#16




インターホンを鳴らしても出ない、ということは不在か寝ているか。
後者だろうことは想像に容易い。何せ、昨日まで家主である彼女は『インターン』で駆け回っていたのだから。

「(……どうするかなぁ)」

実は。紆余曲折あって、妻瀬のお母さんから合鍵を預かっている身で――勿論万が一の為だけにだけど――もう使ってしまおうか、と思考が揺れる。
このままだと暑さに負けてしまいそうだ。俺と、現在進行形で溶けているだろう手元のアイスが。

覚悟を決めて、鞄に手をかけたところでエントランスホールの奥から見慣れた顔がひとつ。
気怠げに欠伸をしながらもどこか涼しげな表情で歩いてくる様子にはため息も出ない。
ここ一週間、暑さと妻瀬不在のコンボで死んだように寝床から動かなかった奴と同一人物とは思えないんだけど。いっそのこと清々しい。

「お、セッちゃんいらっしゃ〜い。鹿矢ならぐっすり寝てるよ」
「あっそ」

どうして当たり前のように知ってるのかなぁ、なんて愚問なので――もういちいち問い詰めることはしないでおく。

「イチャついてるとこごめんねぇ、くまくん?」
「ちょっと。誤解を生むようなこと言わないでくれる?俺がイチャつくのはま〜くんだけ」
「はいはい。おまえらの好きそうなもの買ってきてやったからさぁ、適当に食べなよ」

コンビニの袋を押し付けて立ち去ろうと背を向ければ、くまくんの声が引き止める。
上がっていかないの、と意外そうな声色に返すのは肯定の言葉。本当は様子を見てやるつもりだったけど――寝てるみたいだし。後に予定を控えているし、留まる理由はない。

オートロックの扉は、帰りを促すように音を立てて閉じる。

「本当に帰っちゃうの?鹿矢、セッちゃんが来たって事実だけで喜ぶのに」
「うん。よろしく言っておいて。それに、今日会わなくたってどうせまた『Knights』のレッスンで会うんだからいいでしょ」
「まぁそうなんだけど。後悔しない?」
「しないよ」
「ならいいけど」

ポケットから鍵を取り出して慣れた手つきでロックを解除するくまくんは、何度か同じようなことをしているのだろう。
扉の向こうへ足を進めたくまくんの瞳は、普段よりも深い赤をしているように見えた。

「セッちゃんは心が広いなぁ」
「……くまくんが狭いだけじゃない?」
「ふふ。否定はしないでおく」

アイスありがとねぇ、とひらひらと手を振るくまくんがエレベーターに消えるのを見送って、エントランスを後にする。
手元の荷物が無くなっただけで暑さも多少和らぐものだ。

「(…………まぁ、気持ちは分からなくもないけどさぁ?)」

数日前の感情がぶり返してしまうのを避けるように、早足で道を進む。
滲む汗は気持ちが悪い。やっぱり、一瞬だけ涼ませてもらえばよかったかもしれない。



***




「瀬名くん。少し話をしよう」

待ち構えられていた、というのが正しいように思う。
薄い笑みを浮かべて俺の名前を呼ぶ男は、くまくんの兄で妻瀬の“恩人”。朔間零。

「……なに、あんたから話しかけてくるなんて。どうせくまくんか妻瀬絡みなんだろうけどさぁ」
「ご明察の通りじゃ。【サマーライブ】の件は聞いておるじゃろ」
「知ってる。“補助係”だっけ?直々に指名があったとかで……まぁ、妻瀬は『広報』の卵として名前は知れてるし無理もないけどぉ?」

暫くの間校内で見かけることの少なかったこいつは――妻瀬と『恋人』関係にあった男だ。
ある日突然生じた噂話。問い詰められても明言を避け、曖昧な反応を続けた結果“それ”は本当なんだと当時の大半は信じていたように思う。

男周りはしっかりしろと俺がしつこく言っていたからか――何度か、よく一緒に居た俺やれおくんとの噂が立った以外ではガードが固かったから。
初めこそあり得ない法螺話もあったもんだって鼻で笑っていたものが、フリとはいえ『本当』だったことには驚いたものだ。
以来、誰もが妻瀬に表立って絡むことは避けるようになったので、“そういう”効果のためだったのかもしれないけれど。

『瀬名には言っておくけど。フリをしてもらってるだけでね』

そんな事実はないんだよ、と申し訳なさそうに笑う妻瀬は今思えば痛々しい表情をしていた。罪悪感からくるものだったのだろう。

「うむ。実のところ、『広報準備室』の廃止を知った『インターン』先に揺さぶられておってのう。持ち直したようではあるが……瀬名くんには一応伝えておくべきかと思ったのじゃよ」
「……ふぅん。わざわざどうも。俺はあいつの保護者でもなんでもないし、お節介が過ぎる気もするけどねぇ」

だから正直、早く別れれば良いとすら思っていた。
『朔間零の女』というのは良くも悪くも諸刃の剣で、季節が流れるにつれて陰口を囁かれることも増えた。目立たないだけで、嫌がらせだって受けていた。
必要以上の肩書きは妻瀬を疲弊させていったのだと思う。……自分のことで手一杯だった俺が説教をできる立場ではないけれど。

暗に、妻瀬はもう朔間の『彼女』じゃないなんだから――なんて言い含んで視線を向ければ一瞬。ぎらりと赤が光って竦んでしまう。

「それでも、鹿矢は我輩の可愛い後輩であり友人じゃ。目を離せん程度には心配でのう。……形がどうあれ大切なのは変わっておらぬし、ゆえにこうして口を出しておる」
「……俺たちが目を光らせておけば良かったとでも言いたいわけ?べつに妻瀬は『Knights』のお姫さまじゃないんだけど」
「辛辣じゃのう」

朔間と妻瀬は秋の終わり頃に別れたらしい。
あいつが休学して少し経った頃、静かに流れ始めた噂だ。
誰が本人たちに確かめたわけでもないくせに真実味を帯びたそれは、ゆっくりと浸透していった。雪に紛れていくみたいに。
そして春が訪れると、呆気ないもので、まるで初めからなかったように綺麗さっぱり消え失せた。

理由がなんであれ二人が離れたのは事実。
今度は『同級生』として関係を築いているらしいが――明らかに“それだけ”じゃないことくらい、馬鹿でも分かる。『恋人』でなくても幾らか心を許しているのだろうし。
友人と同じ赤を灯す瞳の奥に見える感情は穏やかではない。そういうの、俺が気にすることじゃないけど。

「大切なものを前にすると『強がる』癖は未だ健在、おそらく無意識のうちに頼ることを悪と律しておるんじゃろう。……とくに瀬名くん、おぬしの前となると目も当てられぬほどじゃ」
「言われなくても知ってる。――でも。全部妻瀬が望んでしてることでしょ。強く見せたいのが望みなら、そう在り続ける限り口を出したりしないよ」

視線を合わせて、息を吸う。口を開く。
ああもう、こんなことを言うつもりなんて微塵も無かったのに。

「あんたが妻瀬の何を知ってるのかは知らないけどさぁ。他所から揺さぶられたところで、『Knights』が……俺が居る限り妻瀬は夢ノ咲から離れないから。あんまり馬鹿にしないでよねぇ?」
「……くくく。聞いておった通りの眩い絆と信頼じゃのう。これはこれで、思いの外妬けるものじゃ」

一拍置いて、話は終わりと言わんばかりに朔間は腕組みをやめて、緩い笑みのまま立ち去っていく。

「まぁ良い。これは忠告で、牽制じゃ。うかうかしておったら“余所者”に掻っ攫われてしまうやも知れぬぞ」



***



――本当に、本当に、腹が立つ。
俺はまた、あいつの足跡を見逃していて、気づくことができなかったんだ。
目を凝らしたつもりでも――癪だけど、朔間の言う通り俺の前では強がるから。何も言わないから。嫌な予感を感じていながらも、結局は踏み込むことすらしなかった。

全部、妻瀬が望んでしてる?強く見せたいのが望み?そうだよ、そういう“フリ”をし続ける限り、俺は口を出したりしない。
だってそうするしかないでしょ。近づいても拒絶されるなら、知る限りのあいつを信じることしか、俺にはできないんだから。


声が聞こえる。
誰かを呼ぶ声、呼ばれる声。聞き馴染みのない片方がよく知る名前を呼ぶ。
条件反射で振り返ってしまいそうなのを止めて、俺は逃げるように校舎を後にする。

「……はぁ、最悪」

点検か不具合だかで停止しているのだろうか――凪いでいるはずの噴水の水面は、僅かに揺らいでいた。




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