「最後に……言いたいことがあるなら、聞いてあげなくもないですよ」

自らの血に溺れ、息を吸うことも儘ならない少年。それでも彼は、普通の少年とは訳が違う。力の入らない手で苦無をかき寄せ、虚ろな目で、声の主を見上げた。……虚ろの中には、混乱と恐怖が充ちているのが手に取るようにわかった。

「……に……ない……」
「何ですか。聞こえません」
「し、死にたくないっ……いやだ、ぼくはこんな……」
「……御庭番にそのような情けない遺言を残す奴が居るとは。俺も初めて知りました」

少年は何一つ知らない。
なぜ今から自分が死ぬのかも。
この男が誰なのかも。
この男は誰の差し金でここに来たのかも。
その仮面の下に、いったいどういう人間が鳴りを潜めているのかさえ――

「死ね。お前のような奴は、忍びとして生きる方が酷だ」

かくして。誰も、何も知り得ず、夜は終わっていく。



「分かりました。ではこの陸雲が責任をもって、菖蒲殿をお預かりいたしましょう」

この二区において、八区街……いわゆる中華街は存在しない。だがその源流を三国時代の英傑たちと称す家々は、意外と点在している。

もちろん、英傑を源流と成す家である以上、高貴な生まれであることに変わりはない。それに純粋な二区の血筋ではないため、秋組より上の位には上がれないのだが……。それでも、二区は完全に閉じた社会ではなく、外の血を受け入れているという証になっている。

なぜ彼らが二区に住むことになったのか、という疑問については、『先祖が商人として鎖国状態の二区に出入りしており、それがそのまま住み着いた』……という説が有力だが、真偽のほどは誰にも分からないままだ。

閑話休題。
とにかく、この『陸雲』という青年もまた、英傑を源流とする八区からの血筋である……ということだ。

「しかし……菖蒲殿、まさかお怪我を負って再会することになるとは……お労しい限りです。あの頃、我らは『次に再会するときは、五体満足で会おう』と言ったものですが……」
「もう五年も前の話なんだね……なんだか懐かしいな。僕はともかく、陸雲……君には五体満足で再会できたのは良かったよ」
「はは、相変わらず貴方は前向きな方だ。病院の外で会えたこと、まずはそれを喜ぶべきでしたかね」

赤いチャイナ服で、細身ながら引き締まった体を包む青年。横髪の一房を編み込んでいる辺りが、なんとなくユーリューのことを思い起こさせた。

菖蒲と彼は五年前……所謂『大火』の後、同じ病室で過ごしていることをきっかけとして、友人になった。当時は暇な病室で何時間も語らっていたものだが……菖蒲の三区への移動をきっかけに、疎遠となってしまっていた。

――が、今回連絡を取ってみると、あっさり再会は叶ったのだった。

「あ、陸雲様……だっけ? ここには忍びも居るんすよね? 適当にそいつを菖蒲様に付けておいてください。俺の代わり……にはならねぇと思うけど……ま、忍びを付けろってのがご主人の命令ですからね。これで、俺が一瞬外れた事の言い訳にできるはず」

あまりにも睡蓮が適当なことを言うので、陸雲は相当びっくりしたようだった。それもそのはず、秋組である陸雲は、御庭番筆頭・睡蓮の顔など知らない。

だから彼には、睡蓮は菖蒲の家の軒猿にしか見えないのに……仮にもご主人様の菖蒲を、こうもホイホイよそ様の忍びに預けてしまう彼は、かなり異様に映っただろう。

とはいえ陸雲は特にそれに対して怒りもせず、苦笑と共に回答を用意してくれた。

「ええと……御庭番の方には遠く及びませんが、私の軒猿なら数名ほど。そうですね……私や菖蒲殿と年近い、桐隠を付けましょう」
「おっ、『きりがくれ』って……忍びとしては良い名前じゃん。あの霧隠才蔵から名を取ったのかねー、親御さん」

睡蓮は気のない返答をして、くるりと菖蒲たちから背を向けた。

いつも適当で、ゲーム片手間に菖蒲の護衛をしている男だけれど……なんだかんだ、桜良の命に背くことはない人間だ。それが、桜良の言いつけを破ってでも、行かなければいけない場所がある。

――ある御庭番だった者を、埋葬してやる墓へ。

思い出すだけでも嫌になる。御庭番……とは言うものの、殺されたのは見習いの少年だ。年は……十四だったか。ちょうど、どこぞの良家の若様に仕え始める頃合いの、何も知らぬ忍者の卵。

そんなものを殺して、なんの意味もないはず。あるのは不快感だけだ。忍びは刀――という言に全面同意する睡蓮でさえ、意味のない殺人は極力避けたいと思うのだ。子供を殺すなど、なおのこと。

「……」
「……ん、」
「…………」
「……睡蓮!」
「えっ? あ、なんすか菖蒲様……? 俺、マジで行かないと遅れるんですけど」
「君、……お葬式に行くなら、お花を持って行ってあげなよ」
「……、花……」

葬式なんて。そんな大層なもの、忍びに用意される訳もない。ただ遺体を焼いて、骨を土に埋めるだけ。そんなことも知らないお武家様は、いつ用意したのか分からない、菊の花束を持って立っていた。

むかつく……と思えたら、どんなに楽だっただろう。当てつけるには、彼はあまりにも自分に優しくしてくれていた。刀の心を本気で案じてくれる、奇特な子供だった。

「――睡蓮。僕のことを見て貰えるかな」
「はい? ……見てますけど」
「君が守ってくれているおかげで、生きている者もいる……それを思い出してほしいな。なんだか睡蓮、今にも消えちゃいそうな顔で……心配なんだ」
「……顔なんて、マスクで見えてないでしょうに」
「ああ言えばこう言う……ふふ、でも君らしいね。ちょっと調子が戻ってきたようで良かったよ」

はい、と菊の花を手渡される。ふわりと鼻腔を抜けた花の香は、なんだか慣れない。鉄臭さとは無縁の、柔らかな匂い。

どこまでも菖蒲と自身の違いを思い知らされる。けれど同時に、己が守るべき人々の清廉さが分かる、鮮やかな匂いだった。



「よぉ、色男。花束なんざ抱えてどうした。良い人でも出来たか?」
「残念ながら……良い人は俺じゃなく、こいつに花束を贈ったんですよ」
「そうかよ」

少年のような掌が、睡蓮の持つ花束から菊を一本抜いた。そのまま、菊の花を盛り土の上にそっと落とす。二区の兵どもの総大将に手向けを貰えたことだけが、不幸な彼にとって唯一の幸運だったかもしれないな……と、睡蓮はぼんやり思った。

「……此度の件、きな臭え。そう思ってんだろ、お前さんも」
「……忍び如きが差し出がましく意見をしてよいのなら、申し上げたいことが」
「おう、言ってみな。俺ぁこんな成りだが、魂だけは老成してるんでな。若いのみたいにいきなりブチ切れたりしねぇから、安心してくれや」

主君と同じ桜色の瞳が、穏やかに睡蓮を見つめた。

普段から彼の纏っている軍服……というより学ランのような衣は、墓場においては喪服のように映る。口調は、春組の血筋らしからぬ荒々しさがあるものの、語る言葉は凪いでいる。まさしく子供の可愛らしい顔だが、表情は老成した勇士のそれだ。

何もかも矛盾しているような男――けれど、二区のすべての兵に、その一本気な魂を慕われる彼。

御三家が一つ、尾張家が当主。

尾張葵が――睡蓮に、刀に、語ることを要請している。ならばこの迷いごと、すべて総大将に託すのが筋だろう。声色こそ普段通りに、しかし心は張りつめたまま、睡蓮は葵の目を見据えた。

「殺された御庭番見習いは、切り傷が原因で死にました。そして、その切り傷を見てみたところ……同業の切り方であることが分かりまして」
「同業……っつーと、忍びの仕業か」
「ええ。……しかも、暗殺の任において俺たちの取る手法と、同じ殺し方でね」
「まさか、抜け忍でも出たか?」

葵がそう推測するのも当然だ。しかし、睡蓮はゆっくりと首を横に振った。

「翌日、御庭番で点呼を取ったのですが……殺された奴以外は、全員居ました」
「そうか、んじゃ抜け忍じゃねえな。御庭番に罪を擦り付けようとした、他所の軒猿の仕業かねぇ」
「それも考えました。……ここからは俺の推測なのですが」
「聞かせてくれ」

葵は手持ち無沙汰なのか、菊の花をもう一本取った。ポケットに飾ったり刀の飾りにならないか模索している彼に、睡蓮は続きを聞かせる。

「抜け忍は居ませんが、行方不明者ならいます。……先の大火で、何人か」
「ほう。御庭番ともあろう者が、狐ならぬ亡霊につままれたって訳か」
「恥ずかしながら。そして……菖蒲様が、先日何者かに刺された。この二点が、思わぬ形で繋がりまして。
実は……行方不明者の中には、幼い菖蒲様のお付きをやっていた者が居ます」
「その亡霊の、名は?」

菊の花が、ぐしゃりと手の中で潰される。
幼い目の中に、鬼神が宿っているかのようだ。葵のこの雰囲気は、さすがの睡蓮でもいつも気が滅入りそうになってしまう。

「――薊、と」

春のつむじ風が、墓場の中を駆け抜けた。風は睡蓮の持っていた花束を揺らし、葵の手のひらから菊の花びらを攫っていく。美しい黄色の花びらのなかに、葵は静かに立ったまま「……ふむ」と呟いた。

「どうしたもんかね。自慢じゃないが、俺は御三家の中じゃいっとう頭が悪いんだが……どうも俺っちが一番最初に、とんでもねえ情報を掴んじまった気がするぜ」
「……薊を、処罰しますか」
「バカ言え。あいつはとっくの昔に、この区の法では死人だろ。抜け忍として処理もできねぇ。ま、ぶっ殺せば話が速いのは俺も分かるけどよぉ……勝手にそんなことしたら、三葉がうるせえんだわ」
「では、どうなさるおつもりで?」
「決まってらぁ。おびき出して、ひっ捕らえろ」

即答だった。葵は、それが当然であるかのように睡蓮に告げた。

「刀に善悪はねぇから、裁いたってしょうがねぇ。あるのは、使い手の善悪だけだ。どんな名刀でも、悪人が持ったら妖刀になっちまう。薊の奴は、いま悪人が持ってるらしいからなぁ……ここは一丁、刀狩りをしようじゃねぇか」
「狩った後は……」

どうするのですか、と聞きかけた自分にびっくりする。今まで、与えられた仕事の意義とか意味とか、その後とか、考えようともしなかった。何を言ってるんだ、と自分を心のうちで叱責する。葵は、一瞬目を細めて睡蓮に向かって笑った。この動揺は、彼に見抜かれている。

「刀の処分は、刀の主に決めさせる。それが筋ってもんだ」

また一本、菊の花が抜かれる。無造作にそれは宙に放られて、次の瞬間葵の持っている刀が三度翻った。一度目は茎と花を断ち、二度目は衝撃に散った花びらを数枚の裂いて、三度目は、頭だけになった菊の花を真っ二つに割る。

音もせず、菊の花は土へ落ちた。椿より、なお縁起の悪い格好に変わり果てて。

「――ま、普通のお武家様じゃあ、十中八九『こう』するだろうが」
「……そうですね」
「薊の主は、果たして誰なんだろうなぁ?」
「え……桜良様か、上様では……」
「それなら、死刑だ」

含みのある言と共に、刀を鞘に納めた葵がにやりと笑った。何故笑うのか、普通の人間だったなら訝しむ表情を隠すことが出来なかっただろう。だが睡蓮は、真顔のままで葵を見つめた。何故笑うの、なんて聞いて良いのは人だけだと思うから。

「喜べよ、睡蓮。多分ありゃあ、薬研通しの類だぜ」
「……薬研通し……?」
「ああ、知らねぇか。ま、興味があるなら調べてくれや」

そう言って、葵は踵を返して去っていった。彼の小さく、何よりも強大に映る背を見送ってから、睡蓮は大きく息を吐いた。

「……はぁ」

総大将とも呼べる人に動揺した姿を見せたなんて、御庭番頭領として……以前に、忍びとして恥だった。菖蒲が刺されて、薊という一つの亡霊を見出して、それからずっと調子が良くない。

「薬研通し、か。……面倒くせぇけど、調べねぇと後が怖いな」

ぽつりと呟いて、気疲れに思わず俯く。地面に無残に散った菊の花びら。これが薊の未来と言われても、まったく驚きはしない。しないけれど……空しく思う自分が居た。

「……つーか菖蒲様に、なんて説明すんだよ……」

葵に好き勝手抜かれた菊の花束を見て、不意に菖蒲のことを思い出した。知りもしない刀が折れただけなのに、こんなご大層なものを用意してくれた彼。誰より何よりよく知る刀に裏切られたと知ったら、彼はどうするだろう。葵がしたように、切り裂かれればいいと思うのだろうか。

そりゃねえな、と睡蓮は一人苦笑して軽く首を横に振った。あの人は下手をすると、刺されたことより、薊が生きていたことに重きを置いてしまいそうだ。そしてそんな彼だからこそ、桜良は睡蓮を付けたのだろう。

情に流されない、忍び/刀として。

「……あー畜生、良い匂いだな」

花束に顔を寄せ、朝方に感じたあの匂いを肺いっぱいに吸い込む。

花の香りのする人。花の似合う、日向の人。人間らしく生きている人。その姿が羨ましいのか、憧れているのか、睡蓮には分からなかった。分からないままの方が、刀らしくて良い。だから、判断は永遠に付かないだろうけど。

「あー……だりぃけど、仕事に戻るか」

ソシャゲ片手間に護衛して。ちょっと呆れ顔で自分をちらりと見てくる菖蒲を観察しつつ、「彼は平和に過ごしています」と桜良に報告する……普段とは違う、非日常な日常へ。

彼がもう二度と、鉄の匂いを纏うことがないように。慣れている匂いだけれど、彼の匂いは花がいいと、強く思うから。

「……じゃあな。お前を殺した奴は必ず引きずり出すから、ゆっくり眠ってくれ」

睡蓮もまた、一本だけ菊の花を抜いた。そして残りは、ようやく墓の主へ受け渡される。

身寄りのない忍びが眠る共同墓地に、花が添えられる様は珍しい。灰色の世界に、場違いに温かな色をした黄色が輝いていた。



「睡蓮、案外早く帰ってきたんだね。君のことだから、用事が終わったらゲームセンターかコメダ珈琲にでも行ってるかと思ったよ」
「いやー、俺マジメなんでぇー、桜良様の命令に背いちゃってる状態が続いちゃヤベーなって思って、直帰ですよ直帰。偉くない?」
「はいはい、偉い偉い」

呆れた声で菖蒲が適当な返事を返す。彼の腕の中には、溢れんばかりの花々が収まっていた。そして彼の隣を歩く睡蓮は、左手に似たような花束を一つ抱えている。

「いや〜、しかし菖蒲様、まさか菊の花を陸雲様の家で貰ってたとは……道理で菖蒲様が花を買ってた記憶がないわけだ」
「君が昨夜『お葬式に行く』って教えてくれたからね。陸雲の家は、いっぱいお花を植えてるから、昨日のうちに菊を分けてもらえないか打診しておいたんだ」
「なんか、気ィ遣わせてすいません。でも帰りにまで持たせてくれるって、すごいですねぇ」
「兄さんも花が好きだから、これで歌を詠んでもらおうかなって」
「三葉様は和歌の名人ですもんね。しっかし、これなんか枝ごとくれてますし」

睡蓮はひらひらと枝を振った。ピンク色の花は、甘い匂いを振りまいてくる。

「桃の花だからね。あとは薔薇と、牡丹と……」
「また菊……そういや、菊って他人にあげるイメージないですね」
「八区では、菊は友人に渡す花なんですよ……って彼が言ってたよ。二区じゃお葬式のイメージあるけど、やっぱり土地によって変わるものだね。面白いよ」

菖蒲が心底楽しそうに睡蓮へと笑いかけた。ちょうど睡蓮の目線からだと、溢れんばかりの花と笑顔が一緒に映る。それを見ると、先刻の自分がいかに的を得たことを思っていたか確信できた。

「あ……」
「はい? どうしましたか」
「ねぇ、いま君、笑った?」
「え? まさかぁ〜。ガチャで星5出たときくらいしか笑いませんよ、俺」
「それもどうなの……? うーん、でもそうかぁ。睡蓮、口元が隠れてるから笑ってるのか怒ってるのか分かんないけどさ……今はなんだか、笑ったなって思ったのに。ちぇ、気のせいか」

ちょっと唇を尖らせて拗ねたふりをした後、菖蒲はまた微笑んで、腕の中の花に顔を寄せて睡蓮を見ていた。「いくら見ても笑いませんよ」と睡蓮は彼をあしらったし、笑いはしなかった。

……が。今後花を見る度にこの人を思い出しそうな予感がして、どうにもむず痒い気持ちがした。