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 しとしと、しとしと。昨日から降り続く雨のせいで湿度が異様に高い。おかげでまだペアでストレッチをする準備運動の段階なのに既に薄らと汗が滲み出ていて少し煩わしい。開脚をしている越野の背を片手で押したまま仙道は額を拭った。雨は嫌いじゃないけれど、この肌に纏わりつくような湿気と蒸し暑さはどうにも苦手だった。
 ストレッチを一通り終え、越野がのっそりと立ち上がった。その動作と言い、立ち上がる際にあ゙ーっと絞り出した声といい。妙にジジくさい姿が面白くて、うっかり本人に口が滑りそうになったがすんでのところで口を噤んだ。

「さっきから思ってたんだけど、どうしたんだよ、それ」

 仙道の腕を指を指しながら言う。
 左腕のちょうど真ん中辺りに今朝から大きめの絆創膏を貼っているのだが、コレが自身の予想以上に周りの目を引いているようで、部活が始まる前にも植草に聞かれた。しかも仙道は今まで怪我らしい怪我を見せたことがないから、チームメイトとしても余計に気になるのだろう。

「ああ、これ?猫に噛まれちまった」
「は?猫?」
「頭撫でてたら噛まれたんだよ。にゃあにゃあ言いながら甘えてたんだけどなぁ」
「っはあああ〜〜」

 何してんだよ。

 そう言葉にする代わりにげんなりとした顔で特大のため息をついた。あ、さっき植草に話した時と全く同じ反応だわ。気づいたところで、でも噛まれたのは本当のことなのだからしょうがない。
 苦笑いを浮かべたそのタイミングで田岡監督により集合が掛けられ部員たちがわらわらと集まる中、例に漏れず仙道も越野も彼の元へと寄る。長身を誇る魚住に次いで背が高いからか、こういった集まりの場では立ち位置が自然と後ろの方へと定まりそこで清聴することが多かった。

「近々海南と練習試合があるからな、お前たちビシバシ行くぞ。今日はシュート練習をした後、ハーフコートを使って3対3で──」

 田岡が本日の練習の流れやメニュー内容を伝えているというのに、監督の隣にいるマネージャーのナマエの挙動ばかり見ていて話の内容なんて右の耳から左の耳へと通り抜けていた。
 この湿度が高く、空気の籠った体育館で上下ジャージ。実に暑そうである。しかもぴっちりと前側のファスナーを上まで閉めていて見ているだけでも暑苦しい。実際ナマエはこの場にいる部員の中で最も大粒の汗を澄ました顔に浮かべていた。
 周囲を盗み見れば、こんなクソ暑いのになんで上下ジャージなんだと皆一様に好奇の視線を向けている好奇心旺盛な人間が多数いた。

「なんでミョウジの奴ジャージなんだ?」
「練習用のシャツじゃなくて、間違えて子供向けのキャラクターがでっかく印刷されたシャツ持ってきたから恥ずかしくて上にジャージ着てるんだってよ」

 田岡のデカい声量に紛れ込むようにして訝しげに小さな声で尋ねてきた越野に、これまた小さな声で仙道は答えた。「ぶはっ!」監督が話していると言うのにくっちゃべってました、なんて事がバレればそれこそ地獄を見るからこうしてひそひそと話しているというのに。なのに越野が急に、それも結構な大きい音を立てて吹き出したもんだから背中をヒヤリとした物が通り抜けていった。幸い、後ろにいたことでバレてはいないようだ。

「へー、こんなクソ暑いのに大変だな……」

 同情したような、それでもやっぱり笑いを隠せていない越野の言葉を聞きながら、まあ半分嘘なんだけどな、と仙道は思う。確かに半袖を忘れたのは本当だ。けれどしっかり者のナマエに限って、間違えてキャラ物のシャツを持ってきたところでロッカーの中に予備が何枚かあるに違いない。
 じっとナマエを見つめる。相変わらず澄ました顔で田岡監督の隣に立っているが蒸し暑さからか、いつもは陶器のように白く艶のある頬が赤く、リンゴみたいに色付いている。
 その赤い顔が昨日あった出来事を思い起こさせ、仙道の口元は少し緩んだ。
 昨日は随分と楽しかった。久しぶりに彼女であるナマエがウチに泊まりに来たのだから、嬉々とした余韻や名残がまだ体の内に残っている。
 一緒に勉強をして一緒にご飯を食べて、一緒に湯船に浸かって、それから──普段出来ない恋人らしいことをここぞとばかりに楽しんだ。付き合い始めた当初、付き合ってるのがバレて仙道に迷惑をかけたくないから、とナマエに頼み込まれ現在に至るまで誰にも知られないようにこっそりと交際を続けてきた。我ながらよく耐えているものだと感心する。正直早いとこ大っぴらにして、ミョウジナマエはオレの彼女でオレのもんなんだぜとあちこちに言いふらしたいし自慢したい気持ちはいっぱいある。それ故に別に隠さなくてもいいのでは?とナマエに言ったこともある。けれど、高校の内はマネージャーとしてバスケ部と彰くんを支えたいから公私混同はしたくないと、そう惚れた相手に言われてしまえばぐうの音も出なかった。土日も大概部活で埋まっているからなかなかデートをすることも叶わない。たまに本当に出かけたいと言う時以外は、人の目を気にしないで仙道のアパートでゆったりと過ごすのが習慣のようになりつつあった。
 本当にナマエはしっかり者で真面目だ。真面目を通り越して堅物と言っても過言じゃないかもしれない。だからこそ2人きりの時にそっと指を絡ませてきたり、ひっそりとくっついてきたりと控えめな甘え方が本当に可愛くてしょうがない。もっとどーんと甘えてきてもいいのにと思わなくもないが、ナマエにだってナマエのペースがあるはず。それに普段、生真面目優等生だからきっと甘え方をよく知らないなりに一生懸命しているんだろうなぁ、と勘ぐるだけでも頬が緩んでニヤけてしまう。

 ナマエが少しでも暑さを紛らわすためにジャージの襟に指を引っ掛けて引っ張っては、パタパタと風を送っている。そんなことするくらいなら前だけでも開ければいいのに。きっと、さっきナマエに対して何故ジャージを着ているのか疑問に思った好奇心旺盛なヤツらは次はそう思ったことだろう。代弁するように越野が口を開いた。

「つーか思ったけど、シャツ見せたくないだけだってんなら、何も襟の所まで閉めなくてもいいだろ」
「それをオレに言われてもなぁ……」

 苦笑いを浮かべ、最もらしい事を言えば「まぁ確かにな」と納得した様子を見せた。
 そこまでして頑なにジャージを脱ごうとしない理由を知っている身としては、優越感にも近いしい満ち満ちた気持ちを味わっていた。この場にいる、オレ以外誰も知らない秘密。
 昨日は本当に楽しかった。
 布団の上にあの細い体を優しく組み敷いて、その肉体を余すところなく五感でたっぷりと楽しんだ。
 スベスベとしていてずっと触りたく成程に触り心地の良い肌を、柔らかくそれでいてむっちりとした胸を、いつも恋愛なんて興味無いですよみたいな澄ました顔をしてるのに、この時だけ見せる蕩けきった表情、己を欲しいと舌っ足らずに強請る艶を帯びた声、雄を誘惑する雌の甘い匂い、狂おしいほどの熱──。

 久しぶりに触れたナマエの体は、あまりにも刺激が強かった。触れ合った箇所は体の芯が融解したように気持ちいいし、なにより愛おしい存在が腕の中にいると言う事実がどうしようもなく嬉しくて仕方がなかった。どんどんと泥濘に沈んでいく感覚を覚えた。このままもっと、本能のままナマエの体にむしゃぶりつきたい気持ちもあったのもまた事実だった。
 どうにか耐えながら、それでも優しく、優しく。宝物に触る時みたいな触れ合いを続けていた。仙道にとってナマエは何にも代え難い宝物だから丁寧に扱って当然の事だ。獣の姿をした猛々しい性欲と人らしい理性がずっと仙道の中でせめぎ合っている。

 けれどその気遣いはナマエにとっては無用のものだったらしく、心底惚れている女にもっと欲しいと善がられれば抑えが効かなくなるのが男の性。
 甘えベタなナマエが目を潤ませ、視線だけでなくちゃんと言葉にして訴えている。十分すぎるほどの破壊力だ。
 抑えていたのは自分だけでは無いと知り、ナマエを大切にしなければという義務感にも似た理性はとどこかにすっ飛んで行ってしまった。もう後ははひたすらに時間を忘れてまぐわった
 あの厚手のジャージの下に、その理性がすっ飛んで行った結果が山ほどあると考えただけでもゾクゾクする。それを一生懸命に隠そうとしているところも可愛い、頬が緩む、デレデレしてしまう。本人にそれを伝えたところで可愛くないなんて直ぐに否定するけど、その度にそんな事ないのにと仙道は思う。アレはちょっとやり過ぎたかなと反省はしているが後悔は全くもってしていないし、どこか清々しさすら感じる。いつもなら熱が冷めた頃に自分自身の体を見たナマエが「やり過ぎ」だの「加減して」だの一言何かある筈なのに、何も無く、どころか土下座をしそうな勢いで「ごめんなさい」と謝られた。
 欲に突き動かされたまま仙道を欲した事と、最後の方で、丁度ナマエの頭を撫でている手とは反対の腕に歯を立ててしまったことに対してかなり気にしているようだった。くっきりと言い逃れが出来ないくらいに残された歯型。ナマエはコレを、無意識とは言え大事な彼氏であり選手の体を傷つけてしまったといたく後悔しているようだが仙道はこれっぽっちも気にしてはいない。寧ろ所有印を付けられたようで心地よい。
 すり、と腕に貼り付けられた絆創膏を指先でなぞってみる。それにしても咄嗟に思いついたとはいえ、なかなかに悪くないのではなかろうか。越野や植草に要らぬ心配をかけてしまったけれど、言い訳もまあ上手くできたと思う。普段はツンと澄ましているけれど、2人きりになった際のあの甘え方。猫と言わずしてなんと言おうか、だから嘘は言ってない。

 あ、ナマエと目が合った。可愛い顔が一瞬にして顰め面になり、鋭い視線が向けられる。ちゃんと先生の話を聞け。目は口ほどに物を言うと言うがこれほど分かりやすいのはきっとオレたち付き合ってて仲睦まじい関係だからだよなぁそうだよなぁ。でも今先生が話してるの海南の監督への対抗心むき出しの独り言だからあんまり聞いても意味がないと思う。

「よーし、練習始めるぞー!」

 田岡の声に負けず声を張り上げ部員たちが返事をする。集団が蜘蛛の子を散らすようバラけていく最中、ニッコリとナマエに微笑みかければ勢い良く顔を逸らして移動してしまった。

「手ぇ抜くなよ仙道」
「おう」

 越野の問いかけに声を返す。
 ナマエの髪の毛の隙間から僅かに見える耳と頬が更に赤味を増していたことを、仙道は見逃さなかった。