#35





「……はい。ありがとうございます。当日はよろしくお願いします。私もご挨拶に伺いますのでまたその際に。……はい。失礼します」

電話を切って、ソファに横たわってクッションに埋もれれば緊張が一気に解けたように力が抜ける。
安心した、という一言に限るというか、なんだかんだで培ってきたものが真っさらになったわけではないのが何よりの救いだ。
現場からは離れてしまっているものの、思い切って連絡を取ってみてよかったと思う。

詳細メールを転送して、ノートパソコンを閉じて。スケジュール帳に丸をつける。
大きな案件ではないが少しは“足し”になると良い。
それすらも自己満足でしかないが、無いよりは幾らかマシだろう。

昼食は出前をとっていいと言われたし、お寿司でも頼もうかな。なんて浮き足立ちながらチラシを漁っていると、インターホンが鳴った。
平日の昼間の訪問客なんてだいたい絞れてしまうけど。一応確認しておくことに越したことはない。

「…………ん?」

玄関を映し出すモニターに目をやれば、見慣れた姿が仁王立ちしていたので二度見してしまう。
慌てて扉を開けば、私服を纏った巴が初めて話したときのようにどどんと待ち構えていた。

「こんにちは。鹿矢」
「……こんにちは。今日来るとか言ってた?」

記憶を巡らせてみるが巴から連絡を受けた記憶は無い。

「言ってないね?」
「おお……そうだよね……?」
「そんなもの今更きみとぼくの間に必要無いね!お見舞いに行ってた時だって、約束をしていたわけでもなかったね?」

そりゃあそうだけど。実家と病院とでは違う気がするのは私だけだろうか。
とりあえず中に入るよう促せば、巴は「お邪魔するね!」と上機嫌に靴を脱ぎ揃えて――庶民の家というのは彼にとってさぞ珍妙な風景なのだろう、案内した先のリビングを物珍しそうに見渡している。
自分の生活圏を背に立っている巴という光景は、なんだかコラージュ画像みたいだ。

「……ええと。とりあえずお茶でも飲む?」
「庶民のおもてなしも気になるところではあるけど、今日は遠慮しておくね。そういうのを目的に来たわけでもないから」
「あ、そうなの」
「デートのお誘い。まさか忘れたわけではないよね」
「……忘れるほど昔の話じゃないよ」

圧のような視線を受け止めて笑って返してやれば、巴は満足そうに笑う。
すると視線はチェストの上に飾られている十数年前の家族写真に向けられる。昔の姿とはいえ見られるのは若干恥ずかしい。

「……これは七五三?可愛いらしいね。そうだ、このまま鹿矢の部屋へ行ってアルバムを見せてもらったりして過ごすのもいいね?お家デートってやつだね!」
「それはイヤだ。恥ずかしいし」
「えー。鹿矢のケチ。まぁ……、今のは半分冗談だね。部屋だと気分転換にならないだろうし。というか連れ去るって宣言しちゃったから、外に行くのは決定事項だからね。どうしても嫌なら別案を考えるけど」

自分が世界の中心に居るっぽい巴にしては珍しく、私の意見を重視してくれるような発言だ。
なら、と私は間髪入れずに口を開く。

「海に行きたいな。波の音は聞こえても近ごろ行ってないし」
「……おや、随分と乗り気だね?」

質問を投げかけておいて返ってきた答えは予想外だったらしく、巴は意外そうに声を溢す。
私も私で案を出せばすぐにオーケーが出るものだと思っていたのは軽率だったけど――そういえば私は「恋人がいるから」とデートを保留にしたのだ。すんなりと行き先を告げられようものなら困惑もするだろう。
もしかしたら、必要のない地雷を踏み抜いてしまったかもしれない。

「ご、ごめん。今の忘れて」
「……ううん。鹿矢が乗り気なこと自体は嬉しいね。無理やり連れ去るよりずっと良いから」

そう言うわりにはどこか気に食わないような表情で、巴は私のそばへ寄ってくる。
彼を下から見上げると少し迫力がある。美人だから尚更なのだけど――その端麗な顔を歪ませて。

「鹿矢。もしかして、別れたの」

彼の中で帰結したらしい事実を、確認するように口にする。
空気を凍らせるみたいな声色で。怒気や苛立ちのようなものさえ含んで、私を貫く。
“誰と”というのは言わずもがなだ。私はつい先日まで『朔間零の女』だったのだから。

「……うん。別れたよ」
「……認めるんだね」
「隠す必要もなくなったから。……恋人って言っても私が活動しやすいようにフリをしてもらってただけの関係で、それを解消しただけだよ」

改めて口にすると本当に終わったんだなと思う。
ほとんど一緒に居られなかったのだから、お飾りでしかなかったが。
言葉で並べてみれば冷えきった関係に見えてしまうのは寂しい。

「ふぅん。鹿矢が大切にしていたから半信半疑だったけれど……フェイクだったんだね。まぁ、終わったことみたいだし?追及はしないでおくね」

巴は私を優しく撫でてはいるものの、不機嫌さを完全には拭いきれていないようだ。
フェイクの恋人と自分のデートが天秤にかけられたということも彼のプライドを傷つけてしまったのだろう。……やっぱり巴には悪いことをしたと思う。

せめて彼の気が済むまで大人しくしていようとされるがままでいると、私を撫でていた手はあっさり離れていく。
終わったのだろうか。と条件反射で顔を上げれば、巴は私の顔を覗き込むように目を合わせた。
急に与えられた視界いっぱいの巴に、思考が停止しそうだ。

「っ、な、なに」
「あはは。鹿矢ってば面白い顔!……うん、でも悪くはないね。きみがぼくだけを見ているのは最高に気持ちが良いね!」
「そりゃあそんな近くに居たら巴しか見えないよ!は、離れてよー。なんか恥ずかしいから」
「目を逸らして逃げてるつもりなの。いじらしいね」

押しのけようにも松葉杖で身体を支えるので精一杯だから、目を逸らしてなんとか視界から巴を無くそうと試みる。
そんな私の反応は彼の機嫌を良くする薬のようで、声色はすっかりいつも通りだ。
というか、巴は巴で至近距離に詰めても照れのひとつも無いのは腹立たしい。

「もー、おちょくらないで。早く行こう、連れて行ってくれるんでしょ。デート」
「そうだね。本当はもっと鹿矢で遊んでいたいけど。……支度をしておいで。ちょうどお昼時だしランチもしようね。ぼくが調べておいてあげる」

私で遊んでいたい、というのは聞かなかったことにしよう。

「ああ、ランチついでに鹿矢の服を見繕うのも良いね?ぼくがしたかった買い物デートも叶うし。うんうん、一石二鳥だね!」
「え。嬉しいけど、いいの?」
「遠慮する必要は無いね。むしろ断るほうがぼくに失礼だね?」
「そういうものなの」
「そういうものだよ」

せっかくのデートなんだから、エスコートくらいさせて欲しいね。と嬉しそうに微笑む巴の姿はなんだか可愛く思えて、頬が緩んでしまう。
今日の巴は不機嫌なんだかご機嫌なんだか不安定でよく分からないが、そもそもはデートに連れ出しにきてくれたのだから――彼の言う通り支度を済ませよう。時間は有限だ。

「準備は出来たみたいだね?行こう、鹿矢」
「うん」

この予感が間違っていないのなら。
今日は巴と過ごす、最後の一日だ。




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