#18



騒がしい夏を纏った彼はいつも突然現れる。

初めてガーデンテラスで話したときもそうだった。私はお昼を食べてるっていうのにお構いなし。もぐもぐしてたらやる気の無い反応だのなんだのとか言われて、なんだこいつって思った記憶がある。

巴日和という男のスタンダードがそれであることは、以降の付き合いでなんとなく分かったのだけれど。

「つむぎくんが大忙しだから、代わりにこのぼくがお見舞いにきてあげたね!喜ぶといいねっ!まあ近くに用事があったからそのついでだけど……大丈夫?」

まず、来訪自体に驚いた。
あと。投げかけるのであれば最後の言葉だけでよかったとは思う。

「まあ大丈夫だよ……」
「そんな大怪我して笑って『大丈夫』なはずないね?……なんだかじめじめして陰気くさいねっ!悪い日和っ」

巴はふるふると首をふって病室の窓を全開にする。
彼とはほんの少しの間しか関わっていなかったから、自ら足を運んでくるとは想定外である。
本当にふらりと寄ったのだろうけど。ご丁寧に花束を持ってきてくれたあたり、頭の隅に私は存在していたらしい。

「おっと。思ったより風が強いね。閉じておく?」
「んー、いいよ。開けてて。あんまり換気してなかったから」
「そう?じゃあ開けておくね」

金木犀の香りがぶわっと入ってきて、そう言えば今は秋なのだと実感する。
季節を感じさせるものがそばに無かったわけではない。見舞品のフルーツも秋に収穫されるものが多かったし、それこそ窓から見える金木犀や紅葉が象徴しているのだけれど。

「ぼくたちは短い付き合いだね。でも世話を焼いてくれた恩を忘れるほど、落ちぶれてはいないから」
「あはは、ありがと。……この前は観れなくてごめんね」
「うん?まぁ色々あったみたいだし、気にしてないね」

そう言って、巴は手慣れた様子で花を生ける。
言動だけでなく節々に見える所作や教養から、彼は本当に良い教育を受けてきたんだなあと思う。

『Valkyrie』とのドリフェスを終えて数日しか経っていないからか疲労も伺えるので、一息つくためにも来たのだろう。
『fine』はいまや期待の星だから、それもそれで疲れるのかもしれない。
気にしてなんてやりたくないけど。あれだけマイペースな男がわざわざ足を運んでくれたのだ。今は素直に彼の気持ちに感謝するべきだ。

巴が花瓶に夢中になっているあいだ、私は黙って窓の外を眺めていた。
香りも雑音もぜんぶ、窓の外にあるはずのものが風に乗ってやってくる。
虚勢とかそういうものを剥ぎ取っていくように、優しく撫でていく。今まで保ってきたものを捨ててもいいよと言わんばかりに部屋を満たしていく。

中庭でお喋りをする子どもたちの声。散歩をしているだろう老人たちの井戸端会議。廊下を行き交う看護師や、患者たちの歩く音。
近いはずなのに、すべてが遠くに聞こえる。
毎日誰かがお見舞いに来てくれて、嬉しい。寂しくない。傷も日に日に癒えてはいる。なのに。

なんだか少し、私も疲れてしまった。

「……泣いているの?」
「……え?いや、泣いてないし、」

綺麗に生けられた花瓶を机に置いて、巴は少し戸惑った様子で私を見ていた。
手を頬にやると、水滴が指先に付着する。思いがけず溢れてしまっていたそれに、自分でも驚く。

「……あれ、なんで」

理由はわからないけど、そのまま流したらダメだと思って、自由に使える右手で懸命に拭う。

「ごめん、大丈夫、ほんとに大丈夫だから」
「……嘘。痛かったね」

自分で言葉にできなかったそれは、いとも簡単に美しい声で唱えられた。
なにかが崩れる音がする。
言葉にならなかったもの。
言葉にしたくなかったもの。

「(……そう。すごく、痛くて)」

『大丈夫』なんかじゃない。
本当は、本当は。ずっと、ずっと。
止めどなくぼろぼろと溢れ出ていく涙は、私の手のひらでは抑えきることができなくなっていく。

肩を押されて――階段から足が離れた瞬間がフラッシュバックする。
怖かった。痛かった。死ぬかと思った。
誰も泣き言を言うなだなんて言っていない。勝手に自分で言わないようにしていただけだ。強制なんてされてない。大丈夫だって、心配をしてくれた誰もに言ってきた。だから、誰も悪くなんてなくて。

それでもなぜか安堵している。
言っていいのだと、肯定されているみたいで。

「……痛かった」

掠れた声は滑稽に病室の静けさの中へ消えていく。

みんなが頑張っているのに、たいして負荷のない私が弱音を吐くわけにはいかなかった。
守られているのは知っている。
大切に思っている人たちに、好意的に思われていることもわかっている。
それだけで生きていけると思えるくらいに、大切なものがある。

――けど。
酷使されたら痛い。血肉を分けた仕事を蔑ろにされたら痛い。冗談でも鋭い言葉を言われたら痛い。要らないと言われることが怖くて痛い。
頑張らないと。
せめて「嫌いじゃない」と思ってもらえるくらいにはなりたいんだ。役に立てないと私は、要らなくなってしまう。

要らなくなるのは、いやだ。
大好きだから、力になりたい。求められていたい。

【チェックメイト】からどう頑張っても穴に嵌ってしまったように『Knights』は勝てないし、頑張って活動してもバッシングにあうし、しまいには突き落とされてしまうし。もう正直やってられない。
まあ――私だけに降りかかる災難は、自業自得だとしても。

……だって自業自得じゃなきゃなんだっていうんだ。
自業自得なら、次はそうならないようにって予防線を張れるのに。
自業自得でないのなら、なんでこんな目に遭うの。
偶然?つい、うっかり?突き落とすつもりはなかったんだって、傷つけるつもりはなかったんだって――ふざけないでよ。
理不尽に、無意味に無価値に与えられた痛みは耐えられない。

「もう、やだ……。いやだよ」
「……うん」

巴は、ようやく紡ぐことのできた言葉に寄り添うように私の頭を自分の胸にそっと引き寄せて、やさしく抱きしめた。
涙がだくだくと出てくる。止まらない。終わらない。この温かさは、痛くない。

「…………嫌がらないんだ?」
「……意外?」

思考する脳はとっくに麻痺していて、私はただ巴に身を任せている。

「意外だね。スキャンダルになる、って言いそうだね?……それともぼくのこと好きになっちゃった?」
「……………………………個室でよかった」

少しだけ茶化して、耳元で、艶のある声で囁くものだからくすぐったい。
色気を浴びながらようやく現状を理解して発した言葉がこれなので、女の子としてはどうかと思うけど。
乙女チックでもなんでもない台詞を受け取った巴は、先ほどまでのくすぐったい声から一転して、いつものように――けどどこか意表を突かれたように笑った。

「あはは!そうだね、今さら気づいたの?案外かわいいところもあるんだね!」
「褒めて……る……?」
「褒め言葉以外の何に聞こえるの?まぁぼくのオーラにあてられても微塵も靡かないのは、ちょっと腹立たしいけどね?」
「……、なにそれー」

なんだか、涙も引っ込んでしまった。
彼の笑顔につられておかしくなって頬が緩む。
何の気無しに笑えたのはいつぶりだろうか。
だらしなく涙でべしょべしょになってしまった顔は彼のハンカチでやさしく拭われる。
巴は満足げに私の顔を見て、ぽんぽんと頭を撫でた。

「きみは笑っているほうが千倍ましだね?」
「……待って。それは罵ってる。巴、今のは決して褒め言葉ではないよ?」
「え〜?かわいいよ、って褒めているのに?まったく、分からない子だね。仕方がないから一万倍にしてあげるね!」
「倍率の問題ではなくて!」

実は個室のドアが開きっぱなしになっていたことを、私も巴も失念していて。
大声で騒いでいるのを通りがかりの看護師さんに注意されるまで、あと十秒ほど。




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