#26




回り道へ導くように、花の香りを纏ったそれは私を誘う。

病院の中庭のベンチにひとりでぼうっと座っている彼は遠くをぼんやり眺めている。
誰と話しているというわけでもないらしく――ふたりで公園に行ったときのように、空を見上げていた。

「巴」
「鹿矢。こんなところで何してるの?」
「散歩だよ。あと松葉杖で歩く特訓みたいな」
「ひとりで?」
「うん、ひとりで」
「……松葉杖、疲れない?」
「ずっと座ってるよりはいいかな」

早く歩けるようになりたいし、と溢せば巴は「そっか」とどこか寂しそうに笑う。

「巴はなにしてたの?」
「病室に向かおうとしてたら、連絡が入ってね。今終わったところ」
「そっか。忙しいのにいつもありがとう」
「ぼくが好きでしていることだね」

隣に座って私も同じように空を眺める。
今日は雲が空を占拠していて、お世辞にも良い天気とは言えない。
時間が経てば雨が降ってきてしまいそうだ。

「涼しいねぇ」
「今日は曇りだからね。寒くはないの?」
「少しだけ。でもたくさん風にあたりたいし」
「それで風邪を引いたら元も子もないね。……ほら、ブレザーを貸してあげるから着ていて」

半ば無理やり羽織らされた彼のブレザーは思っているよりも大きなサイズで、私の上半身をすっぽりと覆う。
いつもはカーディガンを貸すことがほとんどだから、自分が貸してもらう側となるとむず痒い心地である。

「巴のブレザー、大きい」
「そもそも体格が違うから当然だね。でもおかげで暖かいはずだね!」
「あはは、たしかに。ありがとね」
「どういたしまして。……ふふ、彼シャツならぬ彼ブレザーだね?」
「なにその単語。初耳ですけどー」
「いまぼくがつくったからねっ!」

相変わらず巴はゴーイングマイウェイだ。
それが見ていて気持ちがいいし、安心もするのだけれど――彼とのこんな日常ももうじき終わりがくるのだと思うと寂しいもので。

退院すれば顔を合わせることも無くなるのだろうし、休学中の身だから学院に行く機会もほとんど無いだろうし。
そもそも巴は真面目に授業を受けているかすら怪しいから、登校したところで会えるとは限らない。

「なんだかセンチメンタルな表情だね」
「……んー。日常がなくなっちゃうのって、いつも寂しいなと思って。もうすぐ退院だから」
「病室に篭りきりの日常が良いものだとは思えないけれど。……まあぼくも寂しくはあるね。こうしてきみに会いに来れなくなるし」

そう言って、巴は私の頬に手を添えて。
今を噛み締めるみたいに見つめて、甘い声で、夢の世界へ手を引くみたいに言葉を紡ぐ。

「鹿矢。今度、デートをしよう」
「……また唐突に。デート?」
「うん。気晴らしになら家族のひとも許してくれるはずだね?リハビリも兼ねて――ぼくが鹿矢の好きなところへ連れていってあげる」

恋人でもなんでもないのに、巴はよくデートという言葉を使うなと思う。
と言っても私に向けて言ったのはあの夜の一度きりではあるから通算二回目だけど。

「遊びに行くんじゃなくて、デート?」
「うん。デート」
「デートかあ。……どうしようかなー」
「この雰囲気で断るの?鹿矢ってば空気読めないね?」

あの時はちょっと流してしまっていたが、明確なお誘いとなると身構えてしまう。
だって本格的にデートだというのならば、色々考えて出せる回答は『保留』しかない。

『朔間零の女』はただの冠とはいえ貸してもらっている大切なものだ。甘い声とか、良い雰囲気だけに流されてはいけない。

「……保留で」
「ふぅん。ぼくのお誘いを保留にするだなんて良い御身分だね?」
「ご、ごめんって。機嫌悪くしないでよ……。っていうか巴は恋人じゃないでしょ」
「鹿矢は“それ”に拘っているの?ずっと無視してきたけど、やっぱり気に食わないね」
「えー、なんのことだか」
「……はぁ、もういいね。鹿矢の許可なんて必要ないね。無理やりにでも連れ去ってあげる。行き先は決めてもらうけどね!」

山でも海でも好きに言うといいね!と躍起になっている巴には、立場があるからとはいえ悪いことをしているなと思うし、それなら海がいいなあと考えてしまう私も大概である。

頬から離れていく手の温もりに寂しさのようなものを感じながら、彼を宥めるように頭を撫でてやる。
これで機嫌が良くなると思っているあたり、短絡的な思考ではあるんだけど。

びゅう、と秋風が強く吹いて、周りの紅葉はざわざわと揺れている。
身体を包むブレザーは、恋人じゃない彼の香りを纏っている。

 

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