#46



武器にはならないと呪われた楽譜は、あの瞬間、灰になった。


「(朧げでも記憶を辿ってみるものだねぇ)」

――【チェックメイト】前夜に、捨てておいてと託された鹿矢の楽譜。
昨年度の教科書とノートの間に挟まれていたそれは、時間をかけることもなくすんなり見つかった。

残してあげたいとか勿体無いとかではなくて、ただ捨てきれなかっただけ。
なんとなく、捨てるのも返すのもタイミングを逃して季節が回っただけ。

「(……思わずしらばっくれちゃったし、探せって頼まれたわけでもないけど。そういえば捨ててなかったなぁって――今更、思い出しただけで)」

ス〜ちゃんたち曰く、本人も『黒歴史』だとか言って、完成しなかったことにしたみたいだし。
鹿矢にとってあの頃の記憶は良いものばかりじゃないだろうから気持ちはわかるけど。……あんな風に俺に押し付けたんだから、表に出すことは想定していなかったはずだ。

詞はおろかタイトルも、作者名すら無い。
言っていた通りの自己満足。
後に繋がることもなくただ打ち捨てられた未練を改めて眺め見る。


「(……明るい歌)」

理由はそれだけ。
……そういう歌だったから。後悔に塗れたものかと思えば――むしろ幸福だけを写したような歌だったから。
そのまま仕舞うのではなくて、かつて鹿矢が奏でていたこの音楽室で弾いてみようかと思い立った。

陽は傾き始めていて、あの日のように暗がりではない。
聴いたのは一度きり。断片的で、意識もしていなかったから記憶も朧げだ。
それでも漏れ聞こえた音色を思い出しながら、連なりに込められた想いを音へ換えていく。


――もちろん、俺自身の解釈もあるのだろうけれど。
それは希望と活気に溢れた幸福な夢のようで、失敗作や黒歴史なんて言葉とは真逆の音楽そのものだ。
鹿矢の好みそうな歌。口ずさむ姿が容易に想像できる。なんて、当人が作ったのだから当然なんだけど。

形は違えどこれは鹿矢のポートレート。
彼女の在り方が当時から変わっていないと仮定するのなら、表題は間違いなく『Knights』だろう。

「(……二人だけの世界。鹿矢の、焦がれた景色)」

繰り返し、軌跡をなぞる。
知らない景色を覗き見るみたいに――手を伸ばしさえすれば、触れられそうな寸前まで歩み寄る。あの頃、そこに居ただろう彼女のように。

数度同じメロディラインを繰り返して、転調もなく、少しの余韻を残して終わり。
歌が語る言葉は無い。
普段は大好きだの綺麗だのと饒舌にたらし文句を並べる口もだんまりだ。

『Knights』の味方の鹿矢じゃない、もっと個人的な、執着心のようなものの残骸。
詞に認めることもなく。画に遺すこともなく。音だけに晒した彼女の名残りを弔うように瞼を伏せる。

「(……もし、鹿矢の耳に届いたら)」

まだ持ってたの、って呆れるかな。
捨ててって言ったのに、って怒るかな。
凛月に託したのは私だから、って苦笑いで軽く流して、そういえば、って違う話題に変えるかも。あれはあんまり良くないときの表情だから、させたくはないんだけど。

今も昔も、鹿矢はこの歌を屠ることを選んだ。
だからこの行為自体、墓荒らしみたいなものなんだろう。

「(……でも、暗がりでずっと独りぼっちなのは、……寂しいよねぇ)」


差し込む夏風に楽譜が揺れる。
扉の向こうに居るだろう人影に期待を寄せて、彼の声を待った。





***



――単独での音楽室への呼び出し。
瀬名先輩が合流するまでの限られた時間ということもあり、突発的に差し込まれたLessonというのは否めませんが。
凛月ちゃんのやる気が無くならないうちにいってらっしゃい、と鳴上先輩に送り出され音楽室へと急ぐ道中、聴き慣れない音楽が階段を伝って届く。

著名なClassicでも『Knights』の曲でもないそれは、恐らく凛月先輩の手によって奏でられていて――明るい曲調で、心地良い音階が鼓膜を撫でて少し擽ったい。今日の、課題曲でしょうか。

「失礼します。今日はこちらでの歌唱Lessonと、鳴上先輩から伺ったのですが……」
「お。いらっしゃい、ス〜ちゃん」

演奏が終わるのを待って扉を開けば、放課後の早い時間にしては好調気味な凛月先輩に出迎えられ――背筋を伸ばして息を整える。

そんなに気を張らなくてもいいからねぇ、と促されるままに座った目線の先には、やや使用感のある楽譜が鎮座している。
歌詞もTitleもない曲、とは。
……凛月先輩が作曲されたものなのでしょうか。そういう雰囲気でもありませんが。

「凛月先輩。さきほど演奏されていた曲は……お姉さまか、妻瀬先輩がまた新たに調達してくださったのですか?」
「ううん、ただの俺のお気に入り。事情があって埃を被ってたんだけど……さっき、長年の眠りから解放してあげたんだ」
「はぁ……?お気に入りなのに、さきほど解放されたのですか」
「細かいところは気にしない気にしない♪もういちど弾くから、感想を聞かせてくれる?」
「それは構いませんが……」

そもそも一体どこの誰の曲なのですか、と口を挟む間もなく、凛月先輩の指はしなやかに鍵盤をなぞっていく。
言葉通りなら二度目だと言うのに――指捌きは慣れ親しんだ曲そのもののようで、思わず息を呑む。

「(Marvelous……!さすが、凛月先輩ですね)」

子守唄のようにゆっくりと奏でられているにもかかわらず、思わず頬が緩んでしまうほどのRhythmは爽快で清々しく、単純に心地が良い。
『Knights』の楽曲でこそないものの曲全体の雰囲気は似通う部分があり、加えて所々で聞き覚えのある旋律が記憶の隅を掠めていく。

「(ふふ、また、この音階。作曲者の好みなのでしょうね。たしかに何度でも繰り返したくなるほど心地良くて……。――。ああ、……これは)」


その中に、ひとつの既視感を見つける。

心地良さの端に居座る、空白。もしくは余白。
語り部たる誰かが居た痕跡。
そこだけが語られず。徹底徹尾、沈黙を貫いている。小気味良く吐き出される音に干渉せず、ただひたすらに見つめるだけ。
その眼差しを、よく知っている。

凛月先輩の指は、聴き慣れた音楽を反復する。
穏やかに、慰めるように。慈しむように。
――余白すらも音楽であるように。


幸福だけを閉じ込めて、『好き』だけを煮詰めて、繰り返す。
たったひとつだけを尊ぶその歌は開放的な音階とは裏腹に閉塞感で満ちている。
扉一枚を隔てて聞こえた“明るい曲”と根本は変わらないはずなのに。
……文字に起こされた感情は無いはずなのに。刻まれた痕跡が、心臓を震わせる。


「察しましたって顔。……さすが『Knights』だねぇ?」
「隠すつもりもなかったでしょう。瀬名先輩や鳴上先輩でも同じ反応をしたと思いますよ。……それにしても、楽譜は捨てたと仰っていましたが……凛月先輩の手元にあったのですね」
「……色々あってねぇ。だから一応、今の所有者は俺ってことになるのかな。まぁ『捨てた』ことに変わりはないと思うから、内緒にしててあげてよ」

本当に内緒にしてほしいのならそもそも校内で演奏なんてしないでしょうに、と漏れ出そうになった小言は喉の手前で留めておく。

「……ス〜ちゃんは、使いたい?この歌。歌詞も振り付けも、使用許可だってないけど」
「……」


……手に馴染んだものでなくとも、決して短くはない日々をともにしてきた妻瀬先輩の歌であれば、それだけで立派な『武器』になる。
だからこそ瀬名先輩は候補に挙げたのでしょうし、どうも乗り気ではない様子ですが――凛月先輩が聞かせてくださったのは少なくともそういう意図があってこそでしょう。

諸々を汲んで、此処で『yes』と答えるのが定石なのでしょう。


「(……恐らくは。かつて妻瀬先輩が心血を注いだ唯一の歌。――それを武器として携える資格が、私にあるのでしょうか)」


……私は。思えば妻瀬先輩のことを、よく知りません。
初めから当たり前のようにそばに居た貴女を、『Knights』の先輩方と同様に慕ってきました。
知らないままそばにいて、当たり前のように注がれる■を享受してきました。


お姉さまの先輩であり、『Knights』をいちばんに想い、私たちを常に鼓舞し続けてくれるひと。
卓越した撮影技術と幅広いConnectionをもつ『広報準備室』として、学院の基幹部分の多くを担う影の功労者のひとり。

『――司ちゃんの認識は間違ってないし、事実よ。でもそれはあくまで身内周りと外部からの話。評価も高くて実力もあるからそう思われがちなんだけど……お偉方にとってはちょっとねェ。今の扱いを見てると勘繰っちゃうのよね』

鳴上先輩が危惧するように、私たちの前では見せない苦労は山ほどあるのでしょう。
……立場が異なるとはいえ、お姉さまと比較されることも日常茶飯事なのでしょう。

だとしても、“『 Knights』の味方”である妻瀬先輩は凛々しく、頼もしく、人間味にあふれた理想の味方で居心地の良いものでした。
変わらずに絶対に一番で在り続ける、というお姉さまと異なる安心感は何にも代え難いものでした。

「(……原動力も、理由も『Knights』。これまでの言動や行動から察するに、ほんとうに、それだけ)」

どの切り口から彼女という人間を覗いて見ても答えは明白。
――だからこそ。
漠然と在る理想を体現した貴女であるからこそ、貴女という人間は掴みどころが無かった。
徹底された■は機械的であるにもかかわらず、人間味を帯びているからこそなにかが欠落している気がして。明白なはずの答えの過程が不透明なせいで、『何故』が居残ってしまうのです。

過ちにさえ理解と肯定が向けられ、鼓舞に優しく押し流され続ければただそういうものであるという認識で良いと脳が絆されていく。
妻瀬先輩自身もきっと――『理想そのもの』であることを是としているのだと、日を重ねるごとに思考の落としどころを定めてしまっていたのでしょう。


「(切なくて、一途で。……優しい歌)」

この歌を聴くまでは。
……理想そのもののような在り方が貴女なのではなく、示すための『旗印』であると――そう腑に落ちたのは、長い時間を共にしただろう弾き手の解釈によるものでしょうか。
或いは、過去の作品を通じて改めて思考することで私も少しは貴女への理解を深められたのでしょうか。

願わくばどちらとも、なんて差し出がましい発言を零してしまいそうなくらいには高揚感に包まれているのです。
ずっと曖昧に思えた貴女の姿を、今更ながらに、はっきりと捉えることが出来たのですから。

たったひとつ歌を聴いただけなのに。


「――使いません。使いたく、ありません」

それはきっと、想い、願いを綴じた歌。
今の貴女からは微塵も感じさせない拙さとEgoism。
……心のひとつを置いてきた場所。
――ええ。けれど、置いてきてくださったからこそ、こうして貴女の心に触れることができました。

妻瀬先輩作者の許可無く使うのは憚られますしね。……この歌は、『お守り』にさせてください」
「そっか。……『お守り』、ね」

安堵とも取れる表情が天井を仰ぐ。
そのほうがずっと“らしい”かもねぇ、と緊張の糸が解けたように眉を下げた凛月先輩の横顔は、少しだけ妻瀬先輩と似ている気がした。







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