#15




ごうんごうん、と冷風を送る機械音だけが聞こえる空間は、賑やかなライブ会場とは正反対だ。

「……………………耳、噛まれた」

キャパオーバーになって目を逸らしていたものは、若干の美化を経てすとんと落ちてくる。
首に、頬に、耳に。落とされた感覚は忘れられるはずがなく。

ようやく落ち着いた脳内を掻き乱すみたいに再生される記憶は、他人事みたいだ。
自分に起きたとは考え難い、現実とはかけ離れたもの。
甘酸っぱい恋愛映画のようなものから愛憎渦巻く群像劇の一幕のような台詞回しの末に与えられた刺激の解釈は、頭が理解を拒んでいる。

「…………」

……普通に考えれば。異性として意識されている、のだと思う。
だって『友達』や『後輩』にするかって話だ。……でも私の周りは“普通”という型に嵌まらないひとたちばかりだから、親愛の証としてなんて可能性を捨てきれない。

なによりも調子に乗るなと警笛を鳴らしている。
かつて、巴の誘いを断って朔間先輩を突き放した張本人たる私が。どんな面を下げてそんな自惚れたことを言うんだ、って。

「………………あっつい」

そばにいたかった、でも離した。傷つけた。
感情がどうだったかなんて分からない。たとえ恋だったとしても、多分それだけじゃない。純粋なものなんかじゃない。
報いを受けるならまだしも救われるようなことはあるべきではない。

けれど、そう。
結局のところどんな理由も屁理屈で、言い訳だ。




***



「『インターン』お疲れ様、鹿矢。打ち上げしようよ」

来ちゃった、みたいな顔をしてやってきた凛月は約一週間ぶりに見るだけあってじんわりと胸にくる。
安心感というか、日常感というか。故郷に帰ってきたような感覚に近い。

「……衣更くんのこと構いに行かなくていいの?」
「ふふふ。ま〜くんのところにはもう行ったからねぇ。それに今日は『Trickstar』のレッスンがあるみたいだから。休養だろう鹿矢のところへ遊びに来たんだ」

お邪魔しま〜す、と軽い調子で靴を脱ぐ凛月に、思わず笑みが溢れてしまう。
泊まりになるからと連絡をした時にはめちゃくちゃテンションが低かった気もするから――安堵した、というのもある。あの時の凛月の声はひどかった、少なくとも友達へ向けるトーンではなかったと思う。

部屋に足を踏み入れて早々に視界へ飛び込んできたらしい、ばばんと開かれたキャリーバッグと連なる紙袋を見て凛月はうわ、と声を漏らした。

「すごい荷物。一週間分となるとさすがに大掛かりだねぇ」
「ねー。片付けるのも一苦労だよ。あ、アメニティ貰ってきたから今度泊まるとき使っていいよ」
「……じゃあさっそく洗面台に置いておこうかな。歯ブラシいただき〜」

揚々と私の歯ブラシの隣に立てかける様子はなんだか楽しそうなので、止めるのも憚られる。

――瀬名に言わせれば“危機感がない”らしいが、なにかが起きる気配もなし。
たまに布団に転がり込んでくる凛月にホールドされて遅刻しかけるとかいう“危機”は夏に入って激減したし。暑いからやめたのだろう、正直なやつめ。

こうして私はまた凛月にライフスペースを侵食されていく。
しれっとクローゼットに増えていた制服のシャツは着てしまってから気付いたくらいで――そう、かなりしれっと物を置いていくスキルを持っていたのである。この朔間凛月とかいう男は。衣更くんのところにもそうやって縄張りを作っているに違いない。
いやいや、それよりも。今日泊まる気満々じゃないですか。

「…………凛月は私の彼女なのかな?」
「彼女にしてくれるの?」

こてん、と首を傾げて――にこにこ笑う凛月を前にすれば、大抵の女の子は落ちるだろう。彼女というより彼氏にしたいだろうけど。

「ははは、残念ながら募集してません」
「え〜。なんかムカつくなぁ……?」

軽くいなしてやれば文句を垂れながら倒れかかってきたので、ベッドまで引き摺ってダイブする。冷房のおかげでひんやりとした布団は気持ちが良い。
ホテルの高級ベッドより硬いけど、やっぱり馴染んでいるほうが落ち着くものだ。

「隙あり」
「ぎゃ」
「冷房つけっぱなしだったでしょ。鹿矢、適度に冷えてて最高……♪」

邪魔、と首にかかっている髪の毛を流して、晒された肌に頬を寄せて、ひたひたとほんのり熱を持った手が冷気を求めて腕を這っていく。

「……凛月さん凛月さん、あっつい」
「俺は涼しくてちょうど良いぬくもりを堪能してるところなの。一週間も俺を放置したんだから大人しくしてて」
「……仕事だったのに」
「知ってる。だからこうして労ってあげてるの」
「労いでしたか」

あ。こっちはあったかい、と指を絡めていく凛月は超が付くほどご機嫌で――蛇のように私を締め上げている。
もはや懐かしさすら感じるそれに、彼はなぜか躍起になっているようだ。
口調の、本当に隅っこのほうだけだが、凛月特有の余裕成分が消え失せている気がする。

「…………」
「…………」

さらに続く無言タイム。
垂れ流されている全国的な常夏を伝えるニュースは勝手に耳に入っていくけれど、次第に子守唄のように聞こえてくる。

背後から与えられる温かさと心音っぽいものも良い感じに眠りを誘って――。
そういえば、昨日は遅くまで報告書を書いていたんだっけ。


「………………寂しかったんだけど」

北国も暑いらしい、何処も大変だなぁ、なんて悠長に思いながらテレビに視線をやれているうちであれば、きっと。
感情を凝縮した言葉も、続いた大きなため息も聞き逃さなかったのだろう。




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