#12


「あー、お腹いっぱい」

これは経費だから英智くんに請求しようね、なんて言って領収書を切っていた巴は傑作だったなと思う。

なんとなく歩いて帰りたい気分だったので、巴が帰っていくのを見送って、夜の道をぽてぽてと歩いている。

夜道を歩くのは好きだ。
危険だっていうのは分かっているから、人通りのあるところを歩くようにはしているけど。
静かで、いつも観ている風景とは違って落ち着く。

とは言っても、もうあと少しで家である。
寂寥感に包まれた空気を堪能できる時間はもうじきおしまい。不審者用にと持たされているベルも役に立つかわからないけど、一応携えておこう。

――明日はいよいよ【金星杯】だ。
初めに日々樹くんの舞台を観劇して、そのまま『Valkyrie』と『fine』のドリフェスを観る。二公演分の取材と撮影をする予定である。
朝のうちに、備品系は講堂に運んでおこう。放送委員に音源データは渡してあるし、それさえ済ませれば当日は会場に入るだけだ。

『Valkyrie』はドリフェスに出演するのが初めてだったから手続きとかは手伝ったりしたけど、ピリピリした空気だったし、少し心配である。
通常のライブとは違う。アプローチの仕方も変えていくべきなのだろう、私が口を挟むべきことではないけど。

「鹿矢」
「ひっ!」

突然背後から声をかけられたので驚いて変な声を出してしまった。
振り返ると夏ぶりの朔間先輩の姿があって、ほっとする。不審者かと思った。

「ははっ、ビビり過ぎ。久しぶりだな」
「お久しぶりです……」

それでも彼はふだん通りに笑って洗礼のように私の頭をわしゃわしゃと撫でる。と思ったら。
彼の声色は怒気とか呆れとかを含んだものになる。

「……『fine』には気をつけろ、つったよな〜?聞いてないとは言わせね〜ぞ?」
「痛い痛いっ、なんですか、気をつけてはいますよ!」
「その割には『fine』の巴日和と仲良さそうだったじゃね〜か。なんだ?寂しすぎて俺様ちゃんから鞍替えしちまったのか?」

頭をぐりぐりされて、まるで先ほどまで尾行していたみたいに――私の行動はお見通しだと言わんばかりに言葉を並べられたので、心臓を掴まれた心地だ。
いや、やましいことはなにもないけど。ただ経費でご飯を食べただけなので。
……というか。表向きは『朔間零の女』をやらせてもらってますけど。本当は“そういうの”じゃないのに。

「鞍替えもなにも、フェイクじゃないですか」
「あはは。そういえばそうだったな〜?」

そういえばって。
いちいち気にしていた自分が虚しくなる。

「……で、どうしたんですか?海外のほうは落ち着いたんですか」
「いや、それはまだまだ。明日の朝には発つよ。……凛月にも言ったけどさ。お前にも重ねて忠告しておこうと思って」
「?」
「【金星杯】、もう関わってんだろうけど、行くな」

今までのぼんやりした忠告ではない。
ハッキリとした“命令”のようなものを、先輩は真剣な表情で告げる。

「行くなって、そんな」
「仮病でもいい。なんでもいいからとにかく家にいろ。なんだったら俺に着いてきてもいい。無理やり連れて行ったってことにしてやる」

――無茶なことを、いう。
私に選択の余地は無いような――強制力すら感じさせる言動から、視線から、逃げられない。

「…………パスポート、無いですし」
「なんとかしてやるよ。先輩だからな」

これが先輩だから世話を焼くという行為ならば過ぎた干渉だ。……恐らくはそうならざるを得ない何かがある。
頭のいいひとだ。私よりずっと広く世界を見ることのできるひとだ。正しさを計るのであれば、先輩に傾くのは至極当然のことである。

でも。
じゃあ私は私の意思や選択権を彼に委ねてしまって、先輩について行ったとして。危なくなったらまた助けてもらって、守られて、それって情けなくない。

隠そうとしているみたいだけど。疲労の片鱗が見える先輩の、重荷になるんじゃないか。

「だめですよ」

朔間先輩があまり帰ってこない理由。
忙しなく海外を駆けている理由。
人気者であることだけが理由ではないことくらい、薄々気づいていた。

気にならないわけがなくて、蓮巳や先輩の近しいひとたちに聞いたりして、ぼんやりとだけど知ることはできたのだ。
海外の姉妹校で次々と厄介ごとが起きているらしく、顔の広い先輩が解決して回っているのだという。

――助けばかりを請われて、救っての繰り返しということ。
いくら彼が神童だとかの類だとしても、人間だ。疲れるし摩耗していくのは当然のことである。

「先輩だって大変なんでしょう」
「……いいんだよ、俺のことは気にしなくて」

それなのに。先輩は、大丈夫だよって笑って私のことばかりを気にかけてくれる。

ずっと――朔間先輩が居ない間も、肩書きだとか、紹介してくれたひとたちとの縁でなんとかなってきたようなものだ。
春頃の私だったら、彼の言葉を鵜呑みにして、はい分かりましたと首を縦に振っていたのだろう。無自覚に、無責任に、私という負債を背負わせて。

「……気にしますよ。先輩のばか」
「ばか、ってお前」
「先輩が私の身を案じてくれるなら、私だって先輩の心配をしてもおかしくないじゃないですか」

返し切れないくらいの恩がある。
心配するくらいの情だって、とっくの昔にある。

労力の差こそあれ、私がけっこう無理をしてることを気づいているのだと思う。でもあなただってそうなんですよ。ううん、朔間先輩のほうがずっと大変だろう。
だから、このくらい見逃してほしい。

「大丈夫です。いざとなったら逃げます」
「何が起きても逃げられるのか?」
「た、たぶん……?」
「……頼りね〜なぁ」

もう何を言っても聞かないと思ったのだろう、先輩はわざとらしく大きくため息を吐いて髪をかき上げる。
カッコいいですね、と思ったことをそのまま呟くと、今かよ、と先輩は呆れたように笑った。


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