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意味なんてない。
食堂で偶然会った時に、「待ってたよ」なんて微笑むことも、ミスをして落ち込んでる時に、私の好きなココアを差し出して話を聞いてくれることも、総務の誰に渡してもいい書類を、わざわざ私のところに持ってくることも、彼にとって深い意味なんてないのだ。
それに彼は会社の人間に手を出さない。女性側から手を出されることはあっても。
"社内の人間に手を出すと後々面倒だからね" という言葉が頭の中で蘇る。
あの夏油傑に特別な感情などもってはいけない。
♢
「お疲れ様〜」
「お疲れ様です」
すれ違う従業員と挨拶を交わす。退勤時間というのもあり、みんなどこか解放されたような顔つきだ。
私はというと、こんな定時ギリギリにも関わらず、総務で使わなくなった備品を運ぶ雑用をこなしていた。
決して軽いわけではないダンボールを一箱抱えて、早足で四階にある倉庫へ向かう。とっとと済ませて帰りたい。
ため息をつきながら廊下の角を曲がった時、誰かが先にエレベーターを待っていた。
会社でも群を抜くほど長身。薄めの黒いファイルを小脇に抱えながら、片手でスマホを操作しているのは紛れもなく夏油さんだ。立ち止まった私に気づくとスマホをポケットにしまい、「お疲れ様」と声をかけてくれる。
「お疲れ様です」
「大丈夫?」
身長の高い彼には、色んな備品が入っているダンボールの中身が丸見えだろう。心配そうに夏油さんが首を傾げたので私はダンボールを抱え直し、おどけながら冗談混じりに答えた。
「少しだけ重いです」
「そう。なら貸して」
えっ、と私が短く声を出したと同時に、夏油さんはダンボールを私の手から掻っ攫う。持って欲しくて重いと言ったわけではない。あまりにも行動がスムーズだったので、「いや、あの持てるんで!」と敬語も忘れ、取り返そうと手を伸ばした。しかし、サッと華麗に躱されてしまい、その間にチーンとエレベーターが到着。私を無視して颯爽と乗り込む夏油さんを慌てて追いかけた。
「備品だから四階かな?」
「いやあの、本当にいいですよ。夏油さんも退勤時間ですよね?」
「隣で女性が重いもの持ってるのに、無視は出来ないよ」
ほら、四階押して?と催促されたので、私は渋々階数のボタンを押した。彼の好意を断りつつも、少しでも話したいという心が芽生えていることに気づいてはダメだ。
「あ、そうだ。昨日、シュレッダーの機械が届いたんだ。みんな助かってたよ」
「それは良かったです」
「急いで手配してくれたの君なんだって?総務の課長が言ってたよ。ありがとう」
「いえ。むしろすみません、遅くなって」
この前、総務の課長に営業課のシュレッダーの件を聞いたら、「ん〜?あ!忘れてた。うっかり!」なんて語尾に星マークでもつきそうな軽い返答をされた。課長はこんな風にテキトーな所がたまにある。
先輩が「課長、これ数字違いますよー」と指摘するのなんて日常茶飯事だ。
「なんか注文方法が変わったらしいんだけど、分からないなぁ。◇ちゃ〜ん助けて〜」と課長は青い顔をして、やや薄くなってきてる頭を抱えていたので、私は手配の手助けをした。
しっかりして下さい…と思いつつ、「ありがとうねぇ。若い子は飲み込みが早いねぇ」とポワポワした笑顔を向けられ、呆れながらも許してしまう私もダメなんだろうけど。
「課長はたまに抜けてるところがあって。まぁ、慣れてるし、もう良いんですけどね」
「ははっ。総務の課長優しいよね」
「確かに、怒ってるところ見たことないかもです」
「だよね。前に営業一課にいた課長より全然良いよ」
「あぁそういえば、私が入った少し後に今の課長になったんですよね」
「覚えてるんだ」
遠い記憶を引っ張り出し、夏油さんを見上げれば、思いのほか目を丸くしていた。「なんとなくですけど…」と戸惑いがちに答えると夏油さんは、「そっか」と微笑み、前に向き直った。私もぎこちなく顔を正面に戻し、エレベーターの階数が表示されているパネルを意味もなく見つめた。
「あれ?」
四階にある倉庫化した部屋に夏油さんと共に侵入する。壁につけられた電気のスイッチを押したが、一向に明るくなる気配がない。もう一度試しにパチパチっといじってみたが、結果は同じだった。
夏油さんは荷物を抱えたまま「あー、きれてるみたいだね」と残念そうに呟く。
部屋の中は薄暗く、物品が割と無造作に置いてあるので、明かりがない中で歩き回るのは危ない。私はグレーのカーディガンのポケットからスマホを取り出して懐中電灯代わりにした。無いよりはマシだろう。
「これは奥に置いた方がいい?」
「あ〜そうですね」
「ん。了解」
そういえばここに前、夏油さんが女性社員と密会をしていたな。本人は連れ込まれたって言ってたけど。
ここはほとんど誰も来ないし、部屋の奥は入り口から死角になる。秘密のやり取りをするにはちょうど良いのかもしれない。夏油さんはあれからもここで誰かと会ってるのだろうか?そんなことを考えていると自然と気分が落ち込んでくる。
「◇さん?」
「あ、はいっ?」
「どうしたの、ボーッとして。これは棚に置く?それともテーブルの上?」
夏油さんが部屋の奥でダンボールを持ちながら右往左往してたので、慌てて近くまで行き、彼の背後にある棚を指さした。夏油さんはそこへダンボールを置き終わるとパンパンと軽く手を払う。
「ありがとうございました」
「ん。どういたしまして」
二人で棚同士の間を通り抜けようとしたその時だった。
ガチャと扉が開く音がする。先導していた私は驚いてつい足を止めてしまい、それにならって夏油さんも背後で立ち止まった。
「えー、ここで?」
「鍵閉めれば誰も入ってこれないよ」
なんて男女の会話が耳に聞こえてくる。その言葉通り、カチャンと鍵が閉まる音。ここから入ってきた人物の姿は見えない。おそらく向こうからも私たちの姿は確認出来ないだろう。
なんだか嫌な予感がする。会話も仕事のことじゃない気がするし、こんな埃っぽい所に男と女がやって来てわざわざ鍵閉めるなんて……と動揺して一歩後ずさった瞬間だった。
「っ!」
私は驚きでバッと振り向く。背後にいた夏油さんが、私が持っていたスマホの背面を覆うように手でカバーしたからだ。大きな手の平によって足元を照らしていた明かりがなくなり、本来の薄暗さに戻る。
後ろから伸ばされた手と自分の背中に感じる夏油さんのわずかな体温に、心臓が音を立てた。しかし、そんな私などお構いなしに夏油さんは口元に人さし指を添えて、しっ、とジェスチャーをした。この距離だったら部屋が薄暗くても相手がどんな顔でどんな仕草をしているかくらいは分かる。
振り返りながら小さく何度もうなずき、さらに私はスマホの明かり機能をオフにした。夏油さんはそれを見届けたあと、私の背中に手を添えて慎重に部屋の奥へ引っ込む。
部屋の奥に置かれた長テーブルと棚の間へ夏油さんが目配せをした。そこは人が二人くらい入れるスペースがあり、察した私はそこへ体を移動させた。
「ふふ、こんなこと会社でしていいんですか」
「君から誘ってきたんだろう?」
この声は……確定ではないが、おそらく受付嬢の…なんとかさん(名前なんだっけ?)と営業二課の主任だ。
夏油さんが所属してるのは営業一課だけど、同じ営業の人間がこんなところで密会なんて複雑な気分だろう。しかも営業二課の主任の左薬指には指輪があったはず。
思わぬ所で思わぬ人物の不倫現場を目撃し、私はスマホを落としそうになるくらい激しく動揺した。
夏油さんもさぞ驚いていることだろう。気持ちを共有しようと見上げれば、私と目があった彼は困ったように小さく笑っていた。呆れも含まれた表情で。想像よりも小さなリアクションに私はさらに戸惑う。
「んっ……」
熱を帯びた吐息や服が擦れる音が静かな部屋に響いてきた。おそらく二人はキスをしてる。
え?待ってここで、その先の行為をここでしたりしないよね?
人のそんなプライベートな行為、見たくも聞きたくもない。あー私のバカ。なんで二人が入ってきた時点でさっさと部屋から出なかったんだ。あの時なら彼らもまだ言い訳が出来たはず。
自らの行動を振り返るがもうあとの祭り。今やここは完全に不倫現場だ。
早くここから出たい。でも今出て行ったら、確実に二人と鉢合わせしてしまう。それは避けたい。全力で。
だけど、夏油さんはこんな状況気にしてないのか、スマホを取り出し呑気に操作してる。メールチェックでもしてる?
ぼんやりとした淡い光が彼の整った顔を映し出し、それに少しだけ見惚れてしまった。
この状況で動じないなんて流石だ…と感心と少しだけ呆れが混じった感情で夏油さんを見上げる。あぁでも、この人も私がここで見つけた時、全然動じてなかったなとも。
はぁ〜と小さくため息をついて俯いていれば、なにかが私の顔に触れた。さわさわしたので軽く身じろぎをした。何事かと顔を上げると、スマホの操作をやめた夏油さんが、私の耳に口元を寄せていた。くすぐったいのは、彼の少し特徴的な前髪が私の頬に触れていたから。
「大丈夫?」
先ほどのエレベーターの前でかけた声と同じトーンで夏油さんは小さく囁いた。これは本当に心配してくれている声色だ。からかっているわけではない。
本音はこんなところ早く抜け出したい。でもこの状況で無理なことは分かるから、曖昧にあはは……と静かに笑って項垂れた。その間にも受付嬢の熱を帯びた吐息が聞こえてくる。
あーやだやだと思いながらギュッと目を閉じたその時だ。
「え、」
夏油さんの大きな手が私の両耳を塞いだ。外の音が遮断されて、夏油さんの手のひらと私の耳が擦れ合う音。自分の呼吸音。それらが鮮明に鼓膜を揺さぶる。私の耳を包み込む柔らかな手つきに思考が停止した。
彼の突然の行動に目を見開いていれば、再び夏油さんは私に近づき、耳元で小さく囁いた。
「もう少しだから我慢してて」
優しい声とうっすらと微笑む姿。その瞬間だけ、私は不倫現場にいることなど忘れてしまった。
夏油さんがそう呟いた数秒後の事だ。ガタンっ!と耳を塞いでても聞こえるくらいの大きな音がして、私は肩を揺らす。そっと夏油さんは手を外し、二人がいるであろう方向を見ていた。
「びっくりしたぁ。電話?」
「部下からだ。はぁ〜行かないとな」
キィィと扉が開く音と受付嬢の不満げな声、ヒールと音が徐々に私たちから遠ざかっていくのがわかる。
「……行ったみたいですね」
「だね」
私はホッと胸を撫で下ろすと同時に疲れが押し寄せてくる。まるでスパイにでもなった気分だった。とにかく、この光景は胸にしまっておこう。さわらぬ神になんとやらだ。
「行こうか」
夏油さんがスマホのライトを私の足元に照らしながら私に手招きをした。彼が何も言わなかったので、私も無言であとを追った。
廊下を歩き、エレベーターを待っていたところで隣に立つ夏油さんがようやく口を開く。
「ごめんね」
突然の謝罪が何に対してなのかわからず、私の返事が遅れる。横から見上げた夏油さんとは視線が合わない。見かねた夏油さんが「あー…」と口にした。
「その、突然触ったりして。君があまりに血の気の引いた顔してたから聞かせないようにって思ってつい」
こめかめみをばつが悪そうに掻く。それを聞いて、私はさらに面食らってしまった。夏油さんから触れられたことに不快な感情などなかったからだ。
「いえ、謝ることのほどでは、全然」
「ほら前にあの部屋でその……君をからかった時怖がらせただろ?不用意に触ったりしてまた君を怖がらせたんじゃないかと」
ごにょごにょと言いづらそうに言葉を並べる夏油さんを見て私はうろたえた。そんなことを考えていたんだ。
あの時は夏油さんのことを何も知らなかったし、突然近づかれて怖かったのは確かだ。でも今は違う。むしろさっきの行動は私にとって救いだったのだから、私は彼に感謝すれど謝ってもらう理由なんてない。
「いえ、むしろ聞きたくなかったので助かりました。ありがとうございます」
それを聞いた夏油さんが心底ホッとした笑みを浮かべたので、私は慌てて視線を下へ向けた。そんな素みたいな笑顔を見せないでほしいと思った矢先、彼のスマホが音を奏でる。電話の相手を確認した夏油さんは納得した顔つきになり、画面をタップした。
「もしもし。灰原、さっきはありがとう。助かった。今度お礼するよ。え?コーラでいいの?」
どうやら電話の相手は、数ヶ月前に入社し、営業二課に配属された灰原くんだった。小学生がそのまま大人になったみたいな、元気いっぱいの顔を思い浮かべる。
彼が入社した頃は、書類のやり取りで何度か話した。歳が近いせいか彼はよく私に書類の書き方や分からない箇所を聞いてくれた。部署は違えど可愛い後輩。
灰原くんとのやりとりを横から聞きながら、夏油さんに触れられた自身の耳たぶにそっと触れた。まだ熱をもってる気がして。
「灰原からだった。知ってる?営業二課にいる」
「はい。あの元気な子ですよね」
「ふふっ。そうそう、元気な子。灰原にさっきの部長に適当な理由つけて電話して欲しいって頼んだんださっき」
「だからさっきスマホを」
夏油さんが暗がりでスマホ操作してたのは灰原くんに連絡をとる為だったんだ。あの状況でそんな発想出来るなんてすごい。私が素直に感動の眼差しを向けると彼は薄く笑い、
「君がいたからね。早くなんとかしてあげたくて」
と言った。
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2026/05/10