#37
波打つ音で満たされた世界の端で二人きり。
浜辺のすぐそばのベンチで、海面へ落ちていく陽を眺めている。
ランチを済ませて店を出ればすっかり太陽の位置は低くなってしまっていた。
海に着いた頃には空は橙に染まり始めていて、青を侵食している。
楽しい時間はあっという間に過ぎていくものだ。
辛い時間と比にならないくらい、夢であるかのように去っていく。
「綺麗だね」
「ぼくはもっと綺麗な海を知っているけれど、これもこれで悪くはないね」
秋の海は夏に比べれば訪れている人も少ないし気温も相まって寂しく感じてしまうけれど、久しぶりに見る広大な風景は落ち着くというか。何もかもを包んでくれそうなほどに静かで気持ち良い。
「今日は楽しかった?」
「うん、楽しかったよ。ランチもすごく美味しかったし。このワンピースも、選んでくれてありがとね」
「気に入ってくれたのなら良かった。……着る度にぼくのことを思い出して、たくさん可愛がってあげてね」
「大切にするよ」
一応此処が“デート”に所望した場所ではあったのだが、時間が時間なので最終目的地のような形になってしまった。
巴は“締め”のように微笑むから心が苦しい。
少しの沈黙を挟んで。
夢の終わりを知らせるように僅かに風が吹く。
空を臨むのではなく私と視線を合わせて、橙色を纏った巴は言葉を紡ぐ。
「……鹿矢。ぼくに着いてきて」
波の音に消えないくらいはっきりとした声色で、それは私に注がれる。
今からどこへ行こうというわけでもない。
これはいつかの続きの話。逃避行への誘いだ。
「……巴は学院を辞めるの」
「そうなるね。ぼくはもう、あそこでは歌えないから」
巴はもう限界だったのだと思うし、天祥院は“あれ”呼ばわりしていたくらいだ。
少なくとも
五奇人を討伐し革命を終えた今、関係を保つ理由は無くなって――恐らく巴は『fine』から解放されたのだ。
再三彼を呼び出していた電話は今日一度も鳴っていない。
「『広報』として頑張っているのも、大切なものがあるのも知っているね。……けど。ぼくはきみと居たいから。一緒に来てほしい」
手を重ねて、巴は私の言葉を待っている。
無理に連れ去るわけでもない。私の意思で彼の手を取ることを望まれている。
この手を離したくない。
……ああ、一緒に居たい。どんな場所よりも真夏のように明るくて、輝いて、照らしてくれる巴と笑いあっていたい。
優しい夢を見続けることだけが私の望みなら、少しも迷うことはなかっただろう。
「ありがとう。でも、行けないよ」
断りの言葉を返しても彼の表情は変わらない。
この返答を初めから承知していたみたいだ。
「……あの場所は、きみを傷つけるものばかりだね。それでも残るって言うの」
「うん」
「どうして」
「戻りたい場所があるの。やり残しだってある。だから、一緒には行けない」
好ましく思ってくれる友人が居ても、未来の保証があるわけではない。
戻ったところでまた傷つくだけかもしれない。
だとしても。私は私の在り方を変えないと決めた。過去に貰った言葉に縋って、それを糧に生きていくと決めたんだ。
託されたものがある。
捨てることのできないやり残しがある。
居場所を象ったものはまだ見える場所にある。
手を伸ばし続けなければ容易に見失ってしまうような、辿り着けるかも分からないところだけど。……どうにか追いかける道は残されているから。
「……ごめん。私は学院に残るよ」
「……そう」
声はたぶん、震えている。
笑っているつもりなのに、たぶん、笑えていない。
アメジストのような薄紫色が揺れて綺麗だ。
蠢く感情を放り出して、その美しさに見惚れながら私は離したくない光景を脳に刻む。
――巴の手は名残惜しそうに離れていく。
強がりの笑顔を浮かべる彼は、海に落ちかけた夕陽に溶けてしまいそうだ。
ねぇ、鹿矢。と私だけを世界に灯した巴の瞳が近づいて。
「一緒に居ることができたのはほんの少しの時間だったけれど。……ぼくは鹿矢のこと、けっこう好きだったよ」
私に祝福を浴びせるみたいに。
在ること自体が奇跡のような言葉は、潮騒の音に紛れて沈んでいった。
***
笑って手を振っていつものようにさようなら。
道の先に消えてしまうまで車を見送って。後ろに続く見慣れた道を振り返る。
もうすぐそこは家なのに。帰る場所を無くしたみたいに、私はしゃがみ込むことも出来ずに立ち尽くしている。
足元に伸びる影が長い。
橙が濃くなっていく空もその向こうからやってくる常闇も望んだわけではない。
無抵抗に夜を受け入れることに、いつから慣れてしまったのだろう。
…………歩けない。
心臓がぐずぐずと泣いているようで心地が悪い。
背負わせるのがイヤだからと肩書きを返して、やり残しがあるからと優しい世界を拒絶した。
本当に、これで良かったのだろうか。
もしかして全部間違いだったんじゃないか。
私を貫くための選択は、大切なものが報われる道にちゃんと繋がっているのだろうか。
……そんなの確かめようもないのだけど。
誰かのためだとかそういうのじゃない。
私は私のために大切な人たちを身勝手に離して、傷つけた。
綺麗なものみたいに思うな。
正しい選択だなんて思うな。
愛と、勘違いをするな。
こんなに苦しくて残酷なもののはずがない。
悲しませたり傷つけるもののはずがない。
もっと尊くて、美しくて、救いであるべきだ。
私が貰った「愛」はそんなものばかりだった。
だからこんなものが「愛してる」だなんてあり得ない。
夜が来る。
ならば。星月夜を観続けよう。
たったひとつ、すべてを賭しても構わないと仰いだ青春の残滓を。それが燃え尽きかけた星の残骸だとしても、託された願いだけはきっと全うしてみせる。
足場は辛うじて残っている。
だから這いつくばってでも追いかけ続けよう。
朝が来て、眩しさで焼き尽くされるまで。
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