。『もう、お兄ちゃんったらいつまでふらふらしてるの? 早くお嫁さんを連れてきなさいよ!』ってね」
「あは、あはは……他人事とは思えない……」
もっぱら姉に『いつになったら桜良さまと結婚するの?』と聞かれる身には、その居た堪れなさはよく分かった。最近なんて、『菖ちゃんって年上の方が好みなのかしら。だったら五長官のマイクロフト長官とか……もしくはマイクロフト長官にご兄弟を紹介していただくとか……』と、何やら間違った方向に気を回し始めたのだから手に負えない。
前回に至っては『ラフィー長官って、絶対菖ちゃんに気があるわよ』とか言い始めたのだ。確かに、ラフィーは菖蒲に対して気はあるだろう。悪意と言う名の気だが…………。
と菖蒲が顔に乾いた笑いを張り付けていると、ジーンも何か共感したらしく、困ったように微笑んだ。
「女兄弟は、色々とお節介で大変だ」
「お互い苦労してるみたいだね……。でも、ジーンならすぐお嫁さんくらい見つかりそうだし、気楽でいいじゃないか」
「そうかな。仮に菖蒲が女の子だとして……俺と付き合いたい?」
「え……そりゃもちろん、格好いいし、公務員だし……うーん…………」
いや、顔も立場も申し分ない。性格も、別に悪いわけじゃない。ただ……ちょっと何を考えているか分からない仏頂面の時が多すぎて、付き合うとなると大変そうだ。彼氏が真顔だと、女の子なら余計に気を遣って疲れてしまいそうだし。
「うん、正直で結構」
「ご、ごめん」
「今しばらくは『俺は結婚に向いてないでしょ』って返事で誤魔化せるって分かったし、むしろ感謝するよ」
ジーンがくすくすと笑ってそう言った。洗練された都会的な街並みと、ジーンの整った風貌はよくお互いを引き立てあっていて、本当に男としては申し分ない人であることが良くわかる。夫や彼氏としては……菖蒲はノーコメントだけれど。
「なんて、雑談してる間に着いたよ。ここ、俺おすすめのパン屋」
「今日はジーンのおすすめばっかり紹介して貰えてラッキーだなぁ」
「本当だ。俺の行きたいところしか行ってないね……まあ、エスコートしてるんだから仕方ないか。さあ、お手をどうぞ公家様。ついでにドアも開けるサービス付き」
「僕の家は武家だし、二区にエスコートって文化はないけどね。はは、でもありがとう」
ジーンは冗談めかしてそう言うが、なんだかんだ警察署内でも他人より率先して扉を開けてくれることが多い。これ文化の違いだろう、偉いなぁ……と思いながら、菖蒲は彼に促されて中へ入った。
「わっ……!? これ全部食パン!?」
「そう。奥の方には調理パン菓子パンもあるけど、メインはやっぱりこの食パンだね」
ショーケースの中に、びっしりと埋め尽くされる食パンたち。近くに寄ってみると、メニュー表のようなものがあった。
「今日は……あっ、シュガーパンがあるな。菖蒲、シュガーパンは狙い目だから買っといて」
「シュガーって、また甘いものじゃないか。ジーン、君はこっちの調理パン食べたほうがいいよ」
「ここに来たからには食パンを買うよ。すみません、このシュガーパンを……三センチ切りで五枚」
「ええっ、五枚!? そんなに食べれるの!?」
ここの食パンは、市販のものではないのだから消費期限が近いだろうに。菖蒲にじとーっとした目で見られて、ジーンはすっと目を逸らした。
「……一枚は菖蒲のノルマで。四枚は俺の」
「ジーン……きみ、三区に戻ったら、食堂で食事管理した方がいいんじゃないのかな」
「勘弁してくれ。食堂のパンはいちごジャムが付かないから嫌だ」
子供か……と菖蒲のジト目がますます湿度を帯びてきたその時、カランカランと入り口のベルが鳴った。振り返ると、白髪の小柄な老婦人が入ってきたところだった。
「いらっしゃいませ。今日は寒かったでしょうに、ご足労いただきありがとうございます」
「もう秋も近づいてきたってところだからねぇ……私もそろそろ老いてきたのか、寒くていけないよ。という訳で、焼き立てを頂こうか」
「はは、参りましたよ。どれでもお好きなのをどうぞ。貴女がいらっしゃる時間に合わせて、何枚か作ってます」
店主と老婦人は、軽快に会話を続けていく。どうやらかなり馴染の常連客らしい。彼女が商品を見やすいように、ジーンと菖蒲が横にずれようとしたのだが、それに目ざとく彼女は気づいたようだった。
「ああ、悪いねぇ。遠慮せず、真ん中でよく見て選ぶといいよ。黒髪の方のお兄さん、ここに初めて来たんだろう?」
「えっ……なんでわかったんですか?」
「見たら分かるさね。さ、こっちにおいで。彼氏のお兄さんも一緒に」
「ご冗談がお上手ですね」
言われた通りにショーケースを覗き込む菖蒲の後ろで、ジーンが苦笑しながら老婦人の隣に立つ。彼女を見ながらジーンは何度も首を傾げていたが、結局何も言うことはなかった。代わりに、菖蒲の「小豆が美味しそう……」という明るい声が空気に溶けた。
「小豆が良いかね。くっくっく、やっぱり二区の子だねぇ。店主や、この子に焼き立ての小豆パンを二枚。三時前に腹いっぱいになったら困るから、2センチでね。私はくるみパンを頂こうか」
「まいど。何時もの厚さと枚数で良いですね?」
店主はそう言うと、慌ただしく奥へと入っていった。すぐに白い紙袋を二包み抱えて戻ってくる。菖蒲が財布を出すと、老婦人は「そのお金は、取っておきな。後で使うようになるからね」とだけ言って、小豆パンのぶんのお金まで払ってしまったのだった。
「あっ、あの……すみません。僕がよそ者だから、気を遣わせてしまいましたか……?」
「うん? いや違うよ。私は、日ごろからお世話になってる子にお礼をしただけさね」
「……? どこかでお会いしたこと、ありますか……?」
先ほどから、老婦人の言葉はどこか先見めいたものを感じさせる。お金は取っといた方がいいとか、三時前に……とか。まるで菖蒲が、これから姉に会いに行くのを知っているかのような発言だ。遠い昔の知り合いか、もしくは姉の知り合いか、そう思ってもおかしくはないだろう。それに、菖蒲も何となく、彼女の顔に見覚えがあるようなないような……。
「いいや、無いねぇ」
という様々な憶測を、老婦人は首を横に振ってぶった切った。違うんだ……と思いながら、菖蒲はそれでも再度、お金を払って貰ったお礼を言うことにした。しかし、それをまるで見抜いたように、老婦人はさっさと出口に向かって歩き始める。
「やれやれ。もうちょっと、姉くらい図々しくなれないのかい。まあ、近頃はそういう子の方が可愛いって事かねぇ?」
「え、姉って……やっぱどこかで……!?」
「会ってないよ。じゃあね、坊ちゃんたち」
パタン! と小柄な体型に似合わず、勢いよくドアを閉めて行ってしまった。唖然と言った具合にドアの方をぼーっと見ていると、不意にジーンが「――あ!」と大声を上げた。
「うわっ!? なに、ジーン!?」
「何って、あの人のことを思い出したんだよ。なんか見たことあると思ってたんだけど……そうか、メイクをしていないから、すっかり思い出せなかった訳だ……」
「え、え? ジーンの知り合いなの?」
ならジーンに話しかけるはず……という菖蒲の戸惑った顔をよそに、ジーンは菖蒲の抱えている紙袋の中に手を突っ込み、勝手に小豆パンを一個取りながら、
「――ジェナ長官だよ」
「…………え?」
「インディアンのメイクも羽飾りもなかったから、さっぱり見分けがつかなかったけど……アレは五長官のジェナ殿だと思うよ。菖蒲のお姉さん、ジェナ長官の管轄する部署に居るんでしょ」
「…………ああああーっ! そうかっ、だから僕の事知ってるような感じで……ああああー!?」
「いきなり二回も叫ばないでほしいな。びっくりするよ」
「ごっ、ごめん! でも時間! やばいよ、姉上との約束に遅刻する!」
「え、大変だ。噂のアイアン・レディに抹殺されるのは、俺も本位じゃないし……さっさと行こうか」
しれっとジーンが恐ろしいことを口にしたが、まったく冗談にならないのが悲しいところである。シュガーパンと小豆パンをそれぞれ抱えながら、二人は一区の石畳の上を走りだすのだった。