#29
 






「……本当に行くの?」
「うん。もう元気になったから」

ありがとね、とネクタイを整えて部屋の入り口で腕を組んでいる巴に視線を向ければ、紫色がちかりと光った。

「病み上がりなんだから無理だけはしないようにね」
「あはは……肝に銘じておきます」
「濁さないで。ぼくは怒ってるんだからね?」
「ご、ごめん」

――病院は嫌だという私の意思を汲んだ巴は、彼の家の所有する保養所へ連れてきてくれたらしい。
タクシーまでの記憶しかないけど。消耗し切っていたのか私はあっという間に意識を落としてしまって、目を覚ました時にはベッドの上だった。
部屋まで巴が運んでくれたのだと思うと、頭が上がらない。

数時間ほどの休息を経て仕事に支障をきたさない程度には回復したように思う。
寝れば良いってものでもないのだろうけど――実際それだけで頭はすっきりしたし、多少の怠さは残っているものの今朝よりずっと気分が良い。

今日何度目か分からないため息を吐く前に飲み込んで、巴のそばへと寄る。
視界に入るとしっかり休まないだろうからと取り上げられていた私の荷物は彼の肩に掛かっている。まだ、返してくれそうにはない。

「鹿矢は心も身体も、決して頑丈ではないからね。それをしっかり弁えておくべきだね」
「……無茶はしないつもりだよ」
「……倒れて数時間しか経っていないのに回復した気になって、今から仕事に行こうとしている子の言葉とは思えないけれど?」

彼の目に映る私は快調というわけでもないのだろう、巴は私の手を握って不安そうに眉を顰めている。

「まぁ、今更止めるつもりはないからね。……だからその辛気臭い顔はさっさと引っ込めて、笑うと良いね。曇り顔じゃ晴らせるものも晴らせないからね」

真逆の表情で紡がれる台詞は他の可能性の道へと誘うように注がれる。
いつかの凛月のような忠告、もしくは警告だ。

「そういう生き方を選んだのなら。……つらくても逃げるつもりがないのなら、精々貫くことだね」
「……もちろん。逃げないよ」
「…………」

肯定するように頷いて、いつものように笑ってみせる。
……都合よく受け取れば彼なりに背中を押してくれているのだと、思う。はっきりと口にはしないけど、無理にでも止めないということはそういうことだ。

つらくないわけがない。
身体は限界気味、精神もほどほどにやられ始めているし最後まで保たない自信すらある。
――でも。そんなの今に始まったことじゃない、ずっとそうだったでしょ。

理不尽のなかでも耐えられるくらい大切なものがあるからこそ、何を切り捨てでも進んできた。巴の言う『最高の悪夢』で我儘に踊り尽くしてやると啖呵を切ったのだ。
……本当はせめて、夏の間くらい目を逸らしていたかったけれど。不甲斐なさを悔いて、下を向いて慰められるのを待っていたいけど――顔を上げる。前を向く。

ずっと変わらないことだとしても目まぐるしい変化の中での“不変”は悪目立ちするというか、物憂げに私に視線を送る巴が体現しているように側から見れば素っ頓狂で、“良く”ない選択なのだろう。
それでも、引き返すという選択肢がこれまでに無かったように、愚直に突き進むことが唯一私に許された道だ。

「今日はありがとう。この恩は必ず返すよ」
「……ぼくが勝手にしたことだからべつに構わないけれど。恩に感じるのなら、今度ショッピングにでも付き合ってほしいね」
「それくらいお安い御用だよ。でも、巴忙しいんでしょ」
「まぁね。ぼくのスケジュールは分刻みで決まっているからね?」
「すごいね、さすが売れっ子だ」

……そんなに忙しいのに。今日の数時間を割いてくれたのだと思うと申し訳ない、と思うことこそ失礼なので繰り返し感謝の言葉を告げる。
いくら重ねたって足りないくらいだ。
折を見て誘うことにしよう。それがせめてもの謝礼になるのなら。

「……私、もう行かないと」
「うん」

彼の手のひらが、頬に触れる。
泣いていないのに涙を拭うように目元を撫でる指は暖かい。

「鹿矢」
「……なーに、巴」
「ふふっ。……なにも。きみの声が聞きたくなっただけ」

もっと聞いていたいけどお預けだね、と巴は名残惜しそうにカバンを私の肩にかけて、扉を開く。
夏の賑やかな虫の鳴き声に満たされた熱風が頬を撫でていく。
夢から現実世界へと舞い戻った心地だ。

「いってらっしゃい、鹿矢。頑張ってね」
「ありがと。頑張ってくるよ。巴もお仕事頑張ってね」

笑って、振り返らずに前を行く。

曇り空から突き抜けた線、雲から覗く太陽光。
行先を示すように地上を射抜くそれは近いようで遠い。
奥には晴天が広がっているように見えるけど、あちらは晴れているのだろうか。
大輪が咲く先は、雲一つ無い夜空が良い。




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