#30




夕日を飲み込み始めた水平線を眺めながら、滴る汗を拭う。
日傘もそろそろ役目を終える時間が近づいてきているのだけど、季節柄、そう簡単に手放すことはできない。

【スターマイン】は長丁場のライブだから通し稽古もそれなりの時間を要する。小刻みに休憩を挟みつつようやく後半戦に差し掛かって、夜の足音も近づいてきた。
昼間は不調だったセッちゃんも徐々に調子を取り戻しつつあるので、今晩のパフォーマンスに関して特段心配は要らないだろう。

鹿矢からの連絡は、お昼を境に途絶えている。
海の向こうへ行ってしまったわけでもないのに連絡のひとつもつかなければ嫌な想像をしてしまうのは、考えすぎなのかもしれないけど。
日も沈んできたのに憂鬱な気分は深みを増すばかりで最悪だ。

……重く伏せられた瞼を。廊下に投げ出された肢体からじわじわと広がっていく赤い血を、忘れたくても忘れられない。ぴくりとも動かない彼女を何度も夢に見る。
もうあんなのはごめんなのに。ううん、突き落とされるとか――そこまでの嫌悪とかは誰の入れ知恵か上手に回避してるから可能性は低いんだけど。……たとえば事故とか、なら。連絡がつかない理由も説明がつくかもって――。

「(……それなら先生に連絡が入ってるはずだし。さすがに悪いほうに考えすぎ)」

単に仕事が長引いているとか端末の充電が無くなったとかだろうと無理矢理に帰結させて。思考を振り払うように座り込めば、凛月ちゃん、と心配そうな声が肩を叩いた。

「大丈夫なの?休憩時間だからってあんまり遠くに行っちゃだめよ」
「ん〜、たそがれてただけだから大丈夫。……鹿矢から連絡あった?」
「……お昼のあれっきり音信不通のまま。仕事、押してるのかしらねェ」
「さすがに終わってそうだけど」

固定メッセージが再生されるだけかもしれないけど一応の希望を込めて、数コール。
案の定聞こえてくるのは無機質な音声で――俺の反応で悟ったらしいナッちゃんは小さくため息を吐く。

昼に話していた鹿矢の置かれている立場だとかを考えて、来ないかもとか、あまり良くない想像をしているのだろう。
まぁ――俺も人のことは言えないんだけど。

「……鹿矢が『Knights』の出演するライブに、来ないわけがないよ」
「……凛月ちゃん」

なんの根拠も無いもの。
でも俺にとってはそれなりの根拠を、願うみたいに不安ごと風に乗せて吐き出す。
呟いたそれは潮騒にかき消されてしまいそうだったけど、ナッちゃんは拾ってくれたらしい。

「だから、鹿矢はきっと来るよ。ナッちゃんも信じてあげて」

今日は鹿矢も居なければセッちゃんも絶不調だったから幾らか気を張っていたのだろう。
それが緩んだのかナッちゃんは呆れ気味に、けれど少し茶化すように笑っている。

「……。そうねェ、今日なんかやけに気合入ってたみたいだし、這ってでも来そう」
「うん。救急車すら拒むでしょ、鹿矢なら」
「それは素直に乗って欲しいけど。……凛月ちゃんってほんとに鹿矢ちゃんのこと信頼してるっていうか、大好きよねェ」
「…………まぁ否定はしないでおく」

それでも鹿矢が一番大好きで信頼してるのはセッちゃんだしなぁ――とはちょっと言いたくなくて、日傘を深く被る。光を溜め込んだ傘は生温かい。

……けど、俺も虚勢を口にして少しは気が晴れたのかも。
奥底で拭いきれていない色んな心配も実は杞憂に過ぎなくて、実はもう到着していてセッちゃんのほうに行ってるかもしれないし。
まだ休憩時間は残ってるけど戻ってみてもいいかも、と腰を上げようとしたところで。ナッちゃんの声が態とらしく降ってくる。

「――だってさ。そういうの・・・・・、『Knights』や泉ちゃんに対しては散々口にしてるのに。いざ受け取る側になると初心になっちゃって可愛いわねェ?鹿矢ちゃん♪」
「えっ、」

俺に向けられたものではない。誰か、後方の――もうひとりに宛てられたそれに心臓が飛び出そうな心地になる。
反射的に振り返れば、なんとも言えない表情で眉を下げた鹿矢が海風に吹かれていた。




***



自分が居ないところで自分がどう話されているのかなんて、知ったことではなかったというか――悪い話題ばかりが蔓延っていたせいで、気にすることを放棄したのはけっこう前のこと。

一割肯定、九割否定。量で言えば大体そんなところだろう。
その一割が私にとっては九割以上に嬉しくて尊いものだったから、大切に抱えてきた。
たとえなんてことない言葉だとしても、私にとっては代えようのない祝福そのもの。お守りのようなものだ。

ただ、“私が聞いていないことが前提の”言葉を耳にするとどう言葉を発したら良いのか分からないというのが本音で。
凛月だってそのつもりは無かったんだろうけど。大好きとか、信頼してる、を否定しなかった彼の言葉に脳みそがオーバーヒート気味というか。
たそがれる二人の姿を見つけて慌ててタクシーを降りた矢先の出来事で――聞き耳を立てるつもりは微塵もなかったのだけど。会話が終わったら声を掛けようとか、そう思っていたんだけど。タイミングを逃した上に、なるくんは私がいることに気付きながらも“二人での会話”を続けて、思いがけず凛月の言葉を聞いてしまったのである。

「…………なるくん。そのニヤケ顔は何」
「ウフフ。鹿矢ちゃんと凛月ちゃんの信頼関係がちょ〜っと微笑ましくなっただけよォ。……ともあれ、噂をすれば何とやらね。お疲れさま鹿矢ちゃん♪」
「……ありがと。なるくんもお疲れ様。ごめんね、遅くなっちゃって」
「いいのいいの、気にしないでちょうだい?」

アタシよりもこっちをお願い、となるくんは座り込んでいるまんまるの背中をぽんぽんと叩く。
火照る顔を冷ましながら言葉を放つ気配のない彼と視線を合わせるようにしゃがみ込めば、凛月はゆっくりと口を開いた。

「……鹿矢」
「り、凛月?」

あ。これは怒ってるっぽい。
怒気を含んだ声色に若干気圧されながらも謝ろうとした瞬間――飼い主に飛びつく犬のように勢い良く覆い被さってきた凛月は、ぎゅう、と私を抱きしめて、確かめるようにもう一度名前を呼ぶ。
……投げ出された日傘が少し可哀想だけど、悪い気はしない。
そんなに久しぶりってわけでもないのに、のし掛かる重さがなんだかとても懐かしく感じる。

「遅い。心配したんだけど〜……」
「……ごめんね」
「やだ。なんで嬉しそうなの」
「わかんない」

不貞腐れるように肩口に顔を埋める凛月を撫でてやれば、満更でもないみたいな表情がこちらを向く。
湧き出てくるよく分からない感情に、こっち見ないで、と抱き潰すみたいに頭を押し込めば不服そうな声が漏れ聞こえた。

しかしそれはそれで良いらしい、加えて車移動で冷えた身体はちょうど良い保冷剤なのだろう――私から離れる素振りはない。
居心地の良い体勢を見つけたのか心地良さそうに頬擦りをする彼の髪が風に揺られてさらさらと揺れている。
そんな見慣れた光景に心底安心して、思わず頬が緩む。

「……二人とも公衆の面前で大胆なんだから。微笑ましいのはそうなんだけど、泉ちゃんが見たらお説教どころじゃ済まされないわよォ?」
「これも甘やかす係のお仕事なの〜。鹿矢が冷たいから熱を分けてあげてるだけ。ね、鹿矢」
「あはは、ありがたくもらってます」
「ほんとに仲良しねェ、あんたたち……アタシがいるのに二人だけの世界に浸っちゃってさァ?」

泉ちゃんにも早いところ顔見せてあげてね、とウインクを残してなるくんは屋台のほうへと消えていく。
二人だけの世界という単語に若干恥ずかしくなってしまって手を離せば、凛月はのっそりと顔を上げた。

「……え〜、もうおしまい?」
「お、おしまい。……先生とあんずちゃんと、瀬名のところ行かなきゃだし」
「鹿矢は用事が多いなぁ……。ていうか、セッちゃんより先に会いに来てくれたんだ?」
「タクシーから見えたからね。やたら背格好の綺麗な金髪と日傘で、遠目でも誰だかすぐに分かったよ」
「なるほど。そういうこと」

じゃあちょっとは感謝してあげなくもないかも、と日傘を拾い上げた凛月は私に手を差し伸べる。
行き先は今晩彼らの立つステージだろう。

「あんずは『Trickstar』と屋台のほうに行っちゃったけど、先生とセッちゃんならステージの近くに居るはずだよ。行こう?」
「……うん」

もう手を握って歩かなければ迷子になってしまうようなちいさな子どもでもないけれど、躊躇なく差し伸べられた手を取る。
同じ歩調でゆっくりと――もっと急ぐべきなんだけど、無理をしないくらいの速さで。
美しい鼻歌を奏でる凛月とともに、逆光で、目を細めなければよく見えないステージへと足を進める。

「大丈夫。きっと怒ってなんかないよ」
「…………だと、いいなぁ。……えっ、なんで考えてることわかったの」
「ひみつ」




BACK
HOME