金曜日の夜ほど素晴らしい時間はない。逆に月曜日の朝ほど憂鬱な時間はないけれど。

仕事帰りに寄った近所のスーパーで、2パック500円が300円にまで値下がりしていたお惣菜と、ビールを3本買った。普段ならきちんと自炊するけど、今日は金曜日だから特別。録画していたドラマを見て、お惣菜をつまみながらビールを飲む。社会人になってから学んだ至福のひと時である。私は小さく鼻歌を歌いながら、一人暮らしの自分の部屋の玄関を開けた。

「ああおかえり、思ったより早い帰宅で何よりだ。お腹が空いただろう、手を洗って早く着替えてくるといい」

マイバッグが地面に落ちて、ぐしゃっというかガシャンというか、何か変な音が聞こえた。だけどそんなことはどうでもいい。私はパンプスを脱ぎ捨て家に上がると、我が物顏でキッチンに立ち、顔だけこちらを向ける幼馴染みの腕を掴んだ。

「なんっでエミヤがここにいるわけ!?」
「おい、危ないだろう。私が火を使っているのが見えないのか?」
「どうでもいいわそんなもん!何で私の家を知ってるのかって聞いてるの!しかも勝手に上がり込んで!鍵は!?」
「君が一人暮らしを始めてからちっとも家に寄り付かないから心配だとおば様が言うものだからね。私が様子を見に行くと言えば快く貸してくださった」
「嘘つけ!月に一回は帰ってるわ!」
「嘘つきは君の方だろう。隣県に就職すると言っておきながら、まさかこんなに近くで一人暮らしをしているとはな」

昔からエミヤと口論になっても言い負かされてばかりだったが、社会人になってもそれは変わらないらしい。エミヤはぐうの音も出なくなった私の手を払うと、「早く着替えて来い」と言って、視線を手元のフライパンに戻した。私は悔しさに唇を噛みながら、とりあえず着替えて仕切り直しだと寝室のドアを開けて、悲鳴を上げる。

「何だ、虫でもいたのかね?まったく君という奴は…」
「何呆れてんの!?アンタのせいに決まってるでしょうが!何!?私の洗濯物…!し、した、下着…!!触ったの!?」
「触らないと畳めないだろう。馬鹿なのか君は」
「馬鹿なのはお前だ!女の子の下着を勝手に畳むとか何考えてるんだ!!」

出勤する前にベランダに干して出掛けたはずの洗濯物が、綺麗に畳まれてベッドの上に置かれていた。そして一番上には、これまた丁寧に畳まれた、私のパンツとブラジャーが。

「何だその言い草は。人が親切に洗濯物を取り込んで畳んでやったというのにお礼の一つも言えないのかね?」
「それはどうもありがとう!でも普通に考えて女の子の洗濯物なんて見ないフリをするのが正解だよね!?」
「安心してくれ。君の下着を見ても何とも思わないから」

私の怒りにもどこ吹く風で、エミヤはフライパンを振りながら「君は私がただの布切れに発情するとでも思っているのか?」と鼻で笑った。
腹立つ。こいつのこういう所が嫌いで、だから私は、社会人になると同時にこいつと縁を切ろうと思って…。

「おい、もうすぐ出来上がるぞ。早く着替えて来ないか」
「……はあい」

今の私はさぞ不貞腐れたような顔をしているのだろう。ドアを閉める直前、台所から呆れたような溜め息が聞こえて来た。



***



エミヤは私が5歳くらいのときに隣の家に引っ越して来た、所謂幼馴染みという存在だった。面倒見が良くて世話焼き…と言えば聞こえはいいが、過保護で口煩く、喧しい。口を開けばやれスカートが短いだの、好き嫌いはするなだの、門限は18時だの。お前は私の保護者か?と言いたくなるようなことばかり言われ続けた。ちなみにうちの両親ですらここまで煩くはない。もしかすると、エミヤがあまりにも五月蝿いから両親が口煩く言う必要がなかったのかもしれないが。

「お前、俺がいないと何もできないもんな」

それがエミヤの口癖だった。
朝起きるのが苦手な私を起こしに来るのはエミヤ。私のお弁当を作るのもエミヤ。登下校はもちろん、学校でもいつも一緒。片付けが苦手な私の代わりに部屋の掃除をしたり、両親が不在のときは夕飯を作ってくれたり、出掛けるときは「荷物持ちが必要だろう」と引っ付いてきたり。おかげさまで男友達どころか同性の友達すら出来なかった。彼氏なんて最早言うまでもない。
面倒見が良くて何でも出来る自慢の幼馴染みは、いつのまにか「ウザい」存在になっていた。それでも本人は親切心でやっているつもりなのだから本当にタチが悪い。私の気持ちなど露知らず、口煩い幼馴染みは大学生になってさらにウザくなった。

あれは忘れもしない、大学3年生のバレンタインの日。私はその日、同じ研究室の先輩に告白しようと思っていた。子供の頃からエミヤ以外の人とほとんど話したことがなかった私が、初めて仲良くなった先輩だった。
料理なんてしたことがなかったから、癪ではあったけれどエミヤに頭を下げて、ガトーショコラの作り方を教えてもらった。一生懸命作って、雑誌の見様見真似で精一杯おしゃれをして、先輩を大学に呼び出した。
呼び出しに二つ返事で了承し、待ち合わせ場所に現れた憧れの先輩に、私は拙い言葉を必死に紡ぎながら自分の気持ちを伝えようとした。

「ああ、様子が可笑しいと思えば、こういうことか」

ドキドキと煩かった心臓が一度だけどくんと跳ねて、急に静かになった。先輩が何事かと振り返った先に、幼馴染みが立っていた。その姿を認めた瞬間、ああ終わったと、言い知れない脱力感に襲われた。

「普段滅多に台所に立たない君が珍しく菓子の作り方を教えてほしいなんて言い出したものだから、どうしたのかと思ってみれば…」

エミヤは小馬鹿にしたような調子でそう言った。ガトーショコラが入った紙袋を握る手が震えているのは、決して寒さのせいではない。
エミヤは私の様子に気付くことなく、饒舌に話し続ける。

「これを機に少しは料理の勉強もしたらどうだね?ああ、その前に君はあの散らかり放題の自分の部屋をどうにかする方が先かな。…む、何だその顔は。私は事実を述べたまでだが?」

もう我慢できないと思った。
何だこの男は。一世一代の私の告白を邪魔するだけでは飽き足らず、涼しい顔をして散々に貶して。しかもよりにもよって先輩の前で。酷い。あり得ない。
私の様子が可笑しいことに気付いたのは、エミヤよりも先輩の方が先だった。窺うように先輩から名前を呼ばれて、そこで初めて、エミヤは私が怒っていることに気付いたらしかった。まあ怒っていると言うより、不貞腐れていると思ったようだったが。

「君は昔から、気に入らないことがあるとそうやってすぐ黙り込むな。言いたいことがあるならはっきり言わないか」

ああそう、それじゃあこの際だからはっきり言わせてもらおう。
私はギリギリと歯を食いしばりながら、心配そうに私の名前を呼ぶ先輩の側を通り過ぎて、幼馴染の前に立った。それからもう随分と前に私の身長を抜き去った幼馴染みの顔を見上げる。

「……エミヤ」
「何だね」
「二度と私に構わないで」

そう言うと共に紙袋をエミヤの胸に叩きつけた。羞恥心と怒りで涙を零す私を見ても、エミヤは、癇癪を起こした子どもを見る親のような顔をしていた。おそらく「またかコイツ」みたいな軽い気持ちで、事の重大さに気付いていなかったのだろう。

私は努力した。エミヤが起こしに来るよりもずっと早い時間に起きて、大学に行って、積極的に同級生たちに話し掛けた。いつもはエミヤに作ってもらっていたお弁当も自分で作るようになった。万が一エミヤに見られても文句を言われないように、彩に気を付けつつ、なるべく冷凍食品やお惣菜は使わず、バランス良く、を心掛けた。部屋もほぼ毎日掃除したし身だしなみにも常に気を配った。激変した幼馴染みを見てエミヤは少々戸惑っていたようだが、私はと言えばそれを全く意に介さず、以前よりも広がった交友関係、自立することの素晴らしさに、一種の感動を覚えていた。
そして。

「君、就職はどうするんだ?」

私の交友関係が広がったことで、以前は一日のほとんどの時間を一緒に過ごしていたエミヤとは、週に1、2回ほどしか顔を合わせなくなった。大学こそ同じだったが学部が違ったので、避けようと思えば簡単に避けられたと言うのもある。
昔は誰よりも私の成績や進路に詳しかったはずのエミヤがそんな質問をするくらい、私とエミヤは疎遠になっていた。

「お隣の県に就職が決まったの。四月から一人暮らしなんだ」
「…一人暮らし?君が?」
「なに、そんなに意外?心配しないでよ、もう昔みたいにエミヤが居なくたって、一人で何でも出来るようになったでしょ?」

そのときエミヤがどんな顔をしていたのか、正直よく覚えていない。

「……どうだかな」

あとついでに、自分がそんなエミヤを見てどう思ったのかも。そのときはたしかにざまあみろエミヤ!と優越感に浸っていたはずなのに、思い出すのはいつも、幼馴染みに初めて嘘をついたという罪悪感ばかりだ。
私の就職先が決まったなんて大嘘だった。その年はニュースや新聞で頻繁に取り上げられる程の就職難で、私の手元には不採用通知しか届かなかったのだから。

title/秋桜
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