Record:0.9 ハロー、グッドモーニング






『──■■』
「……ねっむ、」

知らない鳥の鳴き声を目覚まし時計の代わりにする、とか、童話の主人公みたい。
夢を見ていた気もするけど──案の定記憶は混濁したまま。
いくら考えても思い出せない、と分かった以上思考するのは賢明ではないと気付いてからけっこう経つ。

ぼやけた視界に飛び込んでくるのは真新しいキャリーバッグと一世代前の端末。朔間大先輩に貸与された品々である。
……設定していたアラームが鳴るまであと数分あるけど、二度寝に耽ったところで遅刻するのがオチだろう。

ベッドのそばに置いていたスポーツドリンクを飲み干して背伸びをする。
カーテンを開いて、日光浴。超最高。
遠くには雲が見えるので、天気が良いのは今だけなんだろうけど。

「いい朝だ〜……」

窓から臨むは異国の地。
映画の中に飛び込んでしまったかのような世界が、眼前に広がっている。



***



「朔間さん、お疲れ様」

雨雲の覆う空を一瞥もせず、鹿矢は平然と笑っていた。

「早く片付いてよかったね」
「まぁな」

『この一年近くで』海外へ出向くこともあったのだろう。
未来の鹿矢を名乗るそいつは流暢に外国語を扱いながら、俺に同行している。

――もちろん無理やりではなく、自発的に。
あの晩、学院に一人置いていくのも憚られて適当なホテルに押し込んでやったのを恩に感じたらしい彼女は翌日通学路に現れて、少しでも自分にできることがあればと俺のサポートを買って出たのだ。

『一宿一飯の恩返し。させてください』

断る理由もとくに無かったので勝手にさせているが――交渉や事務処理なんかもお手の物。
異言語に臆することもなく穏やかにこうして隣を歩く彼女は格段にスキルアップ済みで、今の鹿矢が見たら腰を抜かすだろうなと思うほどには手練れている。
完全無欠とまではいかないが、“なんでもできる鹿矢”は上手くやれと言えばその倍上手くやったし、疲れのひとつも見せずに諸々の処理をさらりとやってのけてみせた。

よかったよかった。自己肯定感が底辺のくせにプライドは高いからどうなるかと若干心配ではあったけど――将来有望だぞ、鹿矢ちゃん。

「……どっかの誰かさんが色々手伝ってくれたからな、今晩は奮発してやる。行きたい店あるんだろ」
「えっ、やった!じゃあ早速予約しないと。地元でも人気らしいんだよね」

鹿矢はご機嫌な様子で端末を取り出して、スムーズに画面を遷移させていく。
……なるほど。俺が言わなくてもおねだりするつもりだったなこいつ。海外に慣れた雰囲気ではあるが行く先々で目を輝かせているあたり、興味が尽きることはないらしい。
六時にホテルのエントランスで!と約束を取り付けた彼女はもうすでにそわそわしている。

「あ、でも。朔間さんが蜻蛉返りしなくて済むように一応フォローだけ入れておくから、先に戻っててよ」
「はいはい。今回も上手くやれよ〜」
「うん。任せて」

適当に任せただけなのに、満足そうに笑う理由はよく分からないが。

やりたいようにやれるだけの実力がある。
たとえば遺恨があろうものなら過去の自分に成り代わって、瞬く間に解決してしまうのも可能だっただろう。けれど。

「……俺が気にすることでもね〜けどさ。本当に夢ノ咲に顔出さなくていいのか」
「前にも言ったけど、私が二人いたら事故るでしょ。余計なことしちゃうかもしれないし。せっかく過去の世界に来たのに何が起こるとか覚えてないのって、すごい不利なんだから」
「不利って。おまえは魔王を倒すために派遣された勇者かよ」

こいつには、致命的な弱点が存在する。
未来から訪れたのなら最大のアドバンテージとなるはずだった『記憶』を綺麗さっぱり失っていたのだ。

懐かしさを感じはするけれど自分が三年生だということ以外は分からない。
“どれだけ”先から来たのか分からない。
どういう道筋を辿って『未来』を迎えたのかすら曖昧で、思い出そうにも靄がかかって八方塞がりらしい。
……俺の呼び方は『朔間先輩』から『朔間さん』へ変わっているし、敬語が抜けているから何かしら変化はあったのだろうが。

「どうせそんな大それたものじゃないよ……。神さまっぽいのがいるなら記憶もすぐ戻してくれただろうし。討伐どころか魔王さまのお供やってるんだからね」
「はっ。嫌なら他所当たれよ。色々できるなら無理に俺についてくる必要もね〜だろ」
「嫌ならとっくにやめてるよ」

記憶の復旧は半ば諦めている節もあるが、鹿矢は“まじめ”部分を燻らせて俺への恩返しとやらに勤しんでいる。
それが心地良いと感じているあたり俺も毒されているのかもしれない。

「……まぁ、腹括ったんなら口出しはしね〜けどさ。本当に嫌になったら言えよ。世話焼いてくれた礼に居所のひとつやふたつくらい適当に用意してやるから」
「……」
「……鹿矢?」
「…………もう聞き飽きた。その意地悪」
「……あ〜。悪かったって。顔上げろよ」

そうだった。こいつにその手の話はタブーだ。
以前に話した時もこうしてヘソを曲げたんだっけか。……気づいた時にはもう遅く、鹿矢は俯いて肩を震わせている。

仕方ねぇな、と屈んで覗き込んでやれば──泣き顔、ではなく。上機嫌に口角を釣り上げた鹿矢が俺を待ち構えていた。

「ふふ。騙されましたね」
「……、俺様ちゃんを騙すとは良い度胸だな。鹿矢ちゃん?」
「いっ、嫌なこと言われたから仕返しです〜。そして逃げるが勝ち!」

じゃあ行ってくるねー、とひらひらと手を振って校舎へ消えていく彼女を見送って空を仰ぐ。
逃げるも何も、俺のところに戻って来るんだろうが。後先考えずに突っ走るのは変わっていないらしい。つまるところそれが彼女の本質なのだろう。

「(それにしても。さすがに何も思い出せねぇのは同情するっつ〜か)」

覚えていないから当然ではあるのだが、すべての行動原理だった奴らの名前が一言も出ないことには違和感しかない。

……風の噂じゃ『チェス』は大分裂を起こして――“鹿矢”は本流とは異なる『Knights』についていったのだとか。
漏れ聞こえる噂も信憑性が低いからどこまで本当なのか定かではないが、恐らく彼女にとっても良い知らせではない。

『妻瀬鹿矢』にとっての明らかなターニングポイントだ。
記憶を掘り起こすきっかけになるかもしれない。まだ、伝えてもいないけど。伝えるつもりも、今のところはない。

鹿矢の駆ける先に『Knights』は居ない。
俺だけが、視界を独占している。





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