#38




薄い青が美しい。
箱庭のような――閉じられた世界は、本来なら臨むことができない場所。世界の大半を占める人間が息づくことのできない神秘。
ただ観るだけで不思議と落ち着くもので、普通ならば手を引かれているという状況に熱が浮くものだけどプラマイゼロになるくらいには気分は穏やかだ。隣さえ、向かなければ。

明確に手を繋いでいるわけではなくて、引かれているだけ。一方的に伝わってくる少しの熱は気を紛らわせることのできる範疇だ。

「(……なんか、『恋人』だった時より触れてる気がする)」

本物ではなかったという事実があるにしても。
一年前よりも今のほうがずっとコミュニケーションを取っていると思う。
深い意味はあまりないのだろうけど――どうとも捉えられても仕方のない振る舞いをするから感情が追いつかない。
ぼうっと眺めている今だって、視線を注がれている気がする。

「……なんでしょう」
「おぉ、すまんすまん。あまり見慣れぬ格好じゃから、つい見惚れてしまったんじゃよ。……綺麗なワンピースじゃのう?よく似合っておるぞ」

視線をやれば案の定目が合って。サラッとそういう台詞を笑顔で吐くものだから言葉に困る。
思ったことをそのまま言ってくれている、のだと思う――馬子にも衣装的な感じで。

「…………あ、ありがと。前に帰省したときに従姉妹からもらったんだけどね、着心地もいいし良いものなのかも」
「うむ。手の込んだ刺繍が入っておるし、上等品じゃな。良い巡り合わせじゃったのう。……というかそんな風にめかし込んでおるものじゃから、てっきり誰かとデートの待ち合わせでもしておるのかと思ったぞい」
「ええ〜……本気で言ってる?」
「心外じゃのう……我輩いっつも本気なんじゃけど。候補を挙げるとするのならば、……瀬名くんとかかのう?」

そうやって名前を挙げるあたり私が誘って断られた顛末を知っているんじゃないかと邪推してしまうが、クラスも違うことだしただの推測なのだろう。
言葉通りそれなりに本気で疑っているのか、朔間さんの目の色は【サマーライブ】の時に見たものと似ている。誘ったけど断られましたとは言いづらい空気だ。

「瀬名とデートとか百年早いって言われそうだし、ないって」
「……そうかえ。では今のは忘れておくれ」
「…………」

特別枠が私だけじゃないということも距離感のおかしさを気遣いの一種だと解釈したものの、何度も何度も巡るように思考してしまうのはきっと朔間さんが延々と私を『元カノ』だとか自分を『元カレ』だとか言ったり、あたかも嫉妬してますみたいなムーブを示すからだ。

――今更『もう一度』をする必要だって無いし、そのつもりがあるようにも思えないのに。言動も行動も、朔間さんはぜんぶが狡い。

「(………無駄に浮かれるのとか後から悲しくなるからイヤなんだけど)」

朔間さんは私から視線を水槽へと移して、感心するように眺めている。
今まで何人がこのひとの横顔に想いを馳せてきたのだろう。両手で数えられる程度に収まるはずもないだろうから、ちょっと考えたくもない。



***



数カ所の展示を夢見心地な気分で歩いているうちに段々と思考は冴えていく。

「……で。朔間さんの連れは大丈夫なの」

考えてみれば朔間さんがお昼間にひとりで出歩くはずもなし。なんの断りもなく別行動はしないと思うし、エスコートしてくれていた朔間さんには申し訳ないけど――大神くんや葵兄弟あたりを引き連れてきていても不思議ではない。
何より人に聞いておきながら“自分には連れがいない”だなんて一言も言っていないし。
隣で海月を眺めていた朔間さんは不思議そうに首を傾げている。

「……我輩、連れがいるとか言ったかや?」
「言ってないけど。朔間さんが私みたいに一人で水族館に来るとは思えなくて」
「まぁそうじゃけども。……聡いやつめ。もう少しばかりエスコートしてやろうかと思っておったんじゃがのう」

水槽をいくつか横切って、非常口のそばへ。
ぴたりと足が止まった此処が終着点なのだろう。

「……あんずの嬢ちゃんのサポートやらインターンやらで、鹿矢も忙しくしておったじゃろ。こういう時くらい気を回さずとも良いじゃろうに」
「お気遣いありがとう。私は休みも増えはじめてるから比較的大丈夫だよ。夏休みも終わりのほうはしっかりお休みもらっちゃったし、あんずちゃんのほうが心配かな」

夢は、いつかは醒めるものだ。
思考が冴え始めれば終わりの合図で、今がきっとそう。……白昼夢のような。まるで『デート』のような一幕はしっかりと思い出に刻めたし、もうお腹いっぱいだ。

「【サマーライブ】ではあんずちゃんにお説教したんだってね。天祥院から聞いたよ。……あんずちゃんの『先輩』も、まじめにやってるんじゃない」

名残惜しいけれど、そろそろ目を醒まさなければ。

「……鹿矢の耳にも入っておったか。まぁその件で思うところもあったので、三毛縞くんにも嬢ちゃんを気にかけてくれるよう声をかけたところじゃよ」
「さすが、抜け目ないね。たしか三毛縞くんってあんずちゃんと幼馴染なんだっけ?心強いね。……心配しなくても大丈夫だって。私も違うアプローチで支えるから、あんまりひとりで気負わないでね」
「まったく、どの口が言うか」
「えー。厳しいなぁ」

偉そうに言ってみたのが癇に障ったのか、朔間さんはわずかに表情を歪めて私の髪をさらりと撫でる。
言葉も続かず、けれど離れずに添えられているだけの手のひらの温度は先ほどまで触れていたのにいまいち分からない。……バカンスの朝のように手を伸ばせばきっと、分かるのだろう。

側から見れば。これもデート中の、恋人同士の戯れに見えるのだろう。


『デート』の記憶は一度だけ。
巴と街を歩いて、服を買ってもらって。談笑しながらお店に並んで、イタリアンを食べて――海を終着点にしたあの日はしっかりとデートだった。
小さな頃に思い描いていたシチュエーションそのもので、景色も鮮明に覚えている。
そのあとにお別れをしてしばらく縁がなくて、跡地とはいえ思い出の場所で再会したのも含めてドラマチックだった。小さな頃の私に聞かせれば、きっと目を輝かせて夢を見てしまうくらいには。

……その点『恋人』だった朔間さんとはデートなんて一度もしたことがない。
区分は人それぞれで、放課後や仕事帰りの喫茶店だとかも一方が『デート』だと思えばそうなるんだろうけど。当時の朔間さんも私もそんな気はなかったと思う。
今日のだって偶然会っただけで、違う。無理矢理『先輩』同士の会話に軌道修正をした私が憂う資格もない。

『でもいいんじゃない?高校生の、等身大の青春みたいでさ……朔間さんも鹿矢ちゃんもそういうのとは無縁だったって感じだし』

思っているよりも何倍も、知らない。
朔間さんが青春っぽいことをしてきたのかとか、たとえば海外や学院内外に“ほんものの”想い人が、特別に想う誰かが居たとしても知らない。

曖昧な距離感を彷徨い続けているのだと思う。
いたずらに距離を詰められて、揶揄われて、もちろんそれで助かることだってあるけど――今は思考もいっぱいいっぱいで、息苦しく感じることもある。
星空を背景に見た赤い瞳も、冷たい手のひらが暖を帯びていく安心感も。ぜんぶ夢だったんじゃないかと綺麗な思い出さえ疑ってしまう。
過ぎた現実と夢の分別さえできなくなっていく感覚が身体中を駆け巡って気持ち悪い。

『おやおや、可愛いお顔が曇っていますねぇ?元気になる魔法をかけてあげましょうか……♪』

――そして唐突に、思考を奪うが如く陽気な声は降ってくる。

陽気な声とともに眼前に現れたペンギンのぬいぐるみが、私と朔間さんの間を陣取っている。
無垢な瞳が近づいてきて、ふわふわの生地が頬に触れて――慌ててぬいぐるみを鷲掴んで振り返れば、ニコニコと笑顔を貼り付けた日々樹くんのドアップで視界が満たされて、理解する。腹話術でぬいぐるみに声を当てていたのは他でもない彼だろう。
朔間さんといい、もういっそのこと五奇人の彼らには神出鬼没の特性を付与してやりたい。

「なんて、夏目くんの受け売りですけど。熱烈な歓迎をありがとうございますっ!この夏は何かと縁がありますね?」
「……こんにちは、日々樹くん。朔間さんの連れってもしかして」
「ええ、私も奏汰からチケットを買っていましたので!僭越ながら鹿矢に先んじて“デート”していたんですよ〜」
「で、デート…………」

たしかに日々樹くんは舞台で女装をさせようものならそこらの女優なんて目じゃないくらい綺麗だけど。女である私も正直勝てるとか思ってないけど。
まるで私の心を読んだかのような台詞に悶々しているうちにも、日々樹くんは朔間さんと私を見比べて目を細める。

「ご心配なく。私、入場して早々に用事が出来たから少しだけ外す〜とかでフラれてしまったので!……相変わらず鹿矢に振り回されていますねぇ、零?」
「……何のことかの。というか我輩、日々樹くんとデートとかしておらんし」

誤解を生む表現は感心せんぞ、と息を吐いた朔間さんは、私が鷲掴んだ青色のペンギンのぬいぐるみをじとっと見つめてやや乱雑にくちばし部分を拭っている。

なぜそっちを拭くのか。……いや、頬を拭って欲しいとかじゃないんだけど。
そんな素朴な疑問を溢してしまえば余計にややこしいことになりそうなので、言葉が出てしまう寸前のところで飲み込む。
というか。逆ならまだしも、朔間さんが私に振り回されてるなんて見当違いもいいところだ。




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