Record:0.8 愛を謳う歌




意識が、覚醒する。
なにをしていたんだっけ……なぜかまったく思い出せない。ぼうっとする頭を覚醒させようと記憶を手繰り寄せても靄がかかったようで何も出てこない。
取り敢えず、と辺りを見回せば見慣れた景色が広がっている。

此処は音楽室なのだと理解して、なんの迷いもなく目の前にあるそれに手をかける。
途端、ぬっと突然湧き出た誰かの気配に思わず声を上げた。

「妻瀬?」
「せ、瀬名」

ほぼ同時に互いの名を呼んで、瞬き。
ぽかんと口を開けている様に息を呑む。

「ど、どうしたの。珍しいね、こんな時間に」
「……あんたこそ、此処で何してるの。下校時間はとっくに過ぎてるでしょ」
「ええと……その」

動揺してばくばくと飛び出してしまいそうな心臓を抑えて、小さく息を吸う。
遅い時間に会うのが珍しいというだけでなんともないけど。続く言葉を想像して――現状をなんとなく『把握』して、失いかけた酸素を必死に取り込んだ。

「……作曲。もう少しでどうにか形になりそうだから。まぁ難航してるんだけどさ」

月光に照らされた彼女は一年前の姿で、一年前の、笑い方をしている。




***




『見てらんないから、手伝ってあげる』

口を突いて出た言葉はかつてかけることのなかったもの。かける余裕も無かった、というのが正しいが――唖然としたのちに目を輝かせて俺の手を取って嬉しそうにするものだから、引くに引けなくなっただけ。

「……ここ、もっと抑揚をつけてみれば」
「な、なるほど……?」

作曲においては何の知識もないし初心者だけど『Knights』の曲の手伝いなんだからいいでしょ。どうせ俺たちが歌うんだし、むしろ感謝してほしいくらい。
そう言う前に「ありがとう」と笑うものだから軽くあしらって、拙いピアノ音に耳を傾ける。

百歩譲って即興の子守唄にしても下手くそで、けれどどこか陽気な音楽に胸が躍る。
暗がりには似合わない曲を奏でる彼女はどこか楽しそうだ。

「(…………はぁ。なんなんだか、これ)」

鍵盤と向かい合っているのは一年前の妻瀬。
季節は春、らしい。
つまりこの――俺が見ている『夢』っぽいものは二年生の頃の、『Knights』が出来立ての頃の光景を映し出している。

「ねぇねぇ、こんな感じでどうかな」
「……ん。悪くない。さっきよりはマシになったんじゃないの」
「やった!瀬名のお墨付きなら自信持てるよ」

揺れる髪の毛は見慣れた姿より短くて――その表情と声色も少しばかり幼い。

ぬるま湯に足を突っ込んでいるような、抜け出せない感覚。
心地良いのは足元だけで身体は寒さに凍えている。……暖かいのに冷たい。奇妙な居心地の悪さが沁みていく。

「(俺はこんな妻瀬を知らない。夢なら、これは妄想なの?俺たちが帰ったあとで居残って戦略を練って作曲して……って、やけにリアルだけど)」

色んな肩書きを付ける前の『Knights』だけに心血を注ぐ妻瀬鹿矢。
純粋で歪な思い出の残滓。その一端を夢に見るなんて相当疲れているのだろう。

『夢』と知覚しようものならすぐに醒めるのが『夢』らしくもあるけれど、一向に醒める気配はなく時計の針は慎重に秒針を揺らし続けている。
まぁそういう変わり種があるにはあるのかも。
起きたときに覚えていたらくまくんに聞いてみようかなと悠長に思考していると――音がすとんと外れて、あっ、と声が漏れた。

「はい、初めからやり直し〜。……明日明後日は遅くまで残れないから今日のうちに大枠は完成させるんでしょ。集中しなよねぇ?」
「悔しい〜!あとちょっとだったのに!」
「調子に乗るからだよ。ほら、もう一回」
「う、うう…………せっかく瀬名が文句の一つも言わずに夜中まで付き合ってくれてるんだし、きちんと完成させないととは思ってるんだけど……瀬名のスパルタ、鬼……ツノが見える〜……」
「なんだって?」
「なんでもないですー」

不服そうな呟きにぎろりと睨めば逃げるように視線を逸らす。これがスパルタとか二年妻瀬も甘いんだから。

でも、去年まではこんな感じだったんだっけ。
冬に復学した妻瀬は比較的素直に、従順になったっていうか、強めの言葉とかもあんまり吐かなくなった気がする。
目の前の妻瀬がただ単に幼いだけってのもあるんだろうけど、最後に言い合ったのはきっと――あいつが松葉杖を携えていた頃だ。

「(……そっか。まだ自分が怪我することも知らないんだよねぇ)」

夢とはいえ未来のことを口にすることは良くないだろうし、何よりきっと意味が無い。
だから教えてやることなんかしないし、こうして俺が妻瀬の作曲を手伝うのもなんにもならないんだけど。適当に流すにしては奇怪な夢だから付き合ってあげなくもないかなって――過去をやり直す機会だなんて上手い話では無いにしても。珍しく完遂することなく放棄した作曲に没頭する彼女を見られるのは、この夢限定だろうから。

『Knights』も、そして妻瀬自身にとっても散々な日々はこれから始まる。
舌打ちしそうになるのを堪えて窓の外を眺めれば、雲に隠れてしまった月が薄っすらと光を放っている。
すると再び、ポーン、と外れた音が虚しく響く。

「…………もう無理かもしれない……」
「……簡単じゃないのは初めから分かってたことでしょ。それにこの俺がわざわざアドバイスまでしてやってるんだから頑張りなよねぇ?俺やれおくんに聞かせるなら尚更」
「……瀬名は今聞いてない?」
「完成した時にって話。……俺はある程度見届けたら帰るから」
「えっ、ここまで口出ししたのに!?」

最後まで付き合ってよ!と懇願する妻瀬に喝を入れて息を吐く。
なんか調子狂うなぁ……やけにテンション高くない?こいつ。妻瀬ってこんなに元気だったっけ……。

れおくんに頼み込んで曲作りをしていた頃って学院も結構荒んでたっていうか、それこそ今の時期は『Knights』も連戦で疲弊していたし、良い雰囲気とは言い難かったように思う。
……空元気って様子でもないから嘘ではないのだろうけど。それとも、本気で嬉しいのだろうか。

「……最後の味付けくらい自分でしなよねぇ?これは正真正銘妻瀬の曲で、『Knights』の武器になるかもしれないんだから」

その曲は日の目を見ることはないのかもしれないけど。……仮に、万が一武器として振るったとしても、勝ち目はほぼ無いのが打ち当たる現実だろうし──なによりも【チェックメイト】を境に『Knights』は大転落する。
それを分かっていて背中を押すという行為は、やはりこの場限りの自己満足でしかない。

「特上の口説き文句だよ、それ。……うん。少しでも力になれるように頑張るよ」

だとしても。
俺の言葉を噛み締めるように目を細めてはにかむ妻瀬は、この上ないくらいに幸せそうだ。




***



目を逸らして置いてきてしまった後悔を抉るように、『夢』は途切れることなく続いた。

一日一日に実感があるだなんて異常でしかない。
翌日も、翌々日も――すぐに醒めると思い込んでいたものは終わることなく、日常のようにゆっくりと進んでいく。

「(………………ああもう、本当になんなのこれっ!夢じゃなかったわけぇ!?)」

いや、確かに『夢』ではあるのだが。
遠目にではあるものの過去の自分も目にしたし、此処は自分が生活を営んでいた時と異なることは分かりきったことで、この『夢』からどう脱出するかが当面の課題であることも明らかだった。

粗雑な管理体制につけこんでどうにか誤魔化して、空きのレッスン室なんかを寝床にしていたけど──数日も続けば気も滅入ってくるものだ。……だから気晴らしにと深夜の学院を徘徊してるんだけど。

「……?」

不意に、ピアノ音が聞こえて足を止めて、疲れを癒すには良いかもしれないと麻痺しかけた思考のままに腰を下ろす。
……綺麗な旋律。妻瀬のものとは大違いだ。
この先の音楽室で奏でられているのだろう。聞き覚えのあるもので、懐かしい、とすら感じてしまう。……あ、これってもしかして。

「……あれ、あんた」
「…………っ、」

音が途絶えて──不味い、と気付いた時には“音楽室の主”である彼はすでに俺を視界に捉えていた。
楽譜を携えた一年前のくまくんは少し不機嫌そうに見える。

外見こそあまり変わっていないものの温度を持たない視線が距離感だとかを物語っている。
出会ってそこまで経っていないから当たり前ではあるけれど。妻瀬とはまた違った感覚に眩暈がしそうだ。

「こんな時間になんの用〜?あんたの秘書ならさっき帰ったけど」
「……そう」
「否定しないんだ。……入れ違いだったねぇ、追いかければまだ間に合うんじゃない?」
「ううん。べつにいいよ、急ぎの用事ってわけでもないし」
「ふぅん……?」

まぁ俺には関係ないけどねぇ、とか――気怠げに言い放つくまくんに違和感を感じるのは散々妻瀬の世話を焼いてる彼に慣れてしまったのもあるのだろう。
どうしてそんな関係に落ち着いたのは知らないけど、べつにこの頃から仲が良かったというわけでもないらしい。

見透かすような赤色がじっとりと覗いている。
何かに納得したらしいくまくんは俺の肩に手を置いて、薄ら笑いを浮かべている。

「頼まれてた、【チェックメイト】だっけ……とにかく明日はきちんと顔を出すから。……って、あんたに言っても意味ないかなぁ」
「……はぁ?どういう意味」
「べつに〜。俺ももう帰るから、じゃあね」

──先輩、と。すれ違いざまに囁かれたそれにぞくりと背筋が凍る。
ひらひらと手を振りながら暗闇に消えていく彼が、こちらを振り返ることはなかった。




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