#32





「何かあったんでしょ」
「……あったよ」

隠すつもりはなかったのか、単刀直入に投げ掛ければ鹿矢はすぐに白状した。
セッちゃんの前での虚勢はどこへやら。バツの悪そうな表情で肩を落とす姿は悲壮感でいっぱいだ。

「概ね想像通りだと思う。ぶっ倒れちゃった」
「……やっぱり。相変わらず化粧でどうにかしようとしてたみたいだけどバレバレだったと思うよ」
「ははは。でしょうね……」

ちゃんと管理してたつもりではあったんだよ、と鹿矢はジュース缶を片手にぼうっと夕日を眺めている。

「中々ままならないものだね。気持ちだけが先行して身体がついてこないの」
「キャパオーバーってこと。鹿矢はいつもエンジン全開で突っ走りすぎだから、身体が悲鳴あげてるの〜。加減を覚えなよねぇ」
「あはは……分かってる、つもりだった。でもだめだったみたい。猛省します」
「うん。鹿矢、ジュースちょうだい」
「…………脈絡がないんだから。いいけどさ」

お小言は後日、どうせ快調したセッちゃんや椚先生にざんざん並べられるだろうしこの辺りで話題を切り替えるのがベターだろう。

差し出された缶はまだまだ重みがあって、半分は残っているらしい。
飲み終わるのさすがに早すぎじゃない?と可笑しそうに笑う鹿矢の髪はそよそよと風に揺られている。まぁそういうわけでもないんだけど、今は黙っておこう。
生温い人工甘味料の味が、舌に広がっていく。
ほのかに香るオレンジは彼女の好むものの一種で、普段となんら変わりはない。

風が運んでくる潮の匂いに屋台の焼き物の匂い、ジュースの匂い。そして隣にいる鹿矢の、いつもの匂い。加えて嗅いだことのない涼やかなもの。……これはたぶん、病院のものじゃない。
何処にいたのかと問い質せばきっと匂いの正体も分かるのだろう。でもなんとなく聞きたくなくて、思いっきり喉に流し込む。缶を口から離せば残量を気にしただろう彼女と目が合った。

「ちょっと凛月、全部飲んだの?」
「……たしかめてみる?はい。あ〜ん♪」
「えっ、んぐ!」

飲み口を無理矢理に押し付けて残ったジュースを流し込んでやればごくりと喉がなる。
口の端に溢れてしまったジュースを拭おうとする手を捕まえて彼女の唇に鼻を近づければ、鹿矢はぎよっと目を見開いた。

気に留めずに漂う匂いを嗅げば、鹿矢の口元からはオレンジの──俺と同じ香りがする。
俺と鹿矢の間の空気がそれだけで構成されているみたいで、なんだか甘ったるい。

「ちょ、ちょっと。凛月……口、拭いたいんだけど……?」
「……俺が拭ってあげようか」
「恥ずかしいからやだよ」

ふい、と視線を逸らした鹿矢の頬は真っ赤だ。
夕日に隠れてあまり分からないけど、羞恥に染まっていることは見てとれる。……そんな顔をされたら、誰だって自分は特別だって勘違いをして、愉悦で満たされるんだろうねぇ。


セッちゃん以外の決まった誰かを本当の意味で『特別』にしてこなかった鹿矢は、その性格や立場から大多数に好まれることは無いけれど特定の人物から重めの矢印を貰いがちだ。……たとえばどこかの兄者とか、やたらと花を贈り続けていた誰かさんとか。
言えば学院生活を共にしていたセッちゃんや『王さま』もそのうちの一人で――どういう色の感情かはともかく。分かりやすく好意を向けられているとは思うんだけど。

「(応えようとしない。期待をしない。できない、が正しいのかなぁ)」

鹿矢が歩んできた道を思えば、自己肯定感の低さや罪悪感やらが好意を受け止めること自体を邪魔をするのは理解出来る。同情も、する。
――だからこそ、直接言葉にはしなかったけれど俺が肯定した『信頼してる』や『大好き』にもあんな表情をしたのだ。嬉しいが滲み出ていても、受け止めていいのか分からない、みたいに口を噤んでいた。自分は大好きだのなんだのって振り撒くくせに。
それがなんとなく、気に食わない。

「ねぇ、鹿矢」
「……なに」
「……さっきのナッちゃんとの話、聞いてたんだろうけど。俺はねぇ、鹿矢のことが好きだよ。自分勝手だし秘密主義だし、情けないけど」
「……」

飾らない感情を言葉にして、並べていく。
今の鹿矢がきちんと受け止められるのは好意的な態度でも遠回しな言葉でもない、直接的な言葉だけだろうし。

「…………マイナス点のほうが多い気がするのは私だけかな」
「そういうのも含めて、ってこと。甘やかし甲斐がなくなるのも困るしねぇ」
「……いい感じに丸め込もうとしてない」
「気のせい気のせい」

指から伝わる温もりが隙間から漏れていく。
溢さないように握れば、鹿矢は応えるようにわずかに力を込めた。
ぼすん、と肩に落ちてくる頭は温かい。

「………………。『Knights』の味方とか言いながら、別の仕事優先しちゃった」
「ス〜ちゃんから聞いたよ。セッちゃんもゴーサイン出したんだし、今後の俺たちのためのコネも得られそうだったんでしょ」
「そのうえ体調崩したし、」
「今後の課題だねぇ」
「………………今日、頑張りたかったのに、ぜんぜん間に合わなかった」
「……本当にそう思ってるなら重症。まだ通し稽古の途中で、休憩中。観客席もガラガラで開演前。俺もこうして鹿矢の隣にいるでしょ」
「それは、そう」
「先生も『間に合って良かった』って言ってたし、代表のひとも『本番はよろしくお願いします』って笑ってたよねぇ。……遅れた分は今から取り返せってセッちゃんが言ってたのも、忘れた?」
「…………忘れてない」
「うん。だから、鹿矢は間に合ったんだよ」

事実を述べただけのなんてことない台詞。
たったそれだけで救われたみたいに息を溢すから、こっちが良いことをしたみたいな気分になる。
そんなありきたりな言葉が鹿矢にとっては代え難いものなのだろうけど。

「……ありがと、凛月」

私も凛月のこと好きだよ、と顔を上げて目を細める姿は海を背にしているからか、きらきらと光って見える。
綺麗だという率直な感想さえ奪っていく陽光が憎いくらい眩しくて、見慣れた、ありふれた色の瞳さえ瞬いている。
不思議と目を閉じてしまうのは勿体なく感じて──ああ、なんて言い表せばいいのだろう。

「……凛月さん。手、いつまで繋いでるの」
「……俺の気が済むまでかなぁ?」
「いつよ、それ」





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