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どれにしようかなぁと、私は今日一番に頭をフル回転させていた。
社内にある自販機の前で、指と視線を上下左右に動かす。散々悩んだ末、やっぱり君に決まり! とボタンを押せば、ガコンと音を立てて取り出し口に温かいココアが落ちてきた。
「お疲れ様」
よいしょっと取り出し口に屈んでいると、後ろから声をかけられる。周りには誰もいないから私に言っているのだろう。
お疲れ様ですと振り返りながら、オウム返しをした時だ。私の愛想笑いが瞬時に固まる。
見上げるほどの長身。菩薩のような笑みを浮かべて、その男は立っていた。
今日は月曜日の午後三時。休み明けの憂鬱な気分も、あと数時間で家に帰れると思えば頑張れる。自分を鼓舞するために飲み物を買いに来たのに、今はそれを軽く後悔した。
私の目の前にいたのはあの夏油傑だった。
金曜日の出来事が記憶の隅に追いやられてきたのに、当事者が目の前にいては思い出さずにはいられない。無意識にココアを握りしめる。手のひらはジワジワと暖かくなるのに心臓は冷えていくみたいだ。
夏油さんはそんな思想を抱える私を気にも留めない。まぁ、そうだろう。彼からすれば自販機の前にたまたまいた女性社員に挨拶しただけなのだから。
夏油さんが白いワイシャツの胸ポケットから小銭を取り出す。その動作を見て、自分は自販機の前を陣取っていたのだと我に返った。「あっ」と慌てて私が横にズレると夏油さんは「すまないね」と軽く笑った。
小銭をゆっくりと機械へ押し込み、顎に手を当てて悩む姿さえも絵になる容姿だった。
私の視線に気づいた夏油さんが顔を少しだけこちらに傾けて、切れ長の瞳でジッと見つめてくる。
「すみません…」
何も悪いことはしてないのに、彼の視界の中にいることが後ろめたくなるくらい、無言の圧が私を縮こませる。
「ココア、美味しそうだね」
私の手元に視線を移した夏油さんが一言、優しく囁いた。まさか、話しかけられると思わなくて動揺した私は「美味しいですよ。この自販機の中で一番美味しいです」なんて、彼にとってはどうでもいい情報を共有してしまう。
「ふふっ、一番なんだ?」と夏油さんは可笑しそうに目を細めた。これが取引先の相手もノックアウトする夏油傑の微笑み。
ここにいるのは色んな意味で、心臓に良くない。仕事に戻ろうと彼に小さくお辞儀をし、仕事場へ踵を返したその時だ。
「見てたよね?」
静かに淡々と疑問系にも関わらず、確信めいた言い方だった。ひゅっと息を吸う。
ミテタヨネ?
長々と見つめていた事を不快に感じ、指摘されてるのか。
いや違う。主語もないのに、あの金曜日の夜のことだと分かってしまう自分がいる。
バカ私。さっさと立ち去ればよかったんだ。
「……なにをですか」
生唾を飲み込んだ。動揺を悟られないように、あえてゆっくりと振り返る。
すっとぼけてる事に彼は気づいているだろう。証拠に夏油さんはニコッとワザとらしく微笑んだのだから。
「警備員の人が教えてくれたよ。先週の金曜日。あの時間に帰ったのは君だけだとね」
個人情報ダダ漏れ。そんな簡単に教えないでよ!
微笑ましく孫の写真を見せてくれたあの警備員のおじいちゃんに後で抗議しよう。
それはそうと、裏取りされていては言い逃れ出来ない。私は諦めて素直に彼に謝罪をした。
「見てたのは、すみませんでした。たまたま声が聞こえたもので…あのだから、」
語尾が小さくなり、言い訳がましくなっていく。今更だが、あの時は好奇心をねじ伏せて、直ぐに帰るべきだった。結局、本人にバレてしまっているのだから、悪いことは出来ないなと反省。
しかし、居心地の悪い私とは裏腹に、夏油さんはどこか余裕のある表情。
「別に怒ってるわけじゃないよ。ただお願いがあってね」
覗き見を咎められる訳ではないらしい。
お願い?スーパーエリートの夏油傑が、ほとんど関わりのない、ただの総務の私に何を望むのか。社員食堂のメニューを増やせとか?
夏油さんはその長い体を折り曲げて、取り出し口から、飲み物を取り出す。それは私の手に持つものと同じココアだった。
「内緒にしてほしいんだ。あの日のこと」
ペキッと蓋が回され夏油さんは一口、ココアを飲んだ。彼が持つとココアの缶も小さく見える。「うん。確かに美味しいね」と賞賛の一言もくれた。
それを目で追いながら、…あぁ夏油さんにもバレたくない、後ろめたい気持ちが一応あるのかと感心した。
確かにあの夏油傑が二股、三股してたなんて信じたくないし、誰も幸せにならない事実。なのに、
「受付の方と付き合ってるって聞きましたけど…?」
金曜日の女性は一体どういうご関係で?
あぁ、私は何を言ってるのだ。ここは素直に、分かりました絶対に言いません、と誓っておけばいいものを。でも、同じ女としてどこか許せない部分があったのかもしれない。
金曜日見た女性は確かに、会社に来ちゃうくらい気が強くて、夏油さんにも負けじと言い返すタイプなんだろうけど、最後の悔しそうな表情の中には、悲しみがあった。
そんなことつゆ知らず、別の女性にコロコロと靡く夏油さんを目の当たりにしたら、この男、女の敵では?なんて思ってしまう。
本当は電話の人のことも聞きたかったが、ギリギリで口を噤む。
自分の罪を再認識すればいいんだ、と非難する意味も込めて恐る恐る聞けば、夏油さんは私がそんなことを聞くと思ってなかったのか、キョトンとした顔。
そのあと、んーっと親指を眉間に押し当てて、難しい顔をした。「やっぱりかぁ」と何か予想していたことが当たったようだ。
「どちらも彼女ではないかな」
「へ?」
「受付の人はご飯に一度行っただけだよ。社内の人間に手を出すと後々面倒だからね。こんな風にすぐ噂になる」
棘がある返事に、「あ、マズい」と胸がスッと冷える。今度は夏油さんの目が、女は噂が好きだろう、と私を社内の女代表として非難していた。
「金曜日の子は…まぁ友達以上、恋人未満かな?」
「へ、へぇ…」
友達以上、恋人未満って体の関係だけって意味だろう。おそらく。経験が少ない私でもそれくらいは分かる。というか、なにもそこまで私は聞いてない。
「ドン引きって顔してる」
ククッと彼は私を見て喉を鳴らした。唇が妖しく弧を描く。私は無意識に顔が引き攣っていたようで、誤魔化す為に慌てて冗談っぽくハハッと笑っておいた。
「ちなみに、言い寄ってきたのは向こうだよ。逆ナンってやつ?」
「そうなんですねぇ…」
聞いたわけでもないのに経緯を話され、ますますリアクションが取りづらい。
でも、夏油さんくらいの容姿をもってたらこれらいの女遊び普通なのかな。
引くて数多。黙っていても向こうから寄ってくるのだから、女性が途切れたことはないのだろう。
しかし、これ以上彼のそばにいると、欲しくない情報をまた共有されそうで、今度こそ私はここを去ることにした。
「言いませんよ。誰にも」
私は初めから言いふらすつもりなんてない。夏油さんを敵に回せば会社での私の立場は一夜にして消えるだろう。それは避けたい。願いが叶うなら、夏油さんの事も出来れば避けたい。
これ以上関わるのは危険だと、本能が告げてる気がするからだ。
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2026/02/26