センチメンタル・アンブレラ
「おばあちゃんが知り合いからぶどうをたくさんもらったから取りにおいでって」
受話器を片手に持ったお母さんからそう言われたのは、犬飼くんがまめの散歩に出かけてすぐのことだった。
家から出ないように。耳にタコができるほど犬飼くんから言われた言葉が脳裏をよぎる。おばあちゃんの家は同じ三門市内だからそんなに遠くないけど、私が犬飼くんとの約束を破って出掛けたなんて知ったら怒られるかもしれない。いや、約束っていうか一方的に犬飼くんが言ってくるだけなんだけど。
「犬飼くん、ぶどう好きなんでしょ?いつもまめの散歩に行ってもらってるし、お礼にあげたら?」
何でお母さんが犬飼くんの好きなもの知ってるんだ。ぶどうが好きとか初耳だよ。
言いたいことはいろいろあったけど、ここでうだうだ言ったところで時間は淡々と過ぎていくだけだ。犬飼くんが戻ってくる前におばあちゃんの家に行って、帰って来なくちゃいけないんだから。
脳内でおばあちゃんの家までの最短ルートを描きながらケータイで時間を確認する。犬飼くんが散歩から戻ってくるまであと二十分。私は少し悩んだあと自転車の鍵を手に取った。全速力で漕げば片道5分もかからないはずだ。最悪犬飼くんが戻ってくるまでに帰り着かなくても、好物のぶどうを渡せば機嫌を直してくれるかな。
***
散歩の途中で雨が降り始めた。
まめは雨が嫌いらしい。大好きな散歩の最中でも、雨が降ってくるとその場に伏せて動かなくなるのだ。
「はいはい、今日はもう帰ろっか」
梃子でも動こうとしないまめを抱き上げて傘を広げる。出掛け際、どんよりした空を見て傘を持たせてくれた#name2#ちゃんに感謝だ。
#name2#ちゃんの家に戻ると、出迎えてくれたのは#name2#ちゃんのお母さんだった。まめは早く家の中に入りたいのか、クンクン鳴きながらおれの腕の中で身をよじる。
「いつもごめんなさいね、犬飼くん。#name2#ったらまめの散歩は自分の仕事なのに犬飼くんに押し付けちゃって」
「全然大丈夫ですよー。そもそもおれが#name2#ちゃんに無理言ってまめの散歩を引き受けたんで」
「そうなの?ああそうそう。もうすぐ#name2#も帰ってくると思うから中で待っててくれる?」
まめを受け取ったお母さんがおれを招き入れようと玄関を大きく開けた。まめがおれの手から滑り落ちて、お母さんの脚にじゃれついている。
「#name2#ちゃん、出掛けたんですか」
血の気が引く、とはまさにこういうことを言うのだろう。足元のまめに気を取られたお母さんはおれの顔から表情が抜け落ちたことに気付かなかったようで、「ちょっとおつかいを頼んだの」と言った。
最近の#name2#ちゃんは念を押さなくても外出しなくなった。だからおれも、家から出ないという約束を口にしなくなった。言わなくても分かってくれていると油断した、おれのミスだ。
「#name2#ちゃんはどこに、」
何事もなければいい。何か起こる前に#name2#ちゃんを迎えに行かなくちゃ。冷静さを欠いた頭でそう考えて、#name2#ちゃんの行き先をお母さんに尋ねる。それを遮るように、胸ポケットに入れていたケータイがバイブ音を鳴らしながら震えた。
辻ちゃんからだ。
「……もしもし」
『辻です。犬飼先輩、どこで油売ってるんですか』
刺々した声が刺さる。辻ちゃんからこういう出だしの電話がかかってくるときはいつだって最悪な展開が待ち受けているのだ。おれはそれをよく知っている。
『防衛任務中だった三輪隊が先輩の護衛対象を保護したそうです。二宮さんがカンカンに怒っていて、すぐに本部に来るようにと言っています』
胸が鷲掴まれたように痛い。いっそ誰かが本当に、おれの心臓を鷲掴んで殺してくれればいいのに。
「……以上です」
特に興味がないらしい三輪くんが、淡々とした様子で状況説明を終えた。その隣でイライラと顔を歪ませている二宮さんとは対照的だ。
「で?」
普段より数段低い声で発言を促される。発言は促されているが許されている言葉は一つだけだ。ご迷惑をおかけしてすみませんでした。そう言って腰から上半身を折った。
「おまえが言ったんだろう。人見知りの氷見と女子が苦手な辻には荷が重いだろうから自分が一人でやると。だからおまえに任せた。それなのに何だこの様は。恋人ごっこでもしたかったのか?」
反論の余地がない。言い訳なんてできるはずがない。二宮さんの怒りは尤もだ。おれだって自分自身に呆れている。
「おまえには任務から外れてもらう。代わりに……秀次。奈良坂と古寺に頼めるか?」
「分かりました。話しておきます」
おれは腰を折ったままその会話を聞いていた。
噛み締めた唇は鉄の味がした。