「abeo!」
全く聞いたことない言語体系の呪文。菖蒲が該当しうる魔術系統を推測する暇もなく、次の瞬間二人の身体はその場から消えた。瞬きする間もなく、違う場所へと転移していたのが分かったのは、街路にあるはずもない暖炉がチロチロとオレンジ色の火を燃やしているのが見えたからだ。
見える光はそれだけで、電気らしきものは見当たらない。薄暗い部屋だった。少なくとも、ここが三区ではないことだけは自明の理。
呆気に取られている菖蒲を一切気にせず、青い髪の青年は菖蒲をポイっと空中に放り投げた。床に激突すると思ってきつく目を瞑ったが、衝撃は来なかった。その代わり、ふわりとした感触が体を包み、お尻が柔らかな物質に沈み込む。恐る恐る目を開けると……いつの間にか、菖蒲と青い髪の青年の両方が、ソファに鎮座していたのだった。
「――寒くはありませんか? この区は、三区や二区に比べてはるかに気温が低いですからね。後でホットミルクでも出してさしあげましょう」
「え、えぇと……だ、大丈夫です。いりません」
「おや。毒の心配をなさっているのですか? それともミルクはお嫌いかな」
そう言いながら、青年はコートの袖からスッと何かを取り出した。棒――いや、あれは杖か。黒手袋に包まれた長い指先が、その短い杖をすっと振るった。
「inflamarae-点火せよ-」
また何か彼が呟いたとたん、パッと部屋が一段階明るくなる。見れば壁には何本もの蝋燭が取り付けられてあり、それが一斉に点火したのだろう、と予想は出来た。
しかし――彼は、菖蒲と同じ魔法を使っていない。『CODE:』で始まる、世界都市共通の魔術体系ではない、怪しい魔法を使う……誘拐犯。その前に座っている自分がピンチなのに変わりはなかった。
「――ろうそくを付けてしまったからね。可愛らしいお顔も、警戒心丸出しの表情も――すべて露わになってしまいますよ、少年?」
「……」
可愛いと菖蒲を褒めて笑った青年は、とても美しい顔をしていた。暗闇の中でギラギラと光っていた金色の瞳は、今は暖炉の火に照らされてやや赤みが強くなっていた。それに反して青色の髪はどこまでも涼やかで、ハーフアップがとてつもなく似合っている。髪留めは逆さ十字にされており、思わず脳裏に『悪魔』の二文字が過ぎった。……どれほど美しくても、今の菖蒲には見惚れるほど心に余裕がない。
彼は誰なのだ。知らない人間であることは確かで、私怨による誘拐・監禁とは考えにくい。しかし、ただの愉快犯と結論付けるにはあまりにも――手際が良すぎる。菖蒲は、誰にも助けを求めるタイミングもなく、本当に比喩抜きで『一瞬のうちに』連れ攫われてしまったのだから。
となれば、身代金でも要求するのだろうか。――菖蒲と姐の鉄乃にはそんな余裕はないが、例えば――殊更菖蒲への関心が強い桜良を狙いとしているなら――実に理にかなった誘拐である。
「――いいえ」
しかし、眼前の青年は首を横に振った。
「それはあり得ませんよ。私自身は、犯罪への嗜好などない。金は将軍家を脅さずとも手に入ります。よってその推測は無意味、と断言致しましょう」
「は、えっ……? な、なんで……君は、いったい何の魔法を……」
「――ああ、それで怯えていたのですか? 世間知らずで可愛い子……いいことをしてあげましょう」
彼の指が再び杖に這って、ぎらりと金色の目が輝いた。それはちょうど、ユーリューと初めて出会った時の目とよく似ていて、背筋に冷たいものが走る。本能が警鐘を打ち鳴らすのに従って、心の中だけで叫んでしまう。いやだ、殺される――!
「inperium-支配せよ-」
彼の甘く冷たい囁きと共に、杖が僅かに発光する。その光が散ったとき、急に手足が『重くなった』。なに、と声を漏らそうとして失敗する。いや、失敗したのではない――口が開かなかったのだ!
「菖蒲、ご挨拶がまだでしたね。私は――ホリゾンという者です。そして、今ご招待しているこの部屋は……十区のどこかにあるフラットの一室ですよ。かの有名な221Bも近くにある……かもしれませんね?」
「……?」
「推理小説はご存知ないですか。これは失礼、気にしないでください。ともあれ……ここは十区ですから、この杖に怯えないで下さい――ということです」
十区。
確か……ムツキの母親が、十区出身だと聞いたことがある。彼から聞いた街の様子は、こうだ。
『十八世紀のロンドンから時間が止まってるような外観。移動は魔術で強化した馬車や飛竜に引かせた飛行車両、魔術で石炭を放り込み続ける24時間動く蒸気機関車。液晶の類は街路にはなく、動画のように写真が動く新聞記事がソレの代わり。街を歩いている人々は皆フォーマルな格好が多く、よそ者はすぐ分かる。なぜならよそ者は――杖を持っていないから』
杖を持っていないから。……そう、確かムツキはそんなことを言っていた。
「十区はもともと、非常に魔術への造詣が深い国家がベースになっておりましてね。世界都市の機関が出来るより前に、独自の魔術系統と、ついでに魔術への誇りを持っていたのです。ですから、十区の魔法使いは【CODE】を使わない。――さぁ、『此方へ来い』」
何かが床に落ちる音がした。菖蒲を囲っていた毛布は剥がれ、冷たい空気に体が晒される。寒い。暖炉の火は煌々と輝いているのに、それでも寒さが体に沁みた。毛布を拾い上げたくても、脚が勝手に青年の方へ向かって歩いていく。自分の靴が毛布を踏みつけたのが分かった。
「inperium-支配せよ-――ほら、さっきの言葉がそのまま魔術になっているのですよ。一々【CODE】と出力数値を決めなくて済むので、貴方たちの物より幾分かは高等な魔術系統かもしれません。――まあ、杖がないと魔法が使えないのは大問題ですが」
そのまま青年の前にたどり着いた菖蒲に、『座れ』という新たな命令が下る。嫌だと拒否することさえできず、菖蒲は行儀よく青年の隣に座らされてしまった。
「……効果のほどはご理解頂けましたか? これは怪しい魔術ではなく、お国柄ならぬ区柄……というやつです」
「…………」
「あぁ、喋れなかったのを忘れていました。さ、では声だけ解放してあげましょう」
ホリゾンがまた杖を少し振る。それを見て、菖蒲はすうっと息を吸いこんで叫んだ。
「【CODE:stun(8…】――」
「ligatur-縛り付けよ-」
「っ!?」
突然、さきほど菖蒲が踏んづけた毛布が何回も切断される。切り刻まれた一欠けらがものすごい勢いで飛来して、菖蒲の口元をさっと覆ってしまった。依然、手足の支配も終わっていない。
「あなた方の魔術では、一生かかっても先手は取れませんよ。でも大丈夫、恐ろしいことは何にもありません――良い子にしていればね」
「んんーっ! んうっ!」
「静かに。さて……早速ですが菖蒲、貴方の聖遺物をお借りしたいのです。その為に貴方をここへ連れてきたという訳です。残念ですが、私の好みだから誘拐した――という訳ではない」
何が残念ですが、だ。菖蒲にとっては万々歳である。少なくとも彼は性犯罪者ではないと分かっただけでも恩の字だ。ジトっとした目で変なことを言う青年を睨み上げると、金色の目がすうっと細くなった。
「ふふ。菖蒲、性犯罪者なんて酷いことを言わないでくださいよ。同じ『三種の神器』なのだから、もう少し優しく扱ってほしいものです」
(え? いま、三種の神器って――)
「そう、三種の神器。私は鏡です。あの剣の少年同様に……私もまた、貴方の魔力への接続権利がある」
「――!」
魔力への接続権利。それはたぶん、菖蒲は彼へも魔力を供給できるという意味だ。
でも、さすがに自分の身体のことくらい分かる。――この身体は、初めからユーリュー以外への魔力回路はない。
つまり、青年が菖蒲の『無限に魔力が供給できる』という性質を利用しようというのなら――。
「菖蒲。少し協力してほしいことがあるのです……」
ぱさりと、今度は黒手袋が床に落ちる番だった。出てきた指は雪のように白く、菖蒲の頬に、首筋に、腹に、脚に……あらゆる場所に触れてもなお、氷のように冷たかった。
「――大丈夫です。良い子にしていれば、怖いことなど何もないと言ったでしょう? ほら、」
口元の布がずらされる。いつの間にかまた声どころか口を動かす権利すら奪われて、あまりにも近づきすぎた青年との距離に悲鳴を上げることが出来ない。
「『口を開けろ』」
僅かに唇が開かれた瞬間、ひんやりとした温度が唇に触れた。そのまま咥内に何かが侵入してきて、ぐっと菖蒲の舌を押しこんでくる。何をされているのか全く理解できず、菖蒲はただ目を見開くことしか出来ない。
(あつい……)
この人の舌だ。こんなに冷たい身体でも、さすがに舌くらいは相応の温度を持っているらしい。青年の舌が、わざとらしく菖蒲の口の中を嬲っているのが分かる。時々ぞわりとするけれど、嫌悪とは全然違う感覚だった。体の奥がじんわりと温かくなって、段々と頭がぼーっとしてくる。これはキス……なのだろうか、と菖蒲は疑った。何かが深い所で繋がっていくような快楽、いっそ安堵すら覚えるような体温の交わり。これはキスなんかじゃないような気がした。
思考が纏まらなくなっていく中で、ふいに唇が離される。また十区式の魔術で心でも読んだのか知らないが、青年が菖蒲をじっと見て微かに笑った。
「――中々どうして、子供は侮れないものですね。もう喋っていいですよ」
今このタイミングで体の自由を与えられるのは困る。しかし魔術はすぐに解かれて、その瞬間菖蒲は膝から崩れ落ちてしまった。さっきのキスのせいか、腰が抜けてしまったらしい。おまけに声も出るようになったせいか、荒れた呼吸と弱り切ったような喘ぎが零れ落ちてしまう。
「は、ふっ……は、ぁ……?」
「ご名答です、菖蒲。これはただのキスではない。……貴方と私の間に、仮の回路を繋いだのですよ。これでしばらく、貴方は私の魔力補充係という訳です」
座り込んだ菖蒲の前に、彼がしゃがみ込む。弱弱しく息を吸っては吐く唇に、ホリゾンはもう一度口づけた。今度こそは普通のキスだったが、触れる度に魔力が僅かに持っていかれるのが分かる。魔力の一滴まで逃さぬとばかりに、彼の舌が菖蒲の唇を軽く舐めとったところで、菖蒲はついに意識を手放した。多分、現実逃避であった。