入隊した頃からお世話になっていた狙撃手仲間の先輩がボーダーをやめるらしい。聞いたところによると、結婚を前提にお付き合いしている一般人の彼氏から「危ないからもうやめて」と言われたそうだ。

「やめたら記憶とかどうなるんですかね」
「うーん、消されるんじゃない?一般人に戻るわけだし」

だけど咲菜を忘れちゃうのは寂しいね。先輩はそう言って微笑んだ。

鳩ちゃんも全部忘れちゃったのかな。人が撃てないと思い悩んでいたことも、嫌がるユズルの頭を二人で散々撫で回したことも、私たちが仲良くなった日のことも。
私があの日鳩ちゃんに吐いた、暴言の数々も。



中しようよ



「山室先輩」

声を掛けられて顔を上げると、いつの間にそこにいたのか、怪訝そうな顔の三輪くんが目の前に立っていた。三輪くんが私に用事だなんて本当に珍しい。普段は廊下ですれ違ってもお互い会釈くらいしかしないような仲なのに。

「三輪くんおつかれ。どうしたの?」
「いえ…その、ぼんやりされていたので」

あの三輪くんが声を掛けてくるくらいだから自分はよっぽどぼーっとしていたらしい。何でもないよと首を振る私に、三輪くんは「そうですか」とえらく淡泊な返事を返した。

「…何か飲みますか」
「えっ」
「陽介が、そういうきは何か飲み物でも奢ってあげて話を聞いてやるもんだって言ってました」

あ、うん。三輪くんが自発的にそうしようと思ったんじゃないよね。いつの間にそんなチャラ男スキルを身に付けたのかと思ってびっくりしたよ…。そこで米屋の名前を出すところが三輪くんらしいんだけど。

親切心で言ってくれた三輪くんを笑っては失礼だろう。綻びそうになる口元に力を入れて「カフェオレがいいな」と注文した。



三輪くんは本当にカフェオレを買ってきてくれて、しかも本当に私の話を聞いてくれるつもりらしかった。三輪くんって人の相談とか乗れるタイプなのかな、と不安に思ったのはここだけの話である。

「お世話になった先輩が彼氏さんに言われてボーダーをやめるんだって。やめたら本当に記憶を消されるのかな」
「…そうですね。機密事項を漏らされては困るので」
「そっか、忘れちゃうのか」

じゃあやっぱり、鳩ちゃんは全部忘れてしまったんだ。きっと今鳩ちゃんに会っても、あのときはごめんねって謝っても、コイツ誰だろうって思われるんだろうな。

「なんか…忘れられるのは寂しいんだけど、ちょっと羨ましいなとも思って」

例えば私と鳩ちゃんの定位置だった食堂の隅っこの席とか、鳩ちゃんがジュースを零してシミになったラウンジのソファーとか、ふとした拍子に見せるユズルの寂しそうな顔とか。
私の周りには鳩ちゃんの存在を思い出させるものがたくさんあって、私に鳩ちゃんを忘れさせてなんかくれないのに。私があの日のことを後悔し続けている今この瞬間も鳩ちゃんは私のことなんて覚えていないのかあ。

私も忘れちゃダメかな。鳩ちゃんのこともユズルが寂しそうな顔をする理由も、二宮さんに嫌われていることも。全部全部、忘れちゃダメかなあ。
そしたらきっと鳩ちゃんがいなくなったことで寂しくなったり後悔したりすることもない。ユズルに負い目を感じることもないし、二宮さんに嫌われて傷付くこともない。何もかも分からなくなるのに。

「ごめんね、変な話して。何か疲れてるのかも」

残ったカフェオレを飲み干して立ち上がる。もう行こうか、と三輪くんに声を掛けようとして振り返ると、三輪くんはえらく真剣な顔で私を見上げていた。

「………二宮さんはどうですか?」
「…は?」

三輪くんの返答はとんでもなく斜め上に吹っ飛んだものだった。何でここで二宮さんの名前が出てくるんだ。二宮さんに頭でも殴ってもらえば記憶くらい飛ぶんじゃないかってこと?記憶どころか頭が飛ぶわ…!
般若のような形相で私の頭をぶん殴る二宮さんが容易に想像できて思わず身震いする。だけど三輪くんはいつも通り生真面目な顔で私を見つめていた。

「山室先輩も彼氏が欲しいんじゃないんですか?」
「いやそんなこと思ってないけど…何で二宮さん?」
「二宮さんだったら山室先輩がボーダーをやめる必要はないですから。あと二宮さんは優しいし強いし格好いいし面倒見もいいし」
「…う、うん?」
「どうですか?」
「どうですかと言われても…」

たしかに何も知らない三輪くんに鳩ちゃんのことなんて言えないからその辺については何も言わなかったけど。三輪くんえらく素っ頓狂なこと言うな…。
返事に困って言葉を濁していると、三輪くんが私を見上げたまま「あ」と呟いた。

「秀次」

背後からタイムリーすぎる声が聞こえた。
振り返るのが怖すぎてその場に固まった私を他所に、三輪くんは私と話すときより幾分か高い声で二宮さんの名前を呼ぶ。今の話聞かれてたらどうしよう。いや、二宮さんを褒めまくってたのは三輪くんなんだけど…!

「少し借りていいか」
「ど、どうぞ…」

二宮さんの声色も三輪くんに対するものより冷たかった。そういえばこの2人元チームメイトだったな。そう考えないとまた、嫌われてる…なんて傷付く羽目になりそうだった。
二宮さんに嫌われているのは分かりきったことだって、何度も自分に言い聞かせているのに。

二宮さんに呼ばれた三輪くんは「少し失礼します」と律儀に頭を下げると、二宮さんと一緒に廊下の向こうに歩いていった。
二人で何か話している様子をぼんやりと眺める。少し、ってことは三輪くんは戻ってくるつもりなのかな。もう解散してくれていいのに。
そう思っている間にも三輪くんは宣言通りすぐに戻ってきて、そして何故か突然「すみません」という謝罪と共に頭を下げた。

「えっ、なに!?」
「本当にすみません。さっきの忘れてください」
「さっきの…。ああ、二宮さんに何か言われた?」
「はい。…あの、知らなくて。本当にすみません」

…知らなくて、か。二宮さんが私のことを嫌ってることかな。
たぶん二宮さんは三輪くんが言ったことを全部聞いていたんだろう。私がその気になったら困るから三輪くんに訂正してくるように言ったんだ。
…そんな面倒なことしなくたって、自分が嫌われてることくらいちゃんと分かってるのに。

「…大丈夫だよ、知ってるから」

知ってるから、ちゃんと二宮さんを好きでいることをやめるから。
顔を上げた三輪くんは今にも泣き出しそうな私の顔を見て困惑した様子を見せたけど、さすがに泣きそうな女の子の扱いまでは米屋から教えてもらってなかったらしい。カフェオレありがとうね、と呟いて足早に作戦室に向かった。

今から二宮隊と模擬戦かあ。最悪だ。

title/すてき


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