#09




巴の影に満たされて、拭いきれていない水滴が私の頬を伝っていく。
薄黄色の髪が私の顔にかかるくらいの、酸素の取り合いをするくらいの距離は心臓に悪いけれど、愛し合うみたいな“それっぽい”シチュエーションとは程遠い空気に思わず息を呑む。

彼の指は。私の首を締めるみたいに添えられている。



***



「……っと、今日のレッスンは大体そんな感じです。参考になります?」
「ありがとう、助かったよ。今日は“補助係”の役目を全然こなせなくてごめんね」
「いえいえ。元はと言えばおひいさんが大量に買い物したり、急に鹿矢さんの泊まりを取り付けたのが発端ですから。むしろこっちが謝るべきっつうか」

他所様に迷惑ばっかかけてすいません、と漣くんはため息を吐いてごろんとベッドに寝転がる。
ユニットを組んでいることもあって巴のあれそれには慣れているのだろう。後輩でもあるし苦労人気質だと思うけれど、人のよさが窺える。

藍色の髪に鋭い金色の瞳は巴と対照的ではあるものの、隣に並ぶとバランスが良いように思う。
『Eden』としてステージに立った彼はパフォーマンスや歌声も伸びやかだったし、人気があるのも頷ける。【サマーライブ】でのパフォーマンスも楽しみだ。


──『Trickstar』との合同レッスンを終えた『Eve』をホテルのエントランスで迎えて、部屋まで荷物持ちをして、『インターン』初日のレポートに協力してもらうべくそのまま彼らの部屋に滞在していたのだけれど。
全体を取り仕切っていた『Eve』のリーダーである巴は早々にシャワールームへ篭ってしまって、待ちぼうけを喰らってしまった。
そんな私を哀れに思ったらしい漣くんの厚意に甘えて、半日分の話を聞いていたのである。

報告書という名のレポートを打ち込んで保存、送信ボタンを押して。明日以降のスケジュールに目を通せば一旦は終了だ。
ノートパソコンを閉じて、背伸びをしていると漣くんと目が合って。

「今日の仕事、終わりですか?」
「うん、おかげさまで」

『Eve』の宿泊する部屋でキーボードを鳴らすとか、世の女の子たちが知ったらハンカチを噛んで羨ましがるんだろうなぁ。なんて、頭の片隅で思いながら私は缶コーヒーの残りを一気に喉へ流し込んでいく。

断続的にカフェインを摂取していたにもかかわらず、すべきことが終わったかと思えばがくんと眠気が襲ってくる。
加えて、遠くに聞こえるシャワー音が更に睡魔を刺激していく。あ、だめだ。これ、目を閉じたら寝てしまうやつだ。

「じゃあこれで今日はもう自由ですねぇ?……って、すげぇ眠そうですけど」
「あはは、……少し。そろそろ戻ろうかな」

私が居てもくつろげないだろうし。正直なところ、部屋に戻って爆睡したいだけではあるが。
漣くんも見ず知らずの先輩と二人きりなのも良い心地ではないだろうから妥当な判断だ。

巴があとで紅茶を淹れてほしいとか言ってた気もするけど今日は休ませてもらおう。一応、部屋に戻るねと彼の篭っている扉に向かって言っておくことにする。
ざあざあ、としきりにシャワールームを叩く水音に打ち消されてしまいそうだけど。



***



――そして。自分の部屋へ戻れば数秒も立たないうちに夢の世界へ旅立ったのだと思う。
化粧も落とさずにベッドへダイブしたのが恐らく数十分前。

「…………巴さん?」
「なぁに?鹿矢」

ふと、瞼を開くと。
なぜかそこには視界を覆い尽くす巴がいて。私の頭は混乱を通り越して恐ろしいほど冷静にせかせかと解析をし始める。

乾いていない髪の毛に、部屋着らしき装い。私に覆い被さるみたいな体勢になっている巴が風呂上がりであることは明らかだ。私が彼らの部屋を出て、そう時間は経っていないらしい。

いや、でもなに。なんで私の部屋に巴が居るの。念のためにとルームキーの予備を渡してはいた。漣くんに。けど、なんていうか。すぐに使われるとか思わないじゃない。なぁに、はこっちのセリフだよ。

視線で訴えれば巴は目を細めて美しく笑う。
首元に伸ばされた指は熱を帯びている。

「…………不用心な鹿矢。このままだときみは首を絞められて、助けがくる間も無く誰も知らないところで殺されてしまう。あの頃からなんにも変わっていないね」
「……そ、そんな。お姫様じゃないんだから、四六時中警護が付くわけないでしょ」
「うん。きみが望むはずもないしね?」
「望まないよ……なりたいわけでもないし」

急に覚醒したせいか、心臓の音がばくばく鳴っているのがよく聞こえる。
悪夢を見て飛び起きた直後みたいだ。そんなものを見る前に叩き起こされたようなものだが。

「ねぇ、鹿矢。きみは自分の置かれてる状況を分かっているの?」
「……分かってはいるつもりだよ」
「なら、抵抗するべきだって分かるはずだね。息が出来なくなる前に、逃げ出さないと」

彼の言う通り、無抵抗にぼうっと巴を見つめているだけではだめだ。現状維持が死を意味するというのは分かっている。
たとえ寝起きであったとしても自分の命が脅かされているのであれば死に物狂いで脱出を図るべきなのだ。生き続けたいのなら。

でも。巴の指が息を支配しているというのに、生命を握っているというのに、恐怖の一切を感じない。
大丈夫だなんてよく分からない確信がある。
巴はそういうのも含めて、逃げろって言っているんだろうけど。

「…………巴は、私を殺さないでしょ」
「……どうしてそう思うの」
「なんでだろう。髪、乾かして欲しそうだから……かな」

だってそのために来たんじゃないの、と半ば無理やり構築した『巴がここに居る理由』を口にして冷えきった髪に触れれば、巴は表情を歪ませる。
違うと反論しないあたり私は正解を叩き出したようだ。

「……ぼくは、きみが愛されてほしいとは思わないね。その中途半端な愛に応えようとして、傷ついて、擦り減ってしまうのが目に見えているから」
「……なんの話」
「愛の話。――ううん、“それっぽい”惰性だとか、理想の体現なのかもしれないけれど」

いずれ窒息しかねないね、と嫌味っぽく口を緩めて、巴は唇を私の首元に落とす。
…………頭の処理が追いつかない。思考の全部を吹き飛ばしてしまいたい気分だ。
でも、僅かに顔にかかる彼の髪の感覚が、肌に触れる唇のぬくもりが、現実らしいと告げている。

そんな――恋人まがいの突飛な行動に声を出すこともできず、せめてもの抵抗で肩を押せば、巴はゆっくりと顔を上げた。

「……ふふ。寝起きのそんな力で敵うと思っているの?」
「っ、巴!私で遊ばないで!……退いてくれないと、髪乾かさないから」
「えー。可愛い反応だけど、それは嫌だね?」

久しぶりに見えた天井の色はいつか見たそれを彷彿とさせる。
窓越しの、次第に小さくなっていく蝉の鳴き声に重なる巴の声は、違和感でたっぷりだ。




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