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「あ、◇さーん!」
コピー機の前で一定のリズムで出力される用紙を眺めていれば誰かに呼ばれた。
五連勤の疲れが溜まった金曜日の午後四時半に発せられたとは思えないくらい、活発なトーン。
総務課のオフィスに入ってきたのは、営業二課に所属する灰原くんだった。
「お疲れ様〜」
「お疲れ様ですっ。訂正した書類、持ってきました!」
私の疲れ切ったオーラを吹き飛ばす勢いで、お願いします!と丁寧に彼は頭を下げながら、数日前に頼んでいた書類をパッと差し出す。
ありがとう〜と彼から受け取ると同時に、パソコンと睨めっこしてるのか嫌になった先輩がキャスター付きの椅子に乗ったまま、軽やかに私の隣にやってきた。
「灰原くんお疲れ様〜。相変わらず元気だねぇ」
「お疲れ様です!元気だけが取り柄なんで!」
「若さってまぶしっ」
先輩は大袈裟に片手で目を覆う。確かに先輩の言う通り、灰原くんは時折、太陽みたいな笑顔を無自覚にぶつけてくる。彼自身が発光してるんじゃないかと思うほど。
「本当眩しいですよね〜」
「あたしからしたら、◯も充分眩しいけどね」
「いや、先輩。年寄り発言してますけど、私と三つしか変わらないじゃないですか」
三つも!だよ〜と嘆く先輩が私の腰に巻きついてきたので、とりあえず頭を撫でておいた。そのやりとりを見ていた灰原くんが「あ!」と思いついたように手を叩く。
「今日、夜の七時から飲み会あるんですけど、お二人来ます?」
「飲み会?」
「営業部での飲み会だったんですけど、来れない人が何人かいるんで、他の部署にも声かけてるんですよぉ〜」
話を聞けば、どうやら灰原くんは幹事の一人らしく、他にも来れる人がいたら声をかけてともう一人の幹事に言われているらしい。先輩と顔を見合わせて、「どうします?」と逡巡していると、またも視界の端で誰かが総務課のオフィスに入ってくるのが見えた。
入り口付近で仕事をしていた女子社員が、「はぁっ…!」と一瞬にして浮き足たっている。
「灰原、ここにいたのか」
「あ、夏油さん。お疲れ様ですっ」
灰原くんの背後からぬぅっと現れたのは夏油さんだった。灰原くんも背が高いはずなのに、それを追い越すのだから夏油さんはどこに行っても目立つなと思う。涼しげな瞳とパチっと視線が合ったので、「お疲れ様です」と一言呟き、私は再びコピー機へ意識を向けた。
彼の登場によって、少しだけ上昇した体温を冷ますために。
「イケメンが二人にっ!」
先輩は大袈裟に両手を顔の前に持ってきて眩しそうなジェスチャーをする。それを聞いた灰原くんは「僕たちイケメンですってっ」と嬉しそうに夏油さんに話しかけた後、私と先輩を交互に見て、
「お二人も可愛いですよ!」
と真っ直ぐな瞳で褒めてくれた。気を遣ってくれたのか分からないが、キラキラとした後輩の眼差しに、私たちは案の定胸を射抜かれる。先輩は「なんていい子なの!」と最早涙を流す勢い。
かくいう私も、可愛いなんて大人になってから言われ慣れないせいか、純粋に嬉しさが込み上げ、顔が綻んだ。
「灰原くん褒めても何もでないよ〜」
「え〜、ないんですか!」
恥ずかしさを隠すために私は軽口を叩く。コピー機から書類を取り出す私を、おどけた様子の灰原くんは、首を傾げながら覗き込んできた。その子どもみたいな様子がまた可愛らしい。
ふふっと灰原くんにつられていれば、別の視線を感じる。夏油さんだ。
口元を少しばかり曲げて不満げな表情。お喋りはそのくらいにして仕事しろって事かな。確かに私たち話しすぎてるかも、と内心焦りながら書類を握りしめる。
私と目が合うと、夏油さんはあの営業スマイルを貼り付けて静かに言った。
「……知らなかったな。◇さんと灰原、結構仲良いんだね」
結構、の言い方がやけに強調されてる気がしたが、私の勘違いだろうと深くは考えない。
側から見たら、私と灰原くんは仲が良く見えるのだろうか?でもそれは灰原くんのコミュ力のお陰だと思うけど。
そんな夏油さんの疑問にお答えしたのは先輩だった。にんまりと得意げに。
「夏油さんその理由知りたいですか?灰原くんが入ったのって……四ヶ月くらい前だっけ?」
「そーです!」
「初めの頃は、総務に提出される灰原くんの書類の不備だらけで。それをうちの◯ちゃんが一つずつ丁寧に教えてあげたんですよ」
「歳が一番近かったんで、◇さんが一番聞きやすくて」
えへへ、その節はお世話になりました!と改めてお礼を言われたが、私は仕事をしただけだし、素直に色んなことを聞いてくれる灰原くんの人柄もあり、余計に世話を焼きたくなった。それに、私も入社したての頃は、先輩にお世話になったものだ。
どういたしましてと微笑めば、灰原くんははにかみながら頬をかく。
「じゃあ、私も今度から◇さんに分からない所があったら聞こうかな」
そう灰原くんとの会話に割って入ってきた夏油さんはにこやかな笑みを浮かべていた。
その発言に私は戸惑いの表情を返す。頼ってくれるのは嬉しいけど、夏油さんが私に何か聞くことなんてあるのかな?
むしろこの前なんか、「あれ?この書類の様式、確か変更になったよね?」と営業課の夏油さんから指摘を受けたばかりなのに。
「夏油さん、あたしにも聞いてくださいよぉ。イケメンと話した〜い」
「あはは。じゃあヨシダさんにも遠慮なく頼りますね」
ぶぅーとふざけて口を尖らせてた先輩は、夏油さんの一言で、語尾に音符でもつきそうなくらいコロリと機嫌が早変わり。てか先輩、確か彼氏いたよね?夏油さんも口がうまいんだから…と半ば呆れて、コピー用紙を補充する。
すると、隣にいた灰原くんが時計をチラリと見て、少し焦った様子で「あ、ヤバいっ」と呟いた。
「僕、戻りますね!あと、お二人飲み会どうしますか?来てくれると僕は嬉しいですけど」
あまりにも灰原くんがワクワクした様子で聞いてくるものだから、先輩は「灰原くんにそこまで言われた行くよ〜」と楽しそうに返事をした。なら私も……と小さく手を挙げれば、灰原くんは嬉しそうに「お二人追加しときます!」と敬礼のポーズをとった。
「夏油さんは行くんですか〜?夏油さん来たら女の子もいっぱい来そう」
気になっていたことを、先輩がサラリと聞いてくれる。内心、先輩ナイス!と褒め称えていれば、夏油さんは顎に手を添えて煮え切らない返事をした。
「んー、行かないつもりだっんですけど、ヨシダさんと、」
中途半端に夏油さんが言葉を止めて私を見る。
「◇さんが行くなら行こうかな」
ニッコリとわざとらしく微笑んだ彼。「え〜嬉しい〜」とふざけた調子で言葉を返した先輩とは反対に、私はすぐに返事が出来なかった。こんなのは冗談だ、会話の流れだと分かっているのに、彼の言葉いちいち一喜してしまう。
これは夏油さんにとって普通なのだ。こんなことで感情が動かされてたら身がもたない。
灰原くんは「誘ってよかった〜。大勢の方が楽しいですから」と嬉しそうに横を向く。そんな後輩に対して夏油さんは「そうだね」と微笑んでいた。
♢
「夏油さんと飲めるなんて嬉しいです〜」
「なに飲みますぅ?夏油さん」
「隣、いいですかぁ?」
午後七時半。灰原くんに誘われた飲み会に来てみれば結構な人数の社員がいた。広報課や受付嬢までいる。どこまで声をかけたんだろう。しかし、女性社員の多くの目当ては一人の男性社員だ。
その証拠に夏油さんの周りだけ女性社員が群がり大変なことになっている。六人がけのテーブルは完全に定員オーバーだ。
その光景を違うテーブルからレモンサワーを片手に私は眺めていた。夏油さんは相変わらず営業スマイルを浮かべて、女性社員を無意識にトリコにしている。
「やっぱり人気だねぇ、夏油さん」
私の向かい側に座る先輩もポテトを口に放り込みながら、面白そうに彼女らを見ていた。
お酒の席であるのをいいことに、夏油さんを囲む女性たちはいつも以上に積極的。さりげなく、彼の逞しい腕に恋人みたいに手を絡ませる子いれば、太ももに手を添える人もいる。女性に慣れている彼にそんな技聞くのかな?と冷ややかな感情が胸に渦巻いた。
当の本人は変に振り解こうせず素直に受け入れているし。そんなんだから女の子が勘違いしちゃうんですよ…と心の中で彼に喝を入れたのは建前で、本音は彼の隣で楽しそうに話す彼女たちが少し羨ましいんだ。私だって夏油さんとお酒を交わしたい。
「夏油さん、年下だけど全然あり」
「いやいや先輩、彼氏いるじゃないですか」
「絶賛喧嘩中だからー」
「でも先輩の彼氏、飲み会だといつも迎えに来てくれますよね。優しい〜」
お酒の力を借りて軽く先輩を茶化せば、恥ずかしそうにむくれた。「早く仲直りしてください」と説得すれば、「はぁい」と頷いたので、その素直な姿を彼氏の前で見せればいいのにと心の中で助言しておく。
「◇さん、ヨシダさん。隣いいですか!」
ソフトドリンクのコーラを片手に灰原くんが私たちのテーブルへやってきた。彼の後ろには営業二課の男性社員が一人。
「ども〜。サカキで〜す」と軽い感じの挨拶した彼は営業課だけあって、私とほぼ初対面でもあまり気にしないらしい。さすがだ。
灰原くんは先輩の隣。サカキさんは私の隣へ腰を下ろした。
「俺、◇さんとあんまり話した事ないよね?」
「そうですね。業務連絡くらいしかしたことないかもです」
「だよね。今日は急だったのに、ヨシダさんも、◇さんも来てくれてありがとうね。俺と灰原が幹事だったんだけど、急に何人か来れなくなってさ。店も予約してたし、助かった」
「こちらこそ誘ってもらえて嬉しいです」
「お酒美味しいんで最高でーす」
先輩は灰原くんがもつソフトドリンクのタンブラーに自分のグラスをカチンと合わせる。
二人を見ていたサカキさんもふざけた様子で生ビールのジョッキを私に向けてきたので、笑いながらピーチサワーをカチンと合わせた。
普段話せない人とも交流が出来るから飲み会も悪くない。
「え、◇さんって___高校なんだ。俺もそこなんだよね」
「え!マジですか?学校の前の坂、キツかったですよね」
「そうそう。毎朝文句言いながら通ってた。でも学年は被ってないね。俺と◇さん、四歳差だもんね」
「確かに」
サカキさんと意外な接点が見つかり、思いの外盛り上がる。あの先生はどうとか、あの行事はああだったとか。お酒の力もあり、どこか砕けた話し方になってしまうが、サカキさんはそんなこと気にする様子もなく、焼き鳥に手を伸ばした。
「てか、灰原も夏油と高校同じじゃなかった?」
「そうなんですよ!」
「え、夏油さんと?」
「はい!」
サカキさんから意外な情報が共有される。私の問いかけに灰原くんは空になったタンブラーを店員さんに渡しながら元気よく答えた。お酒よりもソフトドリンク、というよりコーラが好きらしく、彼はずっと同じものを頼んでいた。
「まじでー?夏油さん学生の時もモテそう」
「おっしゃる通りですっ」
先輩の言葉に灰原くんは親指を立ててグッとサインをした。
高校生の夏油さんか。きっと今と同じく優しくて女の子にモテたんだろうな。きっと彼女も居ただろう。
ちらりと夏油さんの席に視線を向けると彼はこちらを見ていた。しかも鋭い眼差しで。反射的にパッと顔を背ける。見ようによっては夏油さんに睨まれてるんじゃないかと錯覚してしまう。
え、なに?と混乱した私は心を落ち着かせるべくピーチサワーに口をつけるが、うまく喉を通らない。中途半端に止めたおかげで咳き込んでしまい、結果的に落ち着くどころかプチ事件だ。
「ゲホッ!」
「◇さん大丈夫?」
全然問題ないです、と片手で制しながらも咳き込み続ける私の背中を、控えめにサカキさんは撫でてくれた。部署の違う先輩にこんなことをさせるなんて申し訳ない。
冷静さを取り戻し、「ありがとうございます」とサカキさんから差し出された水を一口含む。再び夏油さんの席にチラリと目を向けると、今度は視線が交わることはなく、彼は隣に座る可愛らしい女性社員と楽しそうに会話をしていた。それを見てなんだか少し腹立たしく思えてくる。私にはあんな視線をぶつけてきたのに、隣の女の子にはそんな笑顔を向けるんだ。
不満を胸に燻らせた私は注文タブレットに手を伸ばし、お酒を追加する。せっかく来たのだから、この際夏油さんのことは気にせず先輩や灰原くんたちと楽しもうと意気込み、グラスが空っぽになる度にハイペースでお酒を頼み続けた。
飲みすぎてしまった。
「うぅ……」
居酒屋の外へ千鳥足になりながら出る。程よい夜風が吹いてきて心地いい。
「二次会はカラオケでーす」
ぼーっとする頭に誰かの声が流れてきたが、それに答える余裕もない。まぁ最初から二次会に行く気はなかったのだけども。
先輩はつい先ほど、喧嘩中の彼氏が迎えに来たというのでひと足先に帰った。
「◯も彼氏に頼んで家まで送ってもらうよ。ちゃんと帰れるか心配」と腕を引かれたが、先輩と私の家はキレイに真逆なので丁重にお断りした。彼氏とも早く仲直りして欲しいし。
帰ったら連絡すること!と先輩に念を押され、それに調子良く「了解ですっ」と敬礼のポーズをとって別れた。こんなに面倒見がいい先輩をもって私は幸せ者だなとつくづく思う。
みんなが二次会の会場へ移動する中、自分が乗るべき電車を調べようとスマホを取り出したが、スルリと手から滑り落ちしてしまう。拾おうと屈むがフラフラして体がいうことを聞かない。何よりも眠い。
「◇さん、大丈夫そ?」
座り込んだ私の肩をトントンと誰かに叩かれる。振り返れば、先ほどまで一緒に飲んでいたサカキさんがいた。心配そうに覗き込み、前髪を軽く掬われた。不快に感じないのはその仕草がスマートだからだろうか。大丈夫です、ときちんと返事をしようとしたが、口から出たのは酔っ払い特有のヘラっとした言葉。
「だいじょうぶですよ〜えへへ」
「はは、全然説得力ないじゃん。電車だよね。駅まで送って行こうか?」
彼の手にはさっき落とした私のスマホが握られていた。「けーたいっ。ありがとうございます〜」とスマホを受け取り、立ちあがろうとしたが案の定よろけてしまう。
地面へダイブするのを覚悟したが、サカキさんが咄嗟に肩を支えてくれたので転ばずに済んだ。危なかった。彼にお礼を告げ、手を借りながら立ち上がったその時だった。
「彼女は私が送っていきますよ」
目の前にはお店の明かりに照らされ、穏やかな笑みを浮かべる夏油さんがいた。
ゆっくりと数回瞬きをして彼の言葉の意味を飲み込む。しかし、ぼーっとする頭では、あぁ夏油さんも帰るんだ、二次会には行かないんだ。もう女の子と交流しないんだ、と安堵することしか出来ない。
「あぁ、夏油。でも二次会は?」
「元々、一次会までの予定だったので。タクシーも呼びました」
「そうなんだ。でも、」
「彼女とは家が近いんですよ。ついでですから」
サカキさんに被せるように夏油さんがすらすらと言葉を並べる。気づくとガードレールの先にタクシーが停車していた。
二人のやりとりをなんとなく思考を停止させて眺めていると、ふいに手首を掴まれる。されるがまま引き寄せられた先にいたのは夏油さん。甘い香りが鼻をかすめるが、これは彼の匂いか女性たちの香水の香りか、今の私には判別出来ない。
「そう……じゃあ、◇さん頼むわ」
「はい。お疲れ様でした」
ハッと気づき、慌てて私はサカキさんへ「お疲れ様でした…!」とまだ残ってる力を振り絞り声をかける。ヒラヒラと手を振って彼は立ち去っていった。
お店の前にはもう私たちしかいない。急に夏油さんに掴まれてる手首に意識が集中する。彼が何も喋らないので、代わりに私が口を開く。
「げとうさん、あの」
「君は……飲み過ぎだよ」
呆れを浮かべた夏油さんは私の手を引き、そのままタクシーへ乗り込んだ。
「あ、お客さん。ちょっと待ってて下さいね。会社から電話きちゃって」
乗るやいなや、運転手のおじさんが申し訳なさそうに車の外へ出ていってしまった。突然訪れた沈黙に気まずさを覚え、酔いが醒めそうになる。
なんとなくだが、夏油さんは怒ってる気がした。戸惑う私は小さく息を吐き、窓から外の景色を眺める。そうでないと、自分の手首に意識が向いてしまう。
どうして彼は手を離さないんだろうとか。どうしてわざわざ送ってくれるんだろうとか。
窓に頭を預けると、ちょうど体勢がうまいこと車とフィットする。それが心地良くて、自然と瞼がくっついていく。あぁ、やばい寝てしまう。
数秒後、戻ってきた運転手さんと夏油さんの話し声が耳に入ってくる。それをぼんやりとする頭で聞いていた。
そして、あぁ自分の住所言わなきゃ、とふわふわする思考そのままに、私は意識を手放したのだった。
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2026/05/10