#41






『妻瀬鹿矢、だっけか?坊主の彼女の』
『……彼女とは違いますけど、どうも……?』

なんてことのない、ただ過ぎ行く季節の一幕。
到底、運命とは言い難い巡り合わせ。
春の盛りに初めて言葉を交わした彼女は、不快と言わんばかりに眉を顰めて俺を視界に映した。

『チェス』だか『バックギャモン』だかに引っ付いている、広報見習い。
ノリはイマイチだが彼女が取ってきた仕事は美味いものが多いというのはそこそこ有名な話で、外部案件の殆どの窓口を請け負う彼女へ近づく人間は多かった。

──が、情には一切絆されず見合わないと判断すれば即一蹴。別の、下位互換の仕事へ回される。
自尊心の高い連中はそれが気に食わなかったのだろう。やれ冷徹女だの身内贔屓の阿婆擦れだのと鬱憤ばらしで流される心無い噂や彼女を蔑ろにしても良いという空気が、一定の周期で蔓延っていたように思う。

もっとも彼女にとっては慣れたものなのか、荒唐無稽な醜聞は相手にせず、何に臆することなく仕事を配分し着実に務め上げていたようだが。
夢ノ咲学院では希少な“まじめ”な人間──ではあるものの、決してイエスマンではない。自分の軸を曲げずに奔走する『広報』。それが妻瀬鹿矢の第一印象だった。

『見事に振られたな。あいつ、生徒会に入れるんじゃなかったのかよ』
『うるさい。……贔屓の『ユニット』を離れろという話でもなし。極論、籍を入れるだけの話だぞ。妻瀬にとっても悪い話ではないはずだが、まさかここまで頑なとはな』

昔馴染みはそんな彼女に目を付けて、身内へ引き込もうと勧誘し続けていたらしい。
……曰く、生徒会の仕事は広報に関係なく請け負うが与することを・・・・・・・・拒んでいる。つまるところ籍の居所自体に拘りがあるのだろう。

レッスンがあるからと浮き足立った様子で書類を提出して、颯爽と生徒会室を後にした横顔から察したのは今なお零落し続ける夢ノ咲学院に彼女が居座る理由。

『……ま、理屈じゃね〜んだろうよ』

声色から漏れ出る、幸せの源。
唯一無二の、愛するアイドルがいるのだろうという確信があった。


とうの昔に一等星を見つけていた彼女にとって自分は学院に跋扈する無数のアイドルのひとり。
神様のように尊ぶ対象ですらないただの先輩。茶飲み友達。或いはアイドルと広報。
少ない時間を重ねて行き着いたのはそんなありふれた関係で、特別だろうという驕りはなかった。

ただ、後輩然としながらも軽口を叩く彼女と過ごす時間は心地が良かったから――学院の半数が所属する大規模な集団に居ながらも先輩という存在はどうも自分だけらしいから、気まぐれにそれっぽく振る舞ってやった。

『朔間先輩』

楽しげに先輩と呼ぶ声も、当たり前に存在する景色を綺麗だと称賛する声も、決して嫌いではなかった。
寧ろ、好ましくすらあった。

偽りの関係を紐づけたのは、彼女を守る方法として最適だと判断した他に理由はない。
思い当たる理由なんてそれしかない。

偶然危険な場面に出会したから助けて、泣きそうになっていた後輩を慮って思いついた策。偽りの冠。救いのつもりで与えた行き当たりばったりの称号で、ブラフ。受け入れることを強制した代物。

そんなものを愛や恋情と結びつけるには相応しくないだろう。

『……『恋人』の肩書き、お返ししますね』

──だと、しても。
あの声は。あの時の喪失感にも似たなにかは今でも色褪せずに、胸の奥に巣食い続けている。




***



――意識の端で柔らかいものが頬に触れる。
視線を移せば、先ほど日々樹くんが鹿矢の頬へと押しつけていたそれの嘴が、自分の頬に添えられていた。
急に与えられた感触に反応出来ずにいると、ぬいぐるみ越しに控えめな声が覗く。

「……お、驚い、た……?」

見慣れない、大人びたワンピースを纏った悪戯の主は様子を窺うようにこちらを見上げている。
周囲に人が居たのなら恋人同士の微笑ましい戯れに見えるような“らしくもない”ことを仕掛けてきたのは、会話の途中で突然黙り込んでしまったからだろう。

「…………ひとが思い耽っておるところを襲うなど邪道じゃぞ、鹿矢ちゃん?」
「ご、ごめんって。……ほら、いつも悪戯されてばっかりだから好機だと思って。悪戯心が働いて」

徐々に幼さの消えていく笑みも、長く伸びた髪の毛も時を重ねた証拠。あれからもう一年が経とうとしているのだから、当然だけれど。

幾度となく撫でた頭の形は掌がよく覚えている。
滑らせて髪の束を掬えば、するりと指を抜けて落ちて小さく揺れた。

「(……勿体無い)」

水槽のライトアップが辛うじて届いているとはいえ関係者しか立ち入れない通路は無人。一般公開エリアからも距離がある。
間も無くライブが始まるという報せや来館者の話し声は遠く、友人の舞台がすぐ後に控えているというのに――此処だけはゆっくりと時が流れているかのように錯覚してしまう。

「…………怒ってはない、で合ってる?」
「うん?ああ……どうやり返してやろうかと思ってのう。同じ手では芸が無い。それ以上を与えてこそおぬしの『先輩』じゃろうて」
「……やり返すとかやっぱり怒ってるじゃない。そんなところで発揮しなくてもいいからね、先輩力」
「くくく、そう遠慮せずとも良い。さぁて、どう悪戯してやろうかのう……♪」
「ひとの話聞いてた?朔間さん」

表情を引き攣らせて一歩たじろいだところを壁へ追いやれば、ぎよっと身体を揺らして暗がりでも分かるほどに頬を赤らめていく。
二年と少しを男だらけの空間で過ごしてきたというのに一向に慣れを感じさせない反応は愛らしく、仕掛け甲斐があるものだ。

瞳は青。
通路の先から僅かに差し込む大海の縮図を反射した静かな色は、奇しくも彼女の愛する星の光と良く似ている。

「…………あの。……壁ドンとか狡いし、心臓に悪いからやめてくださいね」
「好きじゃろ、青春っぽいの。それに狡いと言うのならお互い様じゃ。二番煎じとはいえ、吸血鬼の頬に嘴を立てようなどと考えつくのはおぬしくらいじゃろうて」
「いやそれは知らないけど……ていうか私に対して狡いとか思うんだ……」

けれど今は。くらりと揺れた先には、たしかに赤と黒が坐している。
羞恥の中に垣間見える満更でもなさそうなそれからは目を逸らせない。

「それはもう存分に。……日々樹くんの言葉もあながち間違っておらぬと言うことじゃ。我輩、鹿矢には沢山振り回されておるし」
「……仮に私が振り回してるとして、よ。朔間さんの意地悪に比べればかわいいものだと思うけどな〜……」

──先輩の立場だの、広報としての身の振り方だのと昨年度よりも輪をかけて気を張り続けている姿は、とても見ていられなかった。
だから接触する機会を増やしたというのもあるけれど。……こうもそばに在れば視線のひとつでも独占してやりたいと、多少の欲が出てくる。
そんな感情を詰め込んだ行為を『意地悪』と称されるのは本意ではない。まあ、鹿矢にとってはそういう類のものなのだろうが。

それでも、許容し嫌悪感すら示さないのは『朔間零の女』だったからか――いや、それも彼女の性格が起因しているのか。
……鹿矢は一度でも心を許せば愛する対象に加えて、情を寄せる。
ある程度の距離を、許してしまう。あり得たかもしれない青春を消してしまうような『恋人』の肩書きですら拒絶しない。
今だって触れれば、抵抗もせず初心な反応をして見せるのだろう──と癖のように頬へ手を伸ばす。

「……きょ、今日はこれ以上、流されないから。行こう、ライブ始まっちゃう」

──はずが。温かな指がそれを静止する。

かつてけじめだとか言って離れていった掌がじんわりと温度を伝えていく。
火照りを振り切るように鹿矢は混雑を避けながら前を歩いていく。左手にはぬいぐるみ、右手には自分の指を捉えて。

「……我輩をエスコートしてくれるのかえ?」
「迎えに来てくれたお礼と、さっきのお返し。まあすぐそこだけど。…………混んでるから、離れないでね」

握られた指先は次第に熱を帯びていく。
この情に似合う名は、未だに見つからない。





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