「悪夢だ……」

そう呟いたのは、菖蒲――ではなく、菖蒲の隣に座って苦虫を一万匹噛み潰したような顔で眼前を見据えるジーンだった。菖蒲はもう何だか嘆きを通り越して無の境地に至っているので、何も言うことはなかった。

……とまあ、こんな悲劇的な男性サイドとは打って変わって、正面に座す彼女たちはずいぶんと楽しそうだ。

「もう、お兄ちゃんったら! 一区に戻ってきてるなら言ってよね! テツノさんが教えてくれなかったら、会えない所だったじゃない!」
「あらまぁ、ジーンさんといい菖ちゃんといい、最近の男性はシャイなのね。帰省は恥ずかしいことでもありませんし、家族に連絡くらいすべきだわ」
「ね〜!」

管轄省の隣ビル21階、カフェ・メンデルスゾーンの隅で、女性二人の仲良さげな声が響いた。

菖蒲と彼の姉・鉄乃との約束に間に合わせるため、ジーンと菖蒲は猛ダッシュで西口から北口の方まで駆け抜けたのだ。多分それが悪目立ちして、ジーンの知り合いが運悪くジーンを見つけてしまったのだろう。

そしてそれを妹に伝え、そして妹がお茶友達(らしい)の鉄乃にポロっと零したところ、この悪夢の会合が開かれてしまった――それがジーンの憶測するこれまでの経緯だ。

「そっか〜! お兄ちゃんがよく話してる同僚さんの『ショーブ』って、テツノさんの弟さんの『菖蒲』さんだったのね! すっごい偶然!」
「ふふ。菖ちゃんが事前に『今日は同僚と来るので、もし会ったらご挨拶をお願いします。ジーンっていう人です』ってメッセージ送ってくれなかったら、ロッタちゃんを呼ぶなんて思いつかなかったわ」
「ショーブさんの連絡のおかげですねっ!」

菖蒲とジーンが一言も発さないのをいいことに、女性二人は勝手に会話をどんどん転がしていく。

ジーンが超小声で「菖蒲、恨むからね」と耳打ちしてきたのを、菖蒲も「君が連絡しないから、こんなことになったんだよ」と耳打ちして返した。仮にも魔法警察の制服を着た男二人が、姉と妹を前に成すすべなく、コソコソと超小声で話し合う……なんとも情けない図式であった。

「……ねぇ、お兄ちゃんってさ……」
「……え。なに」
「お嫁さん何時になったら連れてくるの?」

来た……とばかりに目を閉じるジーン。どんな案件が回ってきても動揺しないことで有名な彼、今日ばかりは動揺しまくっても許されるだろう。

「テツノさんに聞いたんだけどね。ショーブさんは20歳なのに、もうお金持ちの婚約者が居るんだって」
「いないよ!?」
「えっ? サクラちゃんって子なんですよね?」
「姉上!!」
「あらあらロッタちゃん、桜良くんよ、桜良くん」
「まぁ!」

ほっぺを赤くして、ロッタが物珍しそうに菖蒲とジーンの方を見てきた。恋愛話を待っている少女の表情は可愛らしいが、恋人のこの字もない日々を送る独身二人には、ただただ苦痛であった。

「あのね……桜良くんはただの幼馴染なんだ。婚約云々はその、今の桜良くんは思春期だから……何かの気の迷いだよ。それに彼が婚約届を常備しているだけであって、断じて僕は婚約はしていないというか……」
「婚約届を常備……なるほどっ、メモしておかなきゃ!」
「え、何を? 今の話のどこにメモする要素があったの」
「お兄ちゃんに婚約届を常備させておかなきゃと思って」
「しないよ。俺に結婚の予定はないし」
「えー! でもマンションの管理人のお仕事は、配偶者が居たほうが何かと良いんだって聞くよ?」
「マンションの管理人?」

菖蒲が不意に疑問を口に発したことで、偶然にもそれから話題はジーンの家の話に切り替わった。

何でも、ジーンの両親は現在、遠い32区の地で新規事業を展開しているらしい。その為一区に戻ってこれないのだが、もともと両親は一区で『マンションの管理人』という職を得ていた。

これを放置する訳にもいかず、管理人職を引き継ぐためにジーンは最初勉強をしていたのだが、色々心変わりがあって、魔法警察の事務員を職業に選んだそう。

なので、今は妹が代理を務めてはいるのだが……やはりマンションの全権は成人しているジーンにあるし、いつかはジーンが管理する必要があるそうだ。

「なるほど……それは確かに、婚約届が要るかもね……」
「ちょっと、菖蒲まで。今の発言、裏切りだよ」
「うふふ。菖ちゃんも早急に桜良くんか五長官と結婚しなさい」
「ひぇぇ……」

鉄乃の笑顔と共に発せられる言葉にいつもの事ながら菖蒲が気圧されていると、まだ鉄乃の恐ろしさをよく分かっていないジーンがさらりと金髪を揺らして首を傾げた。

「そもそも……貴女は何故、菖蒲と男を結婚させるおつもりなんですか。さっきのお名前を聞く限り……女性の名が出てませんけど」
「――貴方、二区の平均年収をご存知? 三千万円よ。地価はいくらかご存知? 一区の十倍ですのよ」
「……はい?」

ジーンが素で聞き返したのを見て、鉄乃は薄く微笑んだ。

彼が聞き返すのも無理はない、一区は世界の中心だ。それゆえ、地価もバカのように高い。だからこそ街には高層ビルが立ち並んでいる。ジーンの実家も高級マンションだが、それだって一軒家ほどの面積があるわけではない。

しかも、二区の家のイメージといえば……平屋である。土地面積をふんだんに使った、百坪は下らない程度の。

そんな場所の地価が、一区の十倍? もはや計算するのも億劫になる桁数に、ジーンは考えるのをやめてしまった。……なるほど、これは姉の考えていることも分かってしまう。

「……事情は分かりました。お金持ちの男の人じゃないと、そんなお金払えませんよね。世界都市の高額納税者ランキング、女性は一人も居ませんし」
「ええ。あと私、体が悪くて……結婚しても子が産めないのですよ。二区に生まれた以上、家に世継ぎを残さずして死んではなりませんから……菖ちゃんにお願いする外、道はないのです」
「菖蒲って、女の子だっけ?」

益々混乱したようにジーンが菖蒲に問いかけると、今まで話を聞いていたロッタがポンと手を打った。

「あれですよね。魔力の高い男性なら適用できる仮初の代替子宮! 女性にはどうして適用できないんだろう……」
「魔力って生命力、体力も同義ですからねぇ。女性は体力が少なくて、着けたら死亡事故が発生してしまうとか……」
「怖い話だね。お金持ちや良家の事情には明るくないけど……大変なんですね」

そう言うと、菖蒲も鉄乃もきょとんとした顔をした。それがジーンには堪らなく違和感で、表情が固くなるのを誤魔化す為、たばこに火を着ける動作で誤魔化した。

二区の人々にとって『家』という価値観は、大変とか嫌とか嫌じゃないとか、そういう問題で揺らぐものではない……ということをまざまざと思い知った。三区という自由都市に暮らしていると、偶に忘れそうになる価値観の違い。

「ってか、お兄ちゃん! みんなと居るのにタバコ! 外で吸って来てよ!」
「分かったって」

ジーンは席を立って、店のバルコニーへと歩き出した。話の流れだったとはいえ、人の事情に踏み入ったことを反省したかったし、今日は落ち着いてタバコを吸う時間もなかったから、丁度いい。

「おわっ」

バルコニーに出た途端、強い突風がジーンの前髪を躍らせた。高層ビルは向かってくる風が強いことすら、ジーンは忘れかけていたのだ。一区と三区、大差ないようでいてやっぱり細部は違うものだ。

「……さむ」
「そう思うなら、さっさとタバコ消して戻っておいでよ」
「うわ。びっくりした……菖蒲もタバコ休憩したいの?」
「違うよ。君が、さっきの話を気にしているんじゃないかと思って」

……バレていたようだ。菖蒲とジーンでは一回りくらい年齢が違うのだが、大人は絶対に子供を騙せるという道理はないらしい。気を遣わせてしまった。

「俺さ……君が金持ちの男と結婚しなきゃいけないとか、二区の次期将軍とくっつけたいとか……お姉さんのジョークかと思ってたんだよ、今まで。なのに、思った以上に真剣な話で……ビックリしちゃったんだと思う」

迷ったが、それでも本心を口にした。

ジーンにとって、自分の身体は自分の為に使うものだ。だから、彼と彼女が『家』の為に人生を回しているのが、どうしてもかみ砕くのに時間を要しそうだ。

菖蒲はジーンの告白に、微笑んだ。鉄乃とよく似た笑みだったが、不思議と不安は感じなかった。

「大丈夫だよ。君が思ってるより僕は幸せだし、姉上の言う通りにならない方法だってあるでしょ。僕が大金持ちになって、家を買えばいい」
「結婚は?」
「さすがにしなきゃダメだね……でも、家を買ったなら、あとはもう自由だよ。女性……ううん、本当に好きな人と一緒になって、子供を産むか産んでもらうかすればいいさ」
「そう……そうだね……」

ジーンは、菖蒲が赤子を抱く様子を連想した。思ったより簡単だった。菖蒲は優しくて、彼自信が柔らかい雰囲気を持っているから……柔らかい赤ちゃんを抱っこしてるのは、なんだか当然のような光景だった。

でも、相手なんて想像もつかなかった。赤子は想像できても、あのちょっぴり煩い事務室の、自分の机の隣に、彼が居ない情景は浮かばない。……結局、すべては不明瞭な未来の話でしかないのだ。

「……もし、家が買えなくても大丈夫。うちにおいで」
「え?」
「俺、部屋貸すからさ」
「ああ、そっか。マンションの管理人さんだもんね」
「未来のね」
「うん……そうだね。もしそうなったら、今とたいして変わらない毎日かもしれないね。朝起きて、一緒に仕事して、お昼とおやつ食べて、帰って……たまに君か僕の部屋で宅飲みするんだ」
「はは、だとしたら進歩ないなぁ……俺たち」

でも、そのくらいがちょうどいい。一番居心地がいい今のまま、高望みなく生きていければ十分だ。ジーンはそう思いながら、たばこの煙を大きく吐いた。揺らめいている煙と未来の話は、ほぼ同じようなものだな、と思いながら。

どっちも不明瞭ですぐ見えなくなる。それが普通なのだ。

「……戻ろっか。あんまりあの二人を放置してると、そのうち俺と菖蒲の結婚相手が決まっちゃいそうだ」
「はは、本当にね! しばらくは独身貴族で居たいですって報告しないと――」

そう言いながら店内に戻った菖蒲は、自分たちのテーブルに戻るや否や、そっと回れ右して店内を出ようと試みた……が。

「おやおや菖蒲、奇遇だね」
「まっ……マイクロフトさん……」
「お疲れ様です、マイクロフト長官」

心底嫌そうな顔をする菖蒲と、真顔のまま敬礼をするジーン。彼らが先ほど座っていた席には、マイクロフトが堂々と鎮座していたのだから、ジーンはもう少し驚いても良いはずなのだが。

「あら、おかえりなさい菖ちゃん、ジーンさん。今、ちょうどマイクロフト長官がいらしたところなのよ」
「ここのチーズタルトが好きでね。君たちも今度頼むといい」
「は、はぁ。次回食べてみます。では、僕らはこれで……」
「二人とも。今夜八時に、最上階に来なさい。今夜のディナーの相手を探していたんだが、丁度いい」
「はい!?」
「勿体ないお言葉です、マイクロフト長官。しかし、自分たちは帰りの電車の時間が決まっておりまして。何かご用命でしたら、後日お伺いに――」
「ご一緒してきなさい、菖ちゃん」

ジーンの流暢なお断りの言葉もむなしく、アイアン・レディの会心の一撃が決まる。ついでにロッタの「いいじゃないお兄ちゃん! 終電逃しちゃっても、うちに泊まればいいし!」という援護射撃もクリティカルヒット。男二人が一切の発言権を失っているのを見て、マイクロフトは心底愉快そうに唇を歪めて笑った。

「では、八時に。ドレスコードについても気にしないでくれ、スーツはこちらで用意させよう」
「マイクロフトさん……いきなり何故現れたんですか……!」
「いきなり一区に現れた暇つぶし道具を、私が見逃すとでも?」

性格悪いな!

と、菖蒲とジーンの切なる心の声が揃ったのは、言うまでもないだろう。